第5話 夏休み明け①
2学期の初日、6時に起きた。
40日間で染みついたリズムだった。
洗面所でコンタクトを入れる。顔を洗って、ランニングをした。帰ってきてからシャワーを浴びて、スキンケアをする。
髪も整えた。美容師に教わった通り、少量のワックスを手のひらに伸ばして、トップを軽く持ち上げて流す。3分もかからない。
制服を着た。買ったばかりの制服だ。肩のラインはきちんと合っていて、袖丈も手首に収まっている。
鏡を見る。
しばらく、その中の人間を見ていた。何度見ても、まだ少しだけ実感が追いつかない。
深呼吸を1回する。
行くか。
◇
学校までの道を、背筋を伸ばして歩いた。
意識しているというより、もうそれが自然だった。40日間で体に入った姿勢だった。
昇降口が近づくにつれて、胃の奥が少しだけ重くなる。数字は変わった。体も変わった。でも、体はちゃんと覚えていた。
俺は変わった。でも、黒川たちは何も知らない。向こうにとっては、1学期の続きのままだ。
今日、何が起きるかは本当にわからなかった。
上履きに履き替えて、廊下に出る。そのまま歩く。
すれ違う生徒には、同じクラスの顔も何人かあったけど、そのまま通り過ぎていく。
誰も俺を見ていない。いや、少なくとも、俺が天野仁だとは気づいていなかった。
廊下の空気が少し違って感じた。
◇
教室のドアを開けた。
その瞬間、空気が止まった。
一歩、中に入る。視線が一斉に飛んできた。前のほうにいた男子が俺を見て、「え」と声を漏らす。
窓側で話していた女子グループが固まった。佐々木咲良も、笑いかけたまま止まっていた。
俺はそのまま、自分の席に向かって歩いた。歩くたびに、視線がついてくる。
「ちょっと待って、誰あれ」
「うちのクラスにいたっけ?」
後ろのほうで、そんな声が続いていた。
俺は顔に出さないようにして席に着く。座った瞬間、少しだけ息が通った。
数秒して、またざわめきが広がる。
「え……あそこって天野の席じゃね?」
「え、マジで? あれが天野?」
「うそ、全然違くない?」
そこで、女子の誰かが言った。
「……ていうか、普通にかっこよくない?」
周囲の声が一瞬止まって、それからまたざわついた。
窓側では、佐々木がまだこっちを見ていた。隣の中村に何か言われて、ようやく小さく首を振る。
俺は前を向いたまま、何も言わなかった。
◇
「……もしかして、天野くん?」
隣から声がした。
振り返ると、橘詩音だった。橘は俺の顔を見て、一瞬だけ止まった。
それから少し目を細めて、俺の顔を見た。
「そうだけど」
「……ごめんなさい。最初、本当にわからなかった。面影はあるけど、かなり変わったね」
「夏休みにいろいろやってた」
「いろいろって?」
「ランニングと筋トレ。あとスキンケアとか」
「それだけで、こんなに変わるの……?」
「俺もそこは、まだあんまり実感ない」
橘はすぐには返さなかった。まだ俺の顔を見ている。
「声も少し変わってる」
「そう?」
「うん。前より低いし、前より落ち着いて聞こえる」
自分では気づいていなかったけど、橘がそう言うなら、そうなんだろう。
体格が変わったから声まで変わったのか、システムが声色まで変えたのかはわからなかった。
「まあ、そうかも」
「……変わったね。本当に」
橘の言い方は静かだった。
でも、その視線が少し長くて、なんとなく落ち着かなくなる。俺は前を向いて、自分の髪を少しだけ触った。
俺と橘の会話を聞いていた近くの男子2人が小声で話している。
「え、ほんとにあの天野?」
「信じらんね……」
その声は、俺をバカにしているというより、ただ理解が追いついていない感じだった。
1学期までとは違う視線だった。
それだけで、喉の奥が少しだけ熱くなった。
◇
