第7話 夏休み明け③
黒川が先に動いた。
踏み込みに迷いがなかった。何度もやってきた側の動きだった。
まず掴む。体勢を崩させる。そのあとで殴る。1学期、踊り場で胸ぐらを掴まれたときと同じ入り方だ。
右手が伸びる。
俺は半歩だけ横にずれた。黒川の手が空を切る。制服にも触れない。体がわずかに流れて、腹の前が空いた。
黒川の体のどこに力が入っていて、どこが無防備になっているのかまで、感覚でわかった。
腹の中央。肋骨の下。そこに衝撃が入れば、息が詰まる。体は勝手に止まる。
俺は逃げなかった。後ろにも下がらず、前に入り、黒川の懐の内側に先に入る。
黒川の顔が止まった。作った顔じゃなかった。反応が遅れたときの、素の顔だった。
右の拳を、みぞおちへ叩き込んだ。
だが、黒川が咄嗟に腹へ力を入れ、体を半分だけ引いていた。
それでも鈍い感触が、拳から肩まで返ってくる。重い音がした。
「ぐっ……」
黒川の口から、潰れた息が漏れた。膝が落ちかける。
でも、完全には落ちなかった。
黒川は腹を押さえながら、2歩だけ後ろへ下がった。肩を上下させて、無理やり息を吸おうとしている。
目だけは、まだこっちを睨んでいた。
やっぱり、弱くはない。
1学期の俺が何もできなかったのは、俺がただ弱かったからだけじゃない。黒川颯太は、本当に強い側の人間だった。
黒川は腹を押さえたまま、俺を見た。顔から余裕が消えている。
「……なんなんだよ、お前」
声がかすれていた。
「本当に……あの天野か?」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
俺は黒川を見た。
「俺だよ」
短く答えた。
「お前が見下してた間に、努力して変わった」
黒川の顔が、さらに歪んだ。
次の瞬間、黒川がまた前に出た。
今度は掴みにこない。肩からぶつかるように距離を詰めてきた。
速い。
俺は横に抜けようとした。でも黒川の手が、俺の袖を掴んだ。
体が止まる。力が強い。
《オーバードライブ》を使っていても、何も考えずに受ければ持っていかれる強さだった。
黒川の膝が入ってくる。
体を捻った。膝は腹を外れ、太ももの外側をかすめた。
鈍い痛みが走る。
でも、俺は止まらない。掴まれた袖を逆に引いた。黒川の重心が前に流れる。
拳が来た。
完全には避けきれず、頬をかすめた。熱い感覚が走る。
でも、それでわかった。
黒川の動きは速い。力もある。喧嘩慣れもしている。
けれど、やはり今の俺には見える。
踏み込む前の肩。殴る前の肘。力が入る瞬間の腰。
どこから来るのかが、遅れて見えるんじゃない。
先にわかる。
「黒川!」
後ろで田中の声がした。
「もうやめたほうがいいって! こいつ……天野はなんか変だって!」
黒川は答えなかった。
俺だけを見ていた。
その目には、怒りと混乱が混ざっていた。さっきまで俺を見下していた目じゃない。理解できないものを見る目だった。
「お前……なんでそんな動けんだよ」
黒川が言った。
「おかしいだろ。なんなんだよ、それ」
俺は答えなかった。
黒川がもう一度踏み込む。
今度は荒かった。最初の冷静さが薄れている。掴んで崩すより先に、殴って止めようとしている。
焦っている。
でも、その焦りの中でも、黒川の動きはまだ鋭かった。
俺は一歩だけ内側に入った。黒川の腕の下を抜ける。
脇腹が空いた。
そこへ拳を叩き込む。
「がっ……!」
黒川の体が折れた。
今度は、耐えきれなかった。膝が落ちる。片手が地面につく。
口が開く。息が入らない顔だった。
黒川は立ち上がらず、地面を見ていた。
◇
田中が固まっていた。
黒川が膝をついた瞬間から、完全に止まっていた。動くべきか。逃げるべきか。助けるべきか。その全部を同時に考えて、どれも選べていない顔だった。
視線が黒川と俺の間を何度も往復している。口も少し開いていた。
「田中」
俺が名前を呼ぶと、田中の肩が跳ねた。
「ひっ……」
情けない声が漏れる。
「次はお前か?」
そう言うと、田中は慌てて両手を上げた。
「ち、違う! いや、俺は……」
田中は後ろへ下がった。でも足がもつれていた。頭だけ先に逃げて、体がついてきていない。
俺は田中に向かって歩き出した。
「黒川の横で、ずっと笑ってただろ」
「そ、それは……」
「今度は笑わないのか」
田中の顔が青くなる。
「わ、悪かったって……」
その言葉を聞いても、何も軽くならなかった。
俺はそのまま距離を詰めた。田中が手を上げる。守るつもりだったのか、押し返すつもりだったのか、自分でもわかっていない動きだった。
俺はその腕の内側に入った。
田中の体は軽かった。黒川よりずっと反応が遅い。
腹に拳を入れる。
「ひっ」
息だけが漏れた。田中の体が折れた。
黒川より軽いぶん、衝撃がそのまま形に出た。細い体が前に丸まって、そのまま地面にうずくまる。
