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第5話 夏休み明け①

2学期の初日、6時に起きた。

40日間で染みついたリズムだった。


洗面所でコンタクトを入れる。顔を洗って、ランニングをした。帰ってきてからシャワーを浴びて、スキンケアをする。


髪も整えた。美容師に教わった通り、少量のワックスを手のひらに伸ばして、トップを軽く持ち上げて流す。3分もかからない。


制服を着た。買ったばかりの制服だ。肩のラインはきちんと合っていて、袖丈も手首に収まっている。


鏡を見る。


しばらく、その中の人間を見ていた。何度見ても、まだ少しだけ実感が追いつかない。


深呼吸を1回する。


行くか。



学校までの道を、背筋を伸ばして歩いた。


意識しているというより、もうそれが自然だった。40日間で体に入った姿勢だった。


昇降口が近づくにつれて、胃の奥が少しだけ重くなる。数字は変わった。体も変わった。でも、体はちゃんと覚えていた。


俺は変わった。でも、黒川たちは何も知らない。向こうにとっては、1学期の続きのままだ。


今日、何が起きるかは本当にわからなかった。


上履きに履き替えて、廊下に出る。そのまま歩く。

すれ違う生徒には、同じクラスの顔も何人かあったけど、そのまま通り過ぎていく。


誰も俺を見ていない。いや、少なくとも、俺が天野仁だとは気づいていなかった。


廊下の空気が少し違って感じた。



教室のドアを開けた。


その瞬間、空気が止まった。


一歩、中に入る。視線が一斉に飛んできた。前のほうにいた男子が俺を見て、「え」と声を漏らす。


窓側で話していた女子グループが固まった。佐々木咲良も、笑いかけたまま止まっていた。


俺はそのまま、自分の席に向かって歩いた。歩くたびに、視線がついてくる。


「ちょっと待って、誰あれ」

「うちのクラスにいたっけ?」


後ろのほうで、そんな声が続いていた。


俺は顔に出さないようにして席に着く。座った瞬間、少しだけ息が通った。


数秒して、またざわめきが広がる。


「え……あそこって天野の席じゃね?」

「え、マジで? あれが天野?」

「うそ、全然違くない?」


そこで、女子の誰かが言った。


「……ていうか、普通にかっこよくない?」


周囲の声が一瞬止まって、それからまたざわついた。


窓側では、佐々木がまだこっちを見ていた。隣の中村に何か言われて、ようやく小さく首を振る。


俺は前を向いたまま、何も言わなかった。



「……もしかして、天野くん?」


隣から声がした。


振り返ると、橘詩音だった。橘は俺の顔を見て、一瞬だけ止まった。

それから少し目を細めて、俺の顔を見た。


「そうだけど」


「……ごめんなさい。最初、本当にわからなかった。面影はあるけど、かなり変わったね」


「夏休みにいろいろやってた」


「いろいろって?」


「ランニングと筋トレ。あとスキンケアとか」


「それだけで、こんなに変わるの……?」


「俺もそこは、まだあんまり実感ない」


橘はすぐには返さなかった。まだ俺の顔を見ている。


「声も少し変わってる」


「そう?」


「うん。前より低いし、前より落ち着いて聞こえる」


自分では気づいていなかったけど、橘がそう言うなら、そうなんだろう。

体格が変わったから声まで変わったのか、システムが声色まで変えたのかはわからなかった。


「まあ、そうかも」


「……変わったね。本当に」


橘の言い方は静かだった。

でも、その視線が少し長くて、なんとなく落ち着かなくなる。俺は前を向いて、自分の髪を少しだけ触った。


俺と橘の会話を聞いていた近くの男子2人が小声で話している。


「え、ほんとにあの天野?」

「信じらんね……」


その声は、俺をバカにしているというより、ただ理解が追いついていない感じだった。


1学期までとは違う視線だった。


それだけで、喉の奥が少しだけ熱くなった。



