第8話 夏休み明け④
翌朝、黒川はいつもより少し早く教室にいた。いつもの席に、いつもの姿勢で座っている。横には田中もいた。
俺が教室に入ったとき、黒川がこちらを見た。でも、すぐに視線を外した。怒鳴ってくるわけでもない。何か言ってくるわけでもない。昨日のことなんて最初からなかったみたいに、田中と低い声で話していた。
俺が席に着いても、何も起きなかった。
◇
その後も、黒川たちは俺に何もしてこなかった。
廊下ですれ違っても、黒川は視線を合わせない。田中はもっとわかりやすかった。昼休みに出くわしたとき、一瞬だけ俺を見て、すぐに目を逸らした。逸らすのが早すぎた。
怖がっているのが、丸わかりだった。
笑えた。
結局はそういう奴らだった。
でも俺も何も言わなかったし、話しかけもしなかった。お互いがお互いの存在を、なかったことにするみたいだった。教室では別々の空気を吸う。
それだけの関係になった。
◇
2学期に入ってからも、ミッションは続いていた。
朝の読書。授業中の発言。放課後の自主学習。毎日のトレーニング。睡眠と食事管理。
夏休みほど派手なものではない。達成報酬も、劇的に数字が跳ね上がるようなものではなかった。
それでも、こなした分だけ少しずつ数字は動いた。
ステータスアップは夏休みみたいに劇的じゃない。でも、少しずつ前に進んでいる感覚はあった。
◇
2学期が始まって3週間くらい経った頃、最初の変化が来た。
昼休みに席で弁当を開こうとしていたとき、後ろの席の伊藤が声をかけてきた。
伊藤俊介。
黒川の側でもないし、目立って仕切るタイプでもない。でも、教室の空気の中では自然に真ん中にいるやつだ。
「天野って、昼どうしてんの?」
「最近はだいたいここで食べてるけど」
「あ、そう。ならさ、俺らと一緒に食おうぜ。せっかくなら人数多いほうが楽しいし」
俺は少しだけ伊藤の顔を見た。笑っていた。
「ありがとう。じゃあ行く」
そう言って弁当を持って立ち上がる。伊藤が少し目を丸くして、それからにっと笑った。
「お、即決じゃん。いいね。じゃあこっち!」
◇
伊藤の周りには、近くの席の男子たちがいた。席に着くと、何人かが俺を見た。でも、それは値踏みする目じゃなかった。
「天野って、夏休みどっか行った?」
「いや、どこも行ってない。ずっとトレーニングしてた」
伊藤が弁当を開けながら笑う。
「夏休み全部それ!? ストイックすぎんだろ!」
「いや、でも見た目の説得力がすごいもんな。少年漫画の修行明けじゃん」
別の男子が、俺の肩や腕を見ながら言った。
「身長11cm伸びたって話、本当なのか?」
「本当。11cm伸びて176cmになった。気づいたら制服が短くなってて、さすがに焦った」
伊藤がまた笑った。
「天野の体、面白すぎんだろ。夏の自由研究にすればよかったわ」
「割と面白い研究対象だとは思う」
「真面目に返すなよ! 余計面白いわ」
伊藤が笑い、周りもつられて笑った。
笑いの中に、俺がいた。俺が言ったことで笑いが起きて、俺もそこに混ざっていた。
それ以来、伊藤たちとは昼を一緒に食べることが増えた。
◇
3週目に入った頃、体育でバスケットボールをやった。
チーム分けのとき、伊藤が迷いなく手を上げる。
「天野、こっち来てよ」
それだけで、少し胸の奥が軽くなった。
1学期なら、俺の名前は最後まで残っていた。誰も欲しがらない駒だった。でも今日は違う。俺を最初から数に入れてくれるやつがいる。
試合では、思ったより体が動いた。派手なプレーはできない。ドリブルも切り返しも、まだぎこちない。けれど、夏休みに走り込んだ足と、鍛えた体幹は使える。
相手に当たられても、前みたいに簡単には弾かれない。ゴール下で体を張る。リバウンドに手を伸ばす。空いた味方にパスを出す。それだけでも、ちゃんと試合に入れた。