両手で腹を押さえていた。
「ご、ごめ……」
声になっていなかった。喉から空気だけが抜けている。目には涙が滲んでいた。
◇
静かだった。
フェンスと倉庫の間の、人目のない狭い場所から音が消えていた。
地面に黒川と田中がいる。
黒川はまだ片膝をついたままだった。片手で腹を押さえ、もう片方の手を地面についている。
息は戻りかけている。でも、立ち上がるほどではなかった。喉の奥から、絞るみたいな音を出している。
あれだけ人を見下していた男が、地面に手をついて小さくなっていた。
田中は横向きにうずくまっていた。膝を胸のほうへ引き寄せて、肩を細かく上下させている。
こっちも声にならない空気が漏れるだけだった。
◇
黒川が俺を見上げていた。
地面に手をついたまま、呼吸を取り戻そうとしている顔だった。余裕の笑みは消えていた。跡形もなかった。
目だけが俺を見ていた。
その目の中にあったのは、1学期を通して見たことのないものだった。
計算じゃない。余裕でもない。軽蔑でも、冷静さでもない。
純粋な、怖気だった。
黒川颯太の目に、怖気があった。
今なら、と思った。
ここでやり返せる。今までされた分、まとめて返せる。
いや……違う。
俺は何をされた。
黒川が笑えば、クラスが笑った。廊下では肩をぶつけられた。金を抜かれた。踊り場で膝を入れられた。昼飯を取られた。壁に押しつけられた。何度も笑いものにされた。
この2人にやられたことは、ここで殴るだけで終わるような話じゃない。
今日じゃない。
今ここで全部ぶつけるのは違う。
スキルには時間制限がある。しかも一度きりで、あとには反動が来る。
ここで無駄に殴れば、そのあと自分が動けなくなるかもしれない。
それに、こんな裏で、2人だけに向けて終わらせるのはもったいなかった。
特に黒川には、もっと適切な場所がある。
教室で。クラス全員が見ている前で。黒川が積み上げてきた空気が崩れる瞬間を、ちゃんと見せるべきだと思った。
それも、徹底的に。
今日のこれは、その前段階だ。
まだ終わらせない。
その日はかなり先になるかもしれない。でも、そのためなら、どれだけでも努力してやる。
◇
「じゃあ、もういいかな」
俺はごく普通の声で言った。
黒川は、何を言われたのかわからないみたいな顔をした。それから、口がわずかに動く。
「……あ、ああ」
どうにか絞り出したような声だった。もう昼休みまでみたいな余裕のある声じゃなかった。
田中は地面にうずくまったまま、小さく何度も頷いていた。
俺は黒川から目を離した。
「じゃあ俺、帰るわ」
そのまま背を向ける。
後ろから追ってくる気配はなかった。振り返らなくてもわかった。
校舎を出て、そのまま河原まで歩いた。
まだ体の奥には熱が残っていた。視界も妙にはっきりしていて、足取りも軽い。でも、これがずっと続くわけじゃないこともわかっていた。
30分。
スキルの持続時間は、それだけだ。
川沿いの土手を下りて、いつものベンチまで行く。腰を下ろして、息を吐いた。
家に帰るより前にこのスキルは切れる。効果が切れても、ここなら休める。
スマホで時間を確認する。まだ大丈夫だった。
背もたれに体を預けて、目を閉じる。
黒川の顔が浮かぶ。
腹を押さえて、地面に手をついていた顔。あの目。あの、隠しきれなかった怖気。
俺は、あれを見た。
その事実だけで、胸の奥が熱くなった。
でも、30分が経った頃だった。
急に、きた。
「っ……!?」
全身の筋肉が、内側から一斉に締め上げられた。ベンチから落ちるように膝をつき、土の上で体を丸める。
腕も脚も腹も背中も痛い。どこを庇っても、別の場所が悲鳴を上げる。
ただの筋肉痛じゃない。
さっきの力を使った代償が、まとめて体に返ってきていた。
しばらく動けなかった。汗が滲む。息を吸うだけでも、体の奥が軋む。
1時間ほど経過して痛みが少し引いてから、ようやく立ち上がった。足はふらつき、膝に力が入らない。
そのままフラフラと、時間をかけて家まで帰った。
それでも、パネルが光ったときはちゃんと見た。
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【MISSION RESULT】
MISSION 達成
筋力 56 → 57
運動神経 46 → 50
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ミッションはクリアだった。
体はずたずただ。
でも、頭の中ではずっと黒川のあの表情を反芻していた。
地面に手をついて、俺を見上げていた顔。余裕も、軽蔑も、何もなくなっていた顔。
あの顔は、たぶん忘れない。
俺は痛みで震えた手でドアを開けて自分の部屋に入り、そのままベッドに体を沈めた。
全身が痛んだ。
でも、黒川の表情の余韻だけで、痛みの中でも少し笑えた。