田中が教室に入ってきたのは、そのすぐあとだった。


田中は俺の席を見て、足を止めた。本当にわからなかったみたいな顔をした。それから眉を寄せて、もう一回見る。


「……は?」


小さく、そんな声が漏れた。


すぐに周りの空気を読んで、表情を戻す。でも、動揺したのはわかった。


ワックスなんてしていたら、キモいとか、調子に乗ってるとか、そんな言葉を笑いながら投げてきたはずだ。


でも、今日は違った。


田中は何も言わず、自分の席に向かった。途中で何度か、こっちを見ている。



黒川が教室に入ってきたのは、ホームルームが始まるぎりぎりだった。


遅刻寸前。黒川らしい時間だった。


ドアを開けて、いつも通りの歩き方で入ってくる。その目が俺の席に向いた瞬間、足が止まった。


目が一瞬だけ見開かれる。次の瞬間には、いつもの顔に戻っていた。


黒川は何も言わず、自分の席に向かった。座ってから、田中のほうに視線を送る。田中が少しだけ身を寄せた。


2人が小声で何か話している。こっちをちらちら見ながら。間違いなく俺の話をしていた。


俺は前を向いていた。


心臓は速い。でも、下は向かなかった。



ホームルームが始まる。


坂本先生が出席簿を開いて、いつも通りの出席確認を始めた。


「天野」


「はい」


返事をした瞬間、周りの何人かがこっちを見た。


坂本先生も顔を上げて、俺を見た。1秒くらい見て、それから何も言わずに次の名前を読んだ。


その反応で、かえって現実味が増した。



1時間目が終わった休み時間、俺は廊下に出た。他クラスの女子グループが、すぐそばを通り過ぎていく。


「ねえ、さっきD組から出てきた人、知ってる?」

「誰?」

「背高めの人。ちらっと見たんだけど」

「知らない。でもいたいた。結構かっこよかったよね。誰だろ」


声が遠ざかっていく。


俺はそのまま歩き続けた。いつもより廊下の幅が、少し広く感じた。



2時間目が終わったあと、後ろの席の伊藤が声をかけてきた。


「天野ってさ、背も高くなったよな。今どれくらい?」


「176cmくらい」


「え、1学期って何cmだっけ」


「165cm」


伊藤が固まった。


「……11cm伸びたの? 夏休みに?」


「うん」


「それ、人間の伸び方じゃなくね?」


伊藤が笑った。俺も少しだけ笑う。そのやり取りを聞いていた男子が、2人ほどこっちを向いた。


今までは、教室の中で空気みたいなものだった。いてもいなくても同じで、誰もわざわざ触れてこなかった。


でも今日は違う。


ちゃんと見られている。ちゃんと認識されている。その感覚が、はっきりあった。



3時間目は数学だった。


先生が問題を板書する。1学期は、問題文の意味すら追えなかった。でも今は、解き方が頭に入っていた。


全部が簡単になったわけじゃない。けれど、何を問われているのかはわかる。公式をどこで使えばいいのかも、前よりずっと見える。


先生が俺を当ててきた。


一気に、教室の視線が集まる。


俺は黒板を見て、答えを言った。


「正解です」


教室が、また少しざわついた。


前のほうで、佐々木咲良がこっちを振り返る。驚いたみたいに、目を少し見開いていた。


その横で、黒川が俺を横目で見た。

短い間だけだった。


でも、その視線には前とは違うものが混じっていた。


気に入らない。


そんな色だった。



昼休みになった。


俺は購買でパンを買って、自分の席に戻った。踊り場じゃなく、教室で食べてみることにした。


何かされたら、そのとき考えればいい。


後ろでは、伊藤が友達と笑いながら飯を食っている。俺はパンを食べながら、その声を聞いていた。


悪くない昼休みだった。


そこに、黒川が来た。


いつも通りの、余裕のある歩き方で。田中を連れて、俺の席の前で立ち止まる。


黒川は俺の顔を見た。


「おい、天野」

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