第6話 夏休み明け②
「おい、天野」
「なに」
自分でも少し驚いた。無意識にため口で返していた。
黒川は俺を上から下まで見た。髪を見て、顔を見て、体を見て、また顔に戻す。
周囲がじわじわ静かになっていく。
黒川が俺の席の前で止まるとき、大抵ろくなことが起きない。それを、このクラスは全員知っていた。
「夏休み、何やってたんだ」
「筋トレとか勉強とか。いろいろ」
「……ふーん」
黒川は少しだけ間を置いた。
俺を見たまま、何かを測るみたいな顔をする。横で田中が、薄く愛想笑いを浮かべていた。
それから黒川は、いつもの調子に戻したみたいに口を開いた。
「まあいいや。購買でパン買ってきて。焼きそばパン」
その瞬間、パネルが光った。
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【MISSION】
難易度:困難
パシリを断れ。
このミッションは、今この瞬間のみ有効。
断れなければ失敗となる。
【達成報酬】
会話力 上昇
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俺はパンを持つ手を止めた。
胸の中で、何かがせめぎ合う。体はもう動こうとしていた。立ち上がって、財布を出して、購買に走る。3か月以上かけて染みついた反射だった。
黒川に言われたら動く。逆らえばひどくなる。体が、それを知っている。
でも。
俺はパネルを横目で見た。
この数字になるまで、何をやった。
筋肉痛の足で川沿いを走った。腕が折れそうになりながら腕立てをした。朝も夜も単語を覚えた。雨の日も走った。里奈に何を言われても、やめなかった。
あの40日が、全部この数字になっている。
これが今の俺だ。夏休み前の俺じゃない。
それに、難易度は困難だった。夏のミッションより難易度は低い。このシステムは、今の俺なら断れると判断している。
俺は黒川を見た。声を出す前に、一回だけ息を吐く。
「……なんで俺が行くんだよ」
少し声は震えた。でも、出た。
教室がすっと静かになる。昼休みの雑多な音が、このあたりだけ消えた。
黒川の眉が動く。
「は?」
「自分で行けばいいだろ」
言い切った瞬間、自分でも少し驚いた。
行かない、とだけ言うつもりだった。心臓がうるさい。手も少し震えている。でも、声は続いた。
「……今、なんて言った?」
「自分で買いに行けばいいって言った」
「お前」
黒川が何か言おうとしたが、俺はそれを遮るように言った。
「俺が行く理由ないだろ」
黒川が一歩前に出る。
「1学期に何回パシられたと思ってんの」
「1学期は関係ない。そもそも、パシられる理由がないってだけ」
沈黙が落ちた。
「やば……」と、どこかで小さな声がした。
「天野、今なんて言った?」という別の声もする。
「自分で行けって。黒川に」と、さらに別の声が返す。
田中が口を開けたまま、俺を見ていた。
黒川が俺を見る。俺も黒川を見る。
逸らさなかった。逸らしたら、全部戻る。
視線が周囲から集まってくる。昼飯を食っていた手が止まっている。誰も喋らない。
「……へえ」
黒川がゆっくりとつぶやいた。
「随分変わったじゃん」
「夏休みで変わった」
「夏休みに筋トレでもして、急に偉くなった気でいんの?」
「別に。理由もないのにパシリに行く気がないだけ」
黒川の目が、じわじわ細くなった。
後ろのほうで、「天野ってあの天野だよな……」という声がした。
「本当に別人みたいだ……」と返す声もあった。
黒川は聞こえているはずだった。それがまた、黒川の顔を少し険しくさせた。
「田中」
「え」
「こいつ、最近こんなんだったか」
「い、いや……俺も今日初めて見たっていうか……」
田中が情けない声で答える。黒川はもう一度、俺を見た。
「なんだお前。高校デビューのつもりかよ」
「高校デビューっていうか、2学期からだけど」
冗談のつもりはなかった。ただ、そのまま返しただけだった。
でも、クラスの誰かが少し笑った。黒川のこめかみが、ぴくっと動く。
「……調子乗ってんの、お前」
低い声だった。脅しの声だった。1学期なら、それだけで体が震えていたはずだ。
今も怖い。でも、体は動かなかった。
黒川は俺をもう一度だけ見て、それから冷たく言った。
「今日の放課後、校舎裏来い」
踵を返す。田中がそのあとを追った。
パネルが静かに光る。
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【MISSION RESULT】
MISSION 達成
会話力 42 → 43
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◇
黒川たちが教室を出たあと、教室は少しの間静かだった。それから、ぽつぽつと声が戻ってくる。
「天野が黒川にあんな口きいたの、初めて見た」
「あれ、大丈夫なのかな……」
「つか夏休みでそんなに変わる?」
「顔もだけど、性格もかなり変わってない?」
胃は、朝より重くなっていた。
放課後、校舎裏に行く。何をされるかは、だいたいわかっていた。
◇
6時間目が終わった。
チャイムが鳴った瞬間、教室の空気がわずかに変わった。気のせいかもしれない。でも、いくつかの視線がこちらに流れてきた。