田中が教室に入ってきたのは、そのすぐあとだった。
田中は俺の席を見て、足を止めた。本当にわからなかったみたいな顔をした。それから眉を寄せて、もう一回見る。
「……は?」
小さく、そんな声が漏れた。
すぐに周りの空気を読んで、表情を戻す。でも、動揺したのはわかった。
ワックスなんてしていたら、キモいとか、調子に乗ってるとか、そんな言葉を笑いながら投げてきたはずだ。
でも、今日は違った。
田中は何も言わず、自分の席に向かった。途中で何度か、こっちを見ている。
◇
黒川が教室に入ってきたのは、ホームルームが始まるぎりぎりだった。
遅刻寸前。黒川らしい時間だった。
ドアを開けて、いつも通りの歩き方で入ってくる。その目が俺の席に向いた瞬間、足が止まった。
目が一瞬だけ見開かれる。次の瞬間には、いつもの顔に戻っていた。
黒川は何も言わず、自分の席に向かった。座ってから、田中のほうに視線を送る。田中が少しだけ身を寄せた。
2人が小声で何か話している。こっちをちらちら見ながら。間違いなく俺の話をしていた。
俺は前を向いていた。
心臓は速い。でも、下は向かなかった。
◇
ホームルームが始まる。
坂本先生が出席簿を開いて、いつも通りの出席確認を始めた。
「天野」
「はい」
返事をした瞬間、周りの何人かがこっちを見た。
坂本先生も顔を上げて、俺を見た。1秒くらい見て、それから何も言わずに次の名前を読んだ。
その反応で、かえって現実味が増した。
◇
1時間目が終わった休み時間、俺は廊下に出た。他クラスの女子グループが、すぐそばを通り過ぎていく。
「ねえ、さっきD組から出てきた人、知ってる?」
「誰?」
「背高めの人。ちらっと見たんだけど」
「知らない。でもいたいた。結構かっこよかったよね。誰だろ」
声が遠ざかっていく。
俺はそのまま歩き続けた。いつもより廊下の幅が、少し広く感じた。
◇
2時間目が終わったあと、後ろの席の伊藤が声をかけてきた。
「天野ってさ、背も高くなったよな。今どれくらい?」
「176cmくらい」
「え、1学期って何cmだっけ」
「165cm」
伊藤が固まった。
「……11cm伸びたの? 夏休みに?」
「うん」
「それ、人間の伸び方じゃなくね?」
伊藤が笑った。俺も少しだけ笑う。そのやり取りを聞いていた男子が、2人ほどこっちを向いた。
今までは、教室の中で空気みたいなものだった。いてもいなくても同じで、誰もわざわざ触れてこなかった。
でも今日は違う。
ちゃんと見られている。ちゃんと認識されている。その感覚が、はっきりあった。
◇
3時間目は数学だった。
先生が問題を板書する。1学期は、問題文の意味すら追えなかった。でも今は、解き方が頭に入っていた。
全部が簡単になったわけじゃない。けれど、何を問われているのかはわかる。公式をどこで使えばいいのかも、前よりずっと見える。
先生が俺を当ててきた。
一気に、教室の視線が集まる。
俺は黒板を見て、答えを言った。
「正解です」
教室が、また少しざわついた。
前のほうで、佐々木咲良がこっちを振り返る。驚いたみたいに、目を少し見開いていた。
その横で、黒川が俺を横目で見た。
短い間だけだった。
でも、その視線には前とは違うものが混じっていた。
気に入らない。
そんな色だった。
◇
昼休みになった。
俺は購買でパンを買って、自分の席に戻った。踊り場じゃなく、教室で食べてみることにした。
何かされたら、そのとき考えればいい。
後ろでは、伊藤が友達と笑いながら飯を食っている。俺はパンを食べながら、その声を聞いていた。
悪くない昼休みだった。
そこに、黒川が来た。
いつも通りの、余裕のある歩き方で。田中を連れて、俺の席の前で立ち止まる。
黒川は俺の顔を見た。
「おい、天野」