「天野、結構運動できるな」
「体も強いよな」
伊藤たちの声が飛ぶ。その声の中に、自分の居場所が少しだけできていた。
ただ、少し離れたコートでは黒川があっさり点を決めていた。黒川は帰宅部なのに、動きが速い。反応もいい。体の使い方そのものがうまい。
田中が「黒川マジでセンスあるわ」と大きな声で笑う。
俺はそれを見て、はっきりわかった。今はまだ、運動神経では黒川に勝てない。
でも、いずれは超える。
その気持ちだけが、胸の奥に残った。
◇
体育が終わったあと、更衣室で伊藤が言った。
「天野ってLINEやってるよね?」
「入れてるよ」
「じゃあ交換しようぜ。遊ぶとき便利だし」
近くにいた男子たちも、「俺も」「じゃあ俺も」と続いた。QRコードを読み取る。あっという間だった。
◇
昼休みに教室を歩くと、見覚えのあるゲーム画面が目に入った。
1学期の頃、俺がかなりやり込んでいたゲームだった。プレイしていたのは川島沙也加だった。黒ぶち眼鏡をかけた、静かなタイプの女子だ。
でも、編成を見ればわかった。かなりやっている。
「その編成、まだ使えるんだ」
川島がびくっとして顔を上げる。
「……え? 天野くんも、これやってたの?」
「1学期まではかなり。今はほとんど触ってないけど」
そこから、少しだけゲームの話をした。川島は普段よりずっと早口で、今の環境やキャラ評価を話してくれた。
昔の俺が好きだったものは、まだ俺の中に残っていた。変わる前の俺が、全部消えたわけじゃない。
そしてそれは、誰かとの距離を縮めることもあるらしかった。
「じゃあ、LINE交換しようよ。たまにこういう話したい」
「いいよ」
QRコードを読み取る。スマホの友だち欄に、川島沙也加の名前が増えた。
◇
ある日の昼休み、数学の応用問題で手が止まった。
前なら諦めていた。でも今は、わからないままにしておくのが気持ち悪い。
「橘」
橘が顔を上げた。
「なに?」
「橘なら、この問題の解き方わかる?」
問題集を少し傾けて見せると、橘は身を寄せてきた。問題文を見て、10秒ほど黙る。
「わかる。この式、途中を飛ばしてる」
橘がノートの端に式を1つ書いて、短く解説してくれた。それだけで、詰まっていたところがほどけた。
「……めっちゃわかりやすい」
橘は少しだけ目を細めた。笑ったのかどうか、ぎりぎりわかるくらいだった。
「なら、よかった」
「やっぱりすごいな。橘、前回の期末も学年上位だっただろ。何位だったっけ?」
「見てないからわからない」
「え。見てないの?」
「うん。貼り出されてたのは知ってる。でも、別に気にならなかった」
「……ああ、そうなんだ」
それだけ高い順位なのに、見ていないなんて。やっぱり変わったやつだ。
「あのさ」
橘がこっちを見る。
「また勉強でわかんないとこあったら聞きたいんだけど」
「うん」
「よかったら、LINE交換しない?」
言ったあとで、少しだけ心臓が速くなった。でも、橘は特に驚いた顔もせず、いつもの調子で言った。
「いいよ」
あっさりしていた。
QRコードを読み取る。連絡先が、また1つ増えた。
しかも今回は、俺から言った。それが少し不思議だった。
◇
ある日、昇降口で靴を履き替えていたとき、後ろで同じクラスの女子たちの声が聞こえた。たしか窓側の席のグループだった。
「ねえ、天野くんってさ、最近なんかすごくいい感じじゃない?」
「わかる。前より全然話しかけやすいよね」
「今は普通に感じいいし。背も高くなったし、顔も普通に整ってるし」
「顔立ち自体は前から悪くなかったのかな。太ってたから気づかなかっただけで」
「どうなんだろ。でも今は普通に気になるよね」
声が少しずつ遠ざかっていった。
◇
帰り道、川沿いを歩きながら、ここ最近のことを順番に思い返した。
