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この空色バス、春先行き。【完結】  作者: 猪野いのり
第二章 安全運転にて走行中《2年生編》
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Ep.27 感情パレット(4)「君が好き」

 季節は夏だった。

 ジリジリと照りつけられる屋上に、真昼間に来るなんてバカだった。

 風も吹かないこの空間はただ、俺の体力を奪うだけだ。


 神林 猛(中3):

「……あちぃ」


 間違えた。

 今は夕焼けも見られないし、こんなところに来る必要なんてなかったのだ。

 帰ろうと、俺はフェンス前から身をひるがえした。

 しかしちょうどそこに、今来たばかりの沙都子が姿を現す。


 沙都子:

「ああ、やっぱりここにいた」


 差し込む日光が眩しそうに、彼女は目を細めた。


 神林 猛(中3):

「……沙都子」


 彼女には、この屋上のことを教えていた。

 俺と沙都子。

 この場所は、俺たち2人だけの秘密の場所だったんだ。



❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀


 感情パレット

(4)「君が好き」


❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀ ❀



 沙都子:

「食材を棚に戻してたら、遅くなっちゃった」


 また買い出し付き合ってよね、なんて彼女は言う。

 近づく彼女から遠ざかるように、俺は背後のフェンスに背中を預けた。

 ガシャンと、金具の響く音が鳴る。


 神林 猛(中3):

「何で追ってきたの」


 と言った俺に。


 沙都子:

「何で逃げたの」


 と彼女は言う。

 質問返しだなんて、イヤなやつ。


 俺は眉間にしわを寄せて、頭を掻いた。

 暑い。

 頭が日光でクラクラする。

 たらりと額から流れる汗が、俺の正常な思考回路を溶かしているようだった。


 どうして、俺は逃げたんだろうか。

 どうして俺は、沙都子の結婚に心乱されたのだろうか。

 そんなの、単純に考えれば簡単なこと。

 俺は、沙都子が好きだ。

 だから、ポッと出の男なんかに奪われたくなかった。


 俺は、あのもみあげ男が嫌いだった。

 沙都子と出会ったのなんて、俺より後のくせに、とんとん拍子で彼氏になりやがった。

 沙都子をあの食卓から引きずり出そうとする男に、腹が立つ。


 神林 猛(中3):

「沙都子……」


 沙都子:

「ん?」


 神林 猛(中3):

「……俺、沙都子が好きだ」


 沙都子の目が見開いた。

 そんな沙都子に、俺はどこか、ぼぉっとしながら右手を差し伸べる。

 彼女の頬に滑り込ませると、髪をかきなぜた。彼女の髪も、汗でしっとり濡れていた。


 神林 猛(中3):

「結婚なんか、しないでよ」


 沙都子:

「……猛」


 戸惑う彼女が、俺の名を呼んだ。

 俺は不器用に、彼女を抱きしめた。

 暑い炎天下の中、むわっと互いの体温と汗が鼻をつく。


 でも、それさえも俺の心をぎゅっと締め付けて、何だか切なくさせた。

 激しくなる動悸はきっと、彼女にも伝わっている。

 恥ずかしいけど、丸聞こえなんだろう。


 そうだよ、俺は沙都子が好きだよ。

 導き出したその答えは、俺に安堵をもたらす。

 腕の中で沙都子は、そっと俺の胸を押した。

 いつの間にか、俺より小さくなっていた彼女はこちらを見上げ、優しく笑う。


 沙都子:

「私も……あんたが好きだよ」


 神林 猛(中3):

「!」


 沙都子:

「家族のように……愛しく思ってる」


 神林 猛(中3):

「………」


 神林 猛(中3):

「……!!」


 もし、他人がこの会話を聞いていたのならば。

 彼女のこの言葉は、ひどく残酷なものだったろう。

 男が女に好きだと伝える。

 それがどんな意味を持っているのかなんて、普通に、単純に考えればわかるものだ。


 でも。

 でも、そうだ。

 俺たちは普通じゃなかった。


 普通じゃない出会いをして、不思議な食卓を囲んで、不思議な絆を築いていた。

 そう、それはまるで。

 恋というには、あまりにも尊くて。

 愛というには、あまりにも拙い感情。


「家族のように愛しく思ってる 」

 彼女の、この言葉。

 それを誰よりも欲していたのは、他でもない───俺だった。


 神林 猛(中3):

「……っ!」


 顔が赤くなる。

 暑さのせいじゃない。

 俺の本音を、沙都子がとっくに見透かしていたことがわかって、いたたまれなくなったからだ。


 そうだよ、俺は悔しかったんだ。

 せっかく手に入れた、沙都子という存在。

 孤独だった俺に、温かい空間と食卓を与えてくれた彼女を取られることが、どうしても嫌だった。


 恋愛感情という、わかりやすい感情のタグをくくりつけて。

 でもその内面にあったのは、ただ母親を見失った迷子のような、幼い寂しさだったんだ。


 バカな俺。

 出会った頃から、何にも変わっちゃいない。


 沙都子:

「──ねぇ、猛」


 沙都子は、少し困ったように笑っていた。

 薫風が地上から吹き上げ、この屋上まで届いて彼女の髪を揺らす。


 沙都子:

「私は新しい家族を作るけど、今の家族と別れるわけじゃないの」


 沙都子:

「つながっているの。離れていても」


 神林 猛(中3):

「離れて……いても?」


 その単語に嫌な予感がして、思わず繰り返す。

 沙都子はその予感に答えるように告げた。


 沙都子:

「私、結婚したら北海道に引っ越すの」


 神林 猛(中3):

「え!?」


 沙都子:

「彼の実家がそっちで……農家を受け継ぐんだって」


 酪農家なのよ、なんて沙都子は笑う。


 神林 猛(中3):

「沙都子も手伝うの?」


 沙都子:

「当たり前。農家の嫁よー! 超大変!」


 神林 猛(中3):

「似合わないな」


 沙都子:

「まぁやってたら、似合うようになるかもよ?」


 社畜ライフもこれでおしまいね、なんて彼女は笑う。

 えくぼが浮かび、日光によって濃い影を作っていた。


 可愛い沙都子。

 年上のくせに、屈託なく笑う。

 俺は、そんな沙都子が大好きだ。

 その時の感情は、恋愛と呼ぶには少し、違ったかもしれないけれど。


 でもちょっとだけ──その要素も入っているのかもしれないなんて思った。


 だって感情なんて、一括りにできないんだ。

 いつだって変化して、変わっていって。

 パレット上の絵の具のように、様々な感情の色をそこに作り上げていく。

 俺のパレットにある今の色も、きっと変化していく。


 ただ、今は──。


 神林 猛(中3):

「沙都子」


 沙都子:

「ん?」


 それはきっと、夏の暑さのせいだ。

 この炎天下なら、神様もきっと許してくれる。


 沙都子の額にキスをした。

 汗ばんだ彼女の額は、少しじっとりとしていて俺の唇を濡らした。


 沙都子:

「!!」


 彼女は珍しく俺に赤い顔を向け、額を抑える。

 俺も恥ずかしかったけど、俺のせいで赤くなった沙都子の表情が見られて嬉しかった。

 絞り出すように言葉を吐く。


 神林 猛(中3):

「……幸せになれよな!」


 沙都子:

「!」


 彼女はまだ額に手を当てたまま、えくぼを作って笑った。


 沙都子:

「……うん!」



 そうして彼女は、この街からいなくなった。




 ◇ 続く ◇

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