第41話 対話②
それからしばらく、パネルを意識して見ないようにした。
橘の言葉が頭にあった。
邪魔なら見ない。振り回されるなら、それは邪魔な能力だ。
最初の1日が、きつかった。朝起きた瞬間から、パネルが視界の端に薄く浮かんでいる。意識しないようにしようとすると、余計に意識する。見ないようにしながら走って、見ないようにしながら勉強して、見ないようにしながら飯を食った。
1日中、そのことだけ考えていた気がした。
でも、見なかった。
2日目は少し楽だった。3日目はもっと楽だった。授業中に先生の話を聞きながら、パネルのことを考えていない時間が少しずつ増えた。
◇
でも、無理だった。
ステータスコミットが光る。ミッションの通知が来る。アラート音が鳴った瞬間、体が反応した。見ないようにしようとしても、視界の端にパネルが広がる感覚があった。数字が変わったことがわかる。上がったのか、下がったのか。見なくても気になった。
気になり始めると、止まらなかった。
悪魔みたいなシステムだと思った。
見ない、と決めていても、存在していることがわかっている。それだけで、ずっと頭の片隅を占有し続けていた。
◇
ある夜、部屋の椅子に座ったまま、俺はパネルに意識を集中させた。
夏休みの最初、チップが頭に飛び込んできた夜から今まで。YESを選んで始まったシステムだ。意識を向ければ動くことは、ずっとわかっていた。
試してみることにした。
ステータスコミットとミッションの通知を非表示にしたい。
強く念じると、パネルが動いた。
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【CONFIRM】
ステータスコミットおよびミッションの
非表示は、このシステムの完全終了を
意味します。
完全終了させた場合、
あなたのこれまでの努力は消えません。
しかし二度とステータスコミットや
新たなミッションは表示されません。
本当にシステムを完全終了させますか?
▶ YES
NO
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俺はそのパネルを見たまま、動けなかった。
完全終了。二度と表示されない。
「あなたのこれまでの努力は消えません」という一文が目に入った。
数字は消えない。体は消えない。身長も、筋肉も、肌も、髪も、学力も、全部消えない。
でも、偏差値は見られない。新たなミッションも来ない。
◇
YESは選べなかった。
というか、選べるわけがなかった。
踊り場の床に這って、立ち上がれなかったあの夜。川沿いで、死ぬべきだろうかと思ったあの夕方。チップが頭に飛び込んできて、このパネルが現れた瞬間。
全部、このシステムと一緒にあった。
夏休みの40日間、腕立て伏せのフォームを何度も直した。英単語を何時間も繰り返した。雨の日も走った。
体育祭では、田村先生に何度断られても頼み込んで、ゴールテープを切った。学年8位の答案を見ながら、静かに感じたものもあった。
全部、このシステムがくれたミッションがあったからだ。
俺をここまで変えてくれたシステムを消すなんて、絶対にできなかった。
NOを選んだ。
パネルが静かに閉じた。
◇
椅子の背もたれに頭を預けて、天井を見た。
通知を消すことはできなかった。でも今日、一つわかったことがあった。
俺はこのシステムを、絶対に手放したくない。
それが依存なのか、感謝なのか、今はまだわからなかった。でも少なくとも、自分がどう思っているかだけははっきりした。
窓の外は、もう暗かった。
パネルは今も視界の端に薄く浮かんでいた。
俺はそれを、しばらくそのままにしておいた。
◇
夜、橘にLINEを送った。
『通話、今大丈夫?』
少し間があってから、『いいよ』と返ってきた。
着信をかける。
「この前、相談に乗ってくれてありがとう」
「あの仮の話の続きなんだけど」
「仮の話?」
「他人との比較を直感的にわかる能力があったら、っていうやつ」
「ああ」
橘の声は、いつも通り静かだった。
「俺は多分、その能力があっても、邪魔だから今後は絶対に使わない、っていう選択はできない」
橘は黙って聞いていた。