伊藤たちと昼を食べた。体育で声を掛け合った。川島とゲームの話をした。橘には勉強を教わった。LINEも増えた。クラスの女子にも話題にされていた。
1学期には、なかったことばかりだ。
同じ学校で、同じ廊下で、同じ教室で。俺のステータスが変わっただけで、見える世界が変わっている。
これが学校生活か。
本当に、初めてそう感じた。
ドラマとか漫画で見ていた、あの「学校生活」だ。誰かに声をかけられて、笑って、話して、それが当たり前みたいに続いていくやつ。
うれしかった。
認められている、という感覚がたしかにあった。
その感覚に気づいたとき、自分の中に思っていたより大きい穴があったことを知った。
高校の1学期だけじゃない。たぶん、もっと前からずっとそうだった。小学校でも、中学校でも、家の中でも。
俺はいつも、世界のどこにいてもどうでもいい人間だった。いてもいなくても変わらない人間だった。
俺はずっと、誰かに存在を認めてほしかったのかもしれない。
◇
家に帰ると、里奈がリビングにいた。
「おかえり」
珍しく、普通に言った。いつもなら「クソ兄貴」とか、「キモい」とか、そういう入り方だった。
「ただいま……どうした。何かあった?」
「別に」
里奈はそう言って、こっちを見た。それから少しだけ顔を逸らす。
「……なんで普通に言ったんだろ。でもまあ、前よりはキモくないし」
「……ありがとう」
「別に褒めてないし」
それだけ言うと、里奈はそそくさと自分の部屋に戻っていった。
俺はその背中を見ながら、少しだけ笑った。
家に帰って「おかえり」と言われることが、こんなに残るものだとは思わなかった。
◇
そんな日々がしばらく続いた。
俺は少しずつ、学校にも家にも居場所を得ている気がしていた。
でも、平和な日だけが続いたわけじゃない。
黒川と田中は、別のターゲットを見つけていた。それが小林だった。
背が低くて、細くて、声も小さい。怖い相手に押されると、そのまま引いてしまう。黒川たちは、そういうやつを見逃さない。
最初は軽かった。廊下ですれ違うときに肩をぶつける。消しゴムを取って、少し遠くに投げる。小林が慌てて拾うと、田中が笑う。
大笑いじゃない。でも、そのくらいの笑いが一番残る。
昼飯の時間には、もっと露骨になった。小林がパンを開こうとすると、田中が横から取り上げて、高く持ち上げる。
「ほら、取れよ」
小林が黙って手を伸ばす。田中がわざと指を離す。パンが床に落ちた。
「あ、ごめん。この埃ついたやつ食う?」
周りが笑う。小林は床に落ちたパンを拾う。何も言わない。言えない。
その姿を見ていると、1学期の自分が別の形でそこにいるみたいだった。
俺が経験したいじめの初期と同じだ。これは間違いなく悪化する。
◇
俺はパネルを開いた。
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【STATUS】
知識 49
学力 56
容姿 63
体格 60
会話力 48
運動神経 53
筋力 57
全項目平均:55.1
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2学期に入ってからのいろいろなミッションで、ステータスは少しずつ伸びていた。
でも、まだ足りない。
小林を助けたい。
それは本当だった。
でも、それだけじゃない。
黒川がまだ教室の中心にいることが、許せなかった。
俺を踏んで、笑って、それでも何も失っていない顔をしていることが、どうしても許せなかった。
黒川がもう二度と、俺にも小林にも、誰にも同じことをできないようにする。そのためには、黒川颯太を超えるしかない。
運動でも。勉強でも。教室の空気でも。
あいつが持っているものを、正面から全部奪う。
そして、今まで俺にしてきたことを、きっちり返す。
黒川颯太。
あいつを、俺の力で超える。




