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第41話 対話②

それからしばらく、パネルを意識して見ないようにした。


橘の言葉が頭にあった。


邪魔なら見ない。振り回されるなら、それは邪魔な能力だ。


最初の1日が、きつかった。朝起きた瞬間から、パネルが視界の端に薄く浮かんでいる。意識しないようにしようとすると、余計に意識する。見ないようにしながら走って、見ないようにしながら勉強して、見ないようにしながら飯を食った。


1日中、そのことだけ考えていた気がした。


でも、見なかった。


2日目は少し楽だった。3日目はもっと楽だった。授業中に先生の話を聞きながら、パネルのことを考えていない時間が少しずつ増えた。



でも、無理だった。


ステータスコミットが光る。ミッションの通知が来る。アラート音が鳴った瞬間、体が反応した。見ないようにしようとしても、視界の端にパネルが広がる感覚があった。数字が変わったことがわかる。上がったのか、下がったのか。見なくても気になった。


気になり始めると、止まらなかった。


悪魔みたいなシステムだと思った。


見ない、と決めていても、存在していることがわかっている。それだけで、ずっと頭の片隅を占有し続けていた。



ある夜、部屋の椅子に座ったまま、俺はパネルに意識を集中させた。


夏休みの最初、チップが頭に飛び込んできた夜から今まで。YESを選んで始まったシステムだ。意識を向ければ動くことは、ずっとわかっていた。


試してみることにした。


ステータスコミットとミッションの通知を非表示にしたい。


強く念じると、パネルが動いた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━

【CONFIRM】


ステータスコミットおよびミッションの

非表示は、このシステムの完全終了を

意味します。


完全終了させた場合、

あなたのこれまでの努力は消えません。

しかし二度とステータスコミットや

新たなミッションは表示されません。


本当にシステムを完全終了させますか?


  ▶ YES

    NO

━━━━━━━━━━━━━━━━━━


俺はそのパネルを見たまま、動けなかった。


完全終了。二度と表示されない。


「あなたのこれまでの努力は消えません」という一文が目に入った。


数字は消えない。体は消えない。身長も、筋肉も、肌も、髪も、学力も、全部消えない。


でも、偏差値は見られない。新たなミッションも来ない。



YESは選べなかった。


というか、選べるわけがなかった。


踊り場の床に這って、立ち上がれなかったあの夜。川沿いで、死ぬべきだろうかと思ったあの夕方。チップが頭に飛び込んできて、このパネルが現れた瞬間。


全部、このシステムと一緒にあった。


夏休みの40日間、腕立て伏せのフォームを何度も直した。英単語を何時間も繰り返した。雨の日も走った。


体育祭では、田村先生に何度断られても頼み込んで、ゴールテープを切った。学年8位の答案を見ながら、静かに感じたものもあった。


全部、このシステムがくれたミッションがあったからだ。


俺をここまで変えてくれたシステムを消すなんて、絶対にできなかった。


NOを選んだ。


パネルが静かに閉じた。



椅子の背もたれに頭を預けて、天井を見た。


通知を消すことはできなかった。でも今日、一つわかったことがあった。


俺はこのシステムを、絶対に手放したくない。


それが依存なのか、感謝なのか、今はまだわからなかった。でも少なくとも、自分がどう思っているかだけははっきりした。


窓の外は、もう暗かった。


パネルは今も視界の端に薄く浮かんでいた。


俺はそれを、しばらくそのままにしておいた。



夜、橘にLINEを送った。


『通話、今大丈夫?』


少し間があってから、『いいよ』と返ってきた。


着信をかける。


「この前、相談に乗ってくれてありがとう」


「あの仮の話の続きなんだけど」


「仮の話?」


「他人との比較を直感的にわかる能力があったら、っていうやつ」


「ああ」


橘の声は、いつも通り静かだった。


「俺は多分、その能力があっても、邪魔だから今後は絶対に使わない、っていう選択はできない」


橘は黙って聞いていた。


「なら、使いたいときはそれを参考にして、競争本能丸出しでやる気になって努力すればいい。他人と比較することに疲れたときは、比較しない。参考値として見るだけにして、過去の自分と比べてどうかだけを考える」


