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この空色バス、春先行き。【完結】  作者: 猪野いのり
第二章 安全運転にて走行中《2年生編》
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Ep.27 感情パレット(5・終)「彩り」

 当時のうだるような暑さが嘘のように、今、俺を包む屋上の風は優しかった。

 オレンジ色も薄れて、紺青色が10月の空に広がっている。


 神林 猛:

「そろそろ、帰るかな」


 誰ともなしにつぶやく。

 眼下の街中にも影が落ちて、暗くなり始めていた。

 今日、この場所は俺と沙都子だけの場所ではなくなった。

 堂本くんを招いたこの屋上。

 もうきっと、俺がここに来ることはない。

 そう。

 それが俺のけじめだ。


 しかし、その時ふと見つめた街の中。

 見つけてしまった人物に、俺は目を疑った。


 神林 猛:

(………え)


 嘘だろ。


 喉が乾く。


 神林 猛:

「沙都……子?」


 見間違いかもしれない。

 だって、沙都子が引っ越してから2年以上経っている。

 でも俺は、突き動かされる衝動のまま、屋上を飛び出した。



❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀


 感情パレット

(5)「彩り」


❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀



 あの屋上から、よく見つけられたものだと思う。

 商店街の人通りの多い中、見つけたその姿。

 屋上からは小さく見えたそのシルエットを、すぐにあの人だとわかった俺は、案外女々しいやつだったのかもしれない。


 神林 猛:

「──沙都子!」


 小さく叫んで声を背中に投げつけた。

 振り返ったその人はやはり、俺を優しくフッてくれた女性。

 2年前と変わらぬ、沙都子だった。


 沙都子:

「……猛!?」


 振り返った沙都子は、ビックリして俺を見つめる。

 長かった髪の毛はボブヘアとなっており、以前よりも若く見えた。

 ロングスカートのワンピースが、秋風になびいて俺を出迎える。


 沙都子:

「うわー、久しぶり! 大きくなったねぇ!」


 神林 猛:

「沙都子は小さくなったな」


 沙都子:

「あんたがでかくなっただけなの!」


 彼女は、変わらぬえくぼを頬に浮かべて笑った。

 そんな彼女と俺は、離れていた年月の空白を一気に埋めて、互いに笑いあう。


 神林 猛:

「なんでここにいるの?」


 北海道に引っ越した沙都子。

 遠い地のそこから戻ってくることは少ないと、彼女の両親は嘆いていた。

 彼女がいなくなった後も、彼女の両親との交流は続いている。

 沙都子は、少しはにかんで笑った。


 沙都子:

「ふふ。里帰り出産ってやつ」


 神林 猛:

「え!?」


 その言葉と同時に正面を向いた彼女。

 お腹をさすったその手を、俺は凝視した。

 グレーのワンピースはたしかに、その辺りを少しだけこんもりさせているように見えた。


 神林 猛:

「え、沙都子……子どもできたの?」


 沙都子:

「そ! 年明けくらいかな〜、生まれるのは」


 女の子なんだよ、と彼女はとても幸せそうに笑う。


 神林 猛:

(子ども……)


 神林 猛:

(沙都子が……母親に……)


 たしかめるように、何度もその言葉を頭の中で繰り返した。

 大きくなった彼女のお腹と、その笑顔を見つめる。

 胸が熱い。何かがこみ上げてくる。


 この今の感情を、どう表せばいいのだろう。

 俺は彼女が好きだった。

 それは家族愛にも似た、でも恋愛感情もあるものだと思っていた。


 でも、どうしてかな。

 彼女が母親になる。

 その事実は、どうしようもない喜びを俺にもたらして、心を奮わせてきたんだ。


 そうして俺は。


 名付けられることのない感情も、この世にあるのだと知る。


 神林 猛:

「……ははは」


 小さく笑みがこぼれた。

 気がつけば、じんわりと目尻を濡らすものがあふれていて、慌てて目元を手で隠した。


 神林 猛:

「──おめでとう」


 神林 猛:

「本当に、おめでとう」


 そうして沙都子は、笑ってくれた。

 俺の大好きな、あのえくぼの浮かぶ表情で。


 沙都子:

「……ありがとう」


 沙都子は俺の涙に、気づいていただろうか。

 気づいていないといいなと、俺はグイッと目をこすって、彼女と視線を合わせ微笑んだ。



 ・   ・   ・



 沙都子と商店街で別れて、家へと向かう。

 帰り道の途中で、沙都子よりも大きなお腹の妊婦さんとすれ違った。


 息子さんだろう男の子を隣に連れていて、その子は俺より少し年下くらいに見える。


 男の子:

「母ちゃん、本当最近みかん好きだよなー」


 妊婦さん:

「何かねー、食べたくなっちゃうのよ」


 そんな会話をしながら、すれ違う2人。

 男の子はビニール袋いっぱいのみかんを揺らしながら、母親を守るように、車道側に寄り添って歩いていく。


 そんな後ろ姿に、いつしかの俺と沙都子の姿がかぶる。


 神林 猛:

「………」


 なぁ沙都子。

 俺にとってあんたは、

 母親のようであり、

 姉のようであり、

 友人であり、

 愛しい人だった。


 それは、時や成長によって変わっていく。

 パレット上の絵の具のように、一定にはならない。


 でも。でもさ。

 1つだけ変わらないことがあるんだ。


 あんたの存在が、俺に知らない感情を教えてくれるということ。


 1人でいた時の寂しさも。

 悪事をした時の後ろめたさも。

 人と食事を囲うときの楽しさも。

 愛しいという感情も。

 変わらぬものはないと知った時の、切なさも。


 あんたが全部、教えてくれたんだよ。

 俺のパレットに色を、たくさん与えてくれた。

 あんたは──あんたは俺にとって、そんな存在なんだよ。



 神林 猛:

「……さて、と」


 小さく口の中でつぶやいた。

 帰ったら勉強をしなければ。

 今の俺には、やらなければならないことが、たくさんある。

 希望大学は県外だ。いつしか俺も、この街を出ていくのだろう。

 もう、あの屋上へは行かない。

 昔の俺を、あそこに置いてゆく。


 オレンジ色に映えた夕焼けに甘えるのは、今日が最後。

 与えられるばかりの立場はもういやだから。

 いつしか俺も、色を与えられる存在になれますように。

 そして願わくばこの先、与え合うことのできる誰かに、出会えますように。


 夕焼けに溶けきっていない切なさを吐き出すように、夜に移り変わる空を見上げた。




 ◇ 終わり ◇

❀次エピソードへ続く

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