「なら、使いたいときはそれを参考にして、競争本能丸出しでやる気になって努力すればいい。他人と比較することに疲れたときは、比較しない。参考値として見るだけにして、過去の自分と比べてどうかだけを考える」
「うん」
「トレーニング次第でコントロールできるって言ってたよな。なら俺は、トレーニングして使いこなす」
少し間があった。
「仮の話の結論を、わざわざ報告してくれたの?」
橘の声は、少し笑っているようだった。
「ありがとう」
「礼を言われるとは思ってなかったけど」
「でも、整理できたならよかった」
橘は少しだけ間を置いた。
「使うかどうかを、自分で決めようとしてるんでしょ。その仮の能力と、ちゃんと付き合おうとしているんだと思う」
俺は黙って聞いた。
「ただ」
橘は続けた。
「きっと、見たくないのに見ちゃう時もあると思う。振り回される時もあるはず」
「……でも、橘はできるって言っただろ」
「簡単にできるとは言ってない」
橘の声は静かだった。
「できない時があっても、気づければいい。気づいて、次は少しだけ距離を取る。それを繰り返すしかないと思う」
「……気づければな」
「うん。まずはそこからでいいと思う」
橘は、そこで少し黙った。それから、また静かに続ける。
「それに、天野くんが、たとえ他人との比較で劣っていても、天野くんの価値が消えるわけじゃない」
価値。
その言葉に、少し引っかかった。
「順位が下がっても、誰かに負けても、天野くんがここまでやってきたことまで消えるわけじゃない」
あの頃の俺に価値なんてあったのか。
1学期の俺は、教室ではいないものみたいに扱われて、黒川たちには踏まれて、笑われていた。価値がある人間なら、あんな扱いはされない。ずっとそう思っていた。
でも、その瞬間、母さんの顔が浮かんだ。
俺が変わる前から、母さんだけはずっと俺を見ていた。何もできなかったときも、誰にも認められていなかったときも、そこにいることをちゃんと見てくれていた。
もしかしたら、価値がなかったわけじゃないのかもしれない。
俺が、自分に価値があると思えなかっただけで。
「私は、応援してる」
俺は何も言えなかった。
「……橘、ありがとう」
「うん」
そこで終わると思った。でも、橘は少しだけ黙ってから続けた。
「私から、もう一つだけいい?」
「なに?」
「前にも言ったけど、黒川くんと田中くんにしたことは、私は良くなかったと思ってる」
俺は黙った。
「小林くんを助けたことは間違ってない。でも、あの時のやり方でクラスのみんなを怖がらせたことまで、なかったことにはできないと思う」
橘の声は静かだった。
「謝った方がいいと思う。全部じゃなくていい。やりすぎた部分だけでいいから」
すぐには返せなかった。
黒川たちに謝る。クラスに謝る。考えただけで、胸の奥がざらついた。
でも、そこに触れないまま前に進もうとしても、どこかで足が止まる気がした。
クラスの空気が変わったこと。小林に怖がられたこと。伊藤に「怖かった」と言われたこと。
その全部を、俺はまだちゃんと見ていない。
見ないふりをしたまま、勉強や筋トレに逃げている。
だから、どれだけ積み上げても、足元がぐらついているのかもしれなかった。
「……考えておく」
「うん」
橘はそれ以上、何も言わなかった。
通話が終わった。
◇
スマホを机に置いて、メモアプリを開いた。
整理することにした。
【自分のルール】
①誰かに勝ちたいと強く願う時は、システムを参考にして使う。競争本能をそのままやる気に変える。
②漠然とした「誰かに負けたくない」という時は、振り回されている可能性が高い。できるだけ気にしない。ステータスコミットがマイナスでも、過去の自分と比べてどうかだけを焦点にする。
③ミッションは引き続き、できるだけクリアする。理由は自分の能力を高められるから。ここは割り切る。
書き終えて、読み返した。
完璧じゃない。②なんて、実際にできるかどうかわからない。振り回されそうになったとき、本当にこのルールを思い出せるかどうかもわからない。
それでも、何もないよりはずっとましだ。
橘に『整理できた。ありがとう』とLINEを送った。
既読になってから、しばらくして『よかった』とだけ返ってきた。
◇
カレンダーを見た。
3学期の残りが2週間になっていた。
まだ、やり残したことがある。