昼休みの話は、もう広まっている。黒川颯太に向かって「自分で買いに行けばいい」と言い返した人間の話が、この狭い教室の中で広まらないはずがなかった。
伊藤が椅子を引きながら、小さめの声で言った。
「天野。本当に行くの」
俺は鞄を肩にかけた。
「行くよ」
伊藤が何か言いかける。口は動いた。でも、結局何も出てこなかった。
言えることが見つからなかったんだろう。俺にも、もう他の選択肢がないことはわかっていた。
俺は教室を出た。
◇
階段を下りながら、頭の中を整理する。
黒川颯太と田中雄一。待っているのは、たぶん2人だ。1対2。数字だけ見れば不利だ。
しかも相手は、1学期のあいだ何度も俺を押さえつけてきた連中だ。体が覚えているぶん、恐怖もきれいには消えていない。
でも。
廊下の角を曲がりながら、視界の端に浮かぶアイコンへ目を向ける。
特別スキルが、静かに光っていた。
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【SPECIAL SKILL】
《オーバードライブ》
30分間、本来の限界を超えた身体能力を発揮可能。
使用回数:1回限り
使用後、強い反動あり。
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1回限り。使えば消える。使ったあとには反動も来る。
……でも、ここ以外にいつ使う。
◇
昇降口に出て、校舎を回り込む。フェンス沿いを歩いて、倉庫の脇を抜ける。
校舎裏は日が入らない。建物の影が地面に濃く落ちていた。空気が少し冷たい。放課後の騒がしさも、角を1つ曲がるだけで完全に消えた。
近づくにつれて、声が聞こえる。田中の笑い声。力の抜けた、媚びるような笑い方だ。ずっと黒川に向けてきたやつだった。
その奥で、黒川の声がした。
「へえ。来たじゃん」
独り言みたいな声音だった。そして、黒川が薄く笑った。
「来ると思わなかったわ、正直」
余裕のある声だった。
昼休みに教室で言い返されたことなんて、もう終わった話だとでもいう顔だった。ここなら誰も見ていない。ここなら何をしても関係ない。そういう計算が、笑い方の端ににじんでいた。
◇
俺は2人を順番に見た。
田中は黒川の少し後ろに立っている。目が合うと、すぐに薄く笑ってみせた。
1学期と同じ笑い方だった。黒川がいれば自分は安全だと、全身で信じている笑い方。
黒川は俺の顔をゆっくり眺めた。上から下まで一度見て、それから口を開く。
「土下座したら許してやるけど」
笑いを含んだ、試すみたいな声だった。横で田中が「そうそう」と軽く合わせる。
俺は黒川の目を見た。
4月から7月まで、この顔を見るだけで手が震えた。
でも今、俺はこのシステムのスキルを信じていた。ここまで俺を変えたこのシステムを。
使ったことはない。それでも、このスキルを使えば対等以上にやりあえる。その自信があった。
どうせやるなら、覚悟を決める。
俺は一度息を吐いた。
「謝るのは、俺じゃないだろ」
声は、ちゃんと出た。震えなかった。
黒川の目が細くなる。
「そっちじゃないの?」
◇
半秒くらいの沈黙が落ちた。
それから黒川の顔が変わる。薄い笑みが消えた。口元が固くなる。目つきが低く沈む。
遊ぶつもりだった顔が、はっきり怒りに変わった。
「……マジで調子乗ってんな」
低い声だった。
そのまま田中に目をやる。
「やっとくか」
その瞬間、パネルが光った。
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【MISSION】
難易度:困難
校舎裏の戦いを、主導権を渡さずに乗り切れ。
このミッションは、今この瞬間のみ有効。
【達成報酬】
筋力 上昇
運動神経 上昇
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田中が斜め後ろに回る。退路を塞ぐ動きだった。
黒川が正面から一歩、距離を詰める。急がない。ここなら最後は自分たちが勝つと、最初から決めている動きだった。
俺はそれを見て、パネルのアイコンに意識を集中させた。
今だ。
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【SPECIAL SKILL】
《オーバードライブ》
発動
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その瞬間、何かが全身を貫いた。
熱い、というより、鮮明になる感覚だった。体の解像度が急に上がったみたいだった。
眠っていたものがまとめて目を覚ましたような、全身の隅まで血が通い直したような感覚。
足の裏が地面に吸いつく。重心が体の中心に、ぴたりと収まる。体幹に太い軸が通ったみたいだった。
ぶれない。ここから崩れないという感覚が、足元から上がってくる。
視界も変わった。
黒川の動きが、少しだけゆっくり見える。田中の位置も、足の向きも、全部わかった。
物理的に遅くなったわけじゃない。
俺の処理が速くなっている。どこに力が入っているか。重心がどちらの足に乗っているか。踏み込む前のわずかな傾きが、静止画みたいに見えた。
《オーバードライブ》は、筋力や運動神経だけじゃない。
動体視力、反応速度、距離感。動きの見え方そのものまで、まとめて引き上げている。
……見える。
全部、見える。




