Ep.27 感情パレット(5・終)「彩り」
当時のうだるような暑さが嘘のように、今、俺を包む屋上の風は優しかった。
オレンジ色も薄れて、紺青色が10月の空に広がっている。
神林 猛:
「そろそろ、帰るかな」
誰ともなしにつぶやく。
眼下の街中にも影が落ちて、暗くなり始めていた。
今日、この場所は俺と沙都子だけの場所ではなくなった。
堂本くんを招いたこの屋上。
もうきっと、俺がここに来ることはない。
そう。
それが俺のけじめだ。
しかし、その時ふと見つめた街の中。
見つけてしまった人物に、俺は目を疑った。
神林 猛:
(………え)
嘘だろ。
喉が乾く。
神林 猛:
「沙都……子?」
見間違いかもしれない。
だって、沙都子が引っ越してから2年以上経っている。
でも俺は、突き動かされる衝動のまま、屋上を飛び出した。
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感情パレット
(5)「彩り」
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あの屋上から、よく見つけられたものだと思う。
商店街の人通りの多い中、見つけたその姿。
屋上からは小さく見えたそのシルエットを、すぐにあの人だとわかった俺は、案外女々しいやつだったのかもしれない。
神林 猛:
「──沙都子!」
小さく叫んで声を背中に投げつけた。
振り返ったその人はやはり、俺を優しくフッてくれた女性。
2年前と変わらぬ、沙都子だった。
沙都子:
「……猛!?」
振り返った沙都子は、ビックリして俺を見つめる。
長かった髪の毛はボブヘアとなっており、以前よりも若く見えた。
ロングスカートのワンピースが、秋風になびいて俺を出迎える。
沙都子:
「うわー、久しぶり! 大きくなったねぇ!」
神林 猛:
「沙都子は小さくなったな」
沙都子:
「あんたがでかくなっただけなの!」
彼女は、変わらぬえくぼを頬に浮かべて笑った。
そんな彼女と俺は、離れていた年月の空白を一気に埋めて、互いに笑いあう。
神林 猛:
「なんでここにいるの?」
北海道に引っ越した沙都子。
遠い地のそこから戻ってくることは少ないと、彼女の両親は嘆いていた。
彼女がいなくなった後も、彼女の両親との交流は続いている。
沙都子は、少しはにかんで笑った。
沙都子:
「ふふ。里帰り出産ってやつ」
神林 猛:
「え!?」
その言葉と同時に正面を向いた彼女。
お腹をさすったその手を、俺は凝視した。
グレーのワンピースはたしかに、その辺りを少しだけこんもりさせているように見えた。
神林 猛:
「え、沙都子……子どもできたの?」
沙都子:
「そ! 年明けくらいかな〜、生まれるのは」
女の子なんだよ、と彼女はとても幸せそうに笑う。
神林 猛:
(子ども……)
神林 猛:
(沙都子が……母親に……)
たしかめるように、何度もその言葉を頭の中で繰り返した。
大きくなった彼女のお腹と、その笑顔を見つめる。
胸が熱い。何かがこみ上げてくる。
この今の感情を、どう表せばいいのだろう。
俺は彼女が好きだった。
それは家族愛にも似た、でも恋愛感情もあるものだと思っていた。
でも、どうしてかな。
彼女が母親になる。
その事実は、どうしようもない喜びを俺にもたらして、心を奮わせてきたんだ。
そうして俺は。
名付けられることのない感情も、この世にあるのだと知る。
神林 猛:
「……ははは」
小さく笑みがこぼれた。
気がつけば、じんわりと目尻を濡らすものがあふれていて、慌てて目元を手で隠した。
神林 猛:
「──おめでとう」
神林 猛:
「本当に、おめでとう」
そうして沙都子は、笑ってくれた。
俺の大好きな、あのえくぼの浮かぶ表情で。
沙都子:
「……ありがとう」
沙都子は俺の涙に、気づいていただろうか。
気づいていないといいなと、俺はグイッと目をこすって、彼女と視線を合わせ微笑んだ。
・ ・ ・
沙都子と商店街で別れて、家へと向かう。
帰り道の途中で、沙都子よりも大きなお腹の妊婦さんとすれ違った。
息子さんだろう男の子を隣に連れていて、その子は俺より少し年下くらいに見える。
男の子:
「母ちゃん、本当最近みかん好きだよなー」
妊婦さん:
「何かねー、食べたくなっちゃうのよ」
そんな会話をしながら、すれ違う2人。
男の子はビニール袋いっぱいのみかんを揺らしながら、母親を守るように、車道側に寄り添って歩いていく。
そんな後ろ姿に、いつしかの俺と沙都子の姿がかぶる。
神林 猛:
「………」
なぁ沙都子。
俺にとってあんたは、
母親のようであり、
姉のようであり、
友人であり、
愛しい人だった。
それは、時や成長によって変わっていく。
パレット上の絵の具のように、一定にはならない。
でも。でもさ。
1つだけ変わらないことがあるんだ。
あんたの存在が、俺に知らない感情を教えてくれるということ。
1人でいた時の寂しさも。
悪事をした時の後ろめたさも。
人と食事を囲うときの楽しさも。
愛しいという感情も。
変わらぬものはないと知った時の、切なさも。
あんたが全部、教えてくれたんだよ。
俺のパレットに色を、たくさん与えてくれた。
あんたは──あんたは俺にとって、そんな存在なんだよ。
神林 猛:
「……さて、と」
小さく口の中でつぶやいた。
帰ったら勉強をしなければ。
今の俺には、やらなければならないことが、たくさんある。
希望大学は県外だ。いつしか俺も、この街を出ていくのだろう。
もう、あの屋上へは行かない。
昔の俺を、あそこに置いてゆく。
オレンジ色に映えた夕焼けに甘えるのは、今日が最後。
与えられるばかりの立場はもういやだから。
いつしか俺も、色を与えられる存在になれますように。
そして願わくばこの先、与え合うことのできる誰かに、出会えますように。
夕焼けに溶けきっていない切なさを吐き出すように、夜に移り変わる空を見上げた。
◇ 終わり ◇
❀次エピソードへ続く