「うん」


「トレーニング次第でコントロールできるって言ってたよな。なら俺は、トレーニングして使いこなす」


少し間があった。


「仮の話の結論を、わざわざ報告してくれたの?」


橘の声は、少し笑っているようだった。


「ありがとう」


「礼を言われるとは思ってなかったけど」


「でも、整理できたならよかった」


橘は少しだけ間を置いた。


「使うかどうかを、自分で決めようとしてるんでしょ。その仮の能力と、ちゃんと付き合おうとしているんだと思う」


俺は黙って聞いた。


「ただ」


橘は続けた。


「きっと、見たくないのに見ちゃう時もあると思う。振り回される時もあるはず」


「……でも、橘はできるって言っただろ」


「簡単にできるとは言ってない」


橘の声は静かだった。


「できない時があっても、気づければいい。気づいて、次は少しだけ距離を取る。それを繰り返すしかないと思う」


「……気づければな」


「うん。まずはそこからでいいと思う」


橘は、そこで少し黙った。それから、また静かに続ける。


「それに、天野くんが、たとえ他人との比較で劣っていても、天野くんの価値が消えるわけじゃない」


価値。


その言葉に、少し引っかかった。


「順位が下がっても、誰かに負けても、天野くんがここまでやってきたことまで消えるわけじゃない」


あの頃の俺に価値なんてあったのか。


1学期の俺は、教室ではいないものみたいに扱われて、黒川たちには踏まれて、笑われていた。価値がある人間なら、あんな扱いはされない。ずっとそう思っていた。


でも、その瞬間、母さんの顔が浮かんだ。


俺が変わる前から、母さんだけはずっと俺を見ていた。何もできなかったときも、誰にも認められていなかったときも、そこにいることをちゃんと見てくれていた。


もしかしたら、価値がなかったわけじゃないのかもしれない。


俺が、自分に価値があると思えなかっただけで。


「私は、応援してる」


俺は何も言えなかった。


「……橘、ありがとう」


「うん」


そこで終わると思った。でも、橘は少しだけ黙ってから続けた。


「私から、もう一つだけいい?」


「なに?」


「前にも言ったけど、黒川くんと田中くんにしたことは、私は良くなかったと思ってる」


俺は黙った。


「小林くんを助けたことは間違ってない。でも、あの時のやり方でクラスのみんなを怖がらせたことまで、なかったことにはできないと思う」


橘の声は静かだった。


「謝った方がいいと思う。全部じゃなくていい。やりすぎた部分だけでいいから」


すぐには返せなかった。


黒川たちに謝る。クラスに謝る。考えただけで、胸の奥がざらついた。


でも、そこに触れないまま前に進もうとしても、どこかで足が止まる気がした。


クラスの空気が変わったこと。小林に怖がられたこと。伊藤に「怖かった」と言われたこと。


その全部を、俺はまだちゃんと見ていない。


見ないふりをしたまま、勉強や筋トレに逃げている。


だから、どれだけ積み上げても、足元がぐらついているのかもしれなかった。


「……考えておく」


「うん」


橘はそれ以上、何も言わなかった。


通話が終わった。



スマホを机に置いて、メモアプリを開いた。


整理することにした。


【自分のルール】


①誰かに勝ちたいと強く願う時は、システムを参考にして使う。競争本能をそのままやる気に変える。


②漠然とした「誰かに負けたくない」という時は、振り回されている可能性が高い。できるだけ気にしない。ステータスコミットがマイナスでも、過去の自分と比べてどうかだけを焦点にする。


③ミッションは引き続き、できるだけクリアする。理由は自分の能力を高められるから。ここは割り切る。


書き終えて、読み返した。


完璧じゃない。②なんて、実際にできるかどうかわからない。振り回されそうになったとき、本当にこのルールを思い出せるかどうかもわからない。


それでも、何もないよりはずっとましだ。


橘に『整理できた。ありがとう』とLINEを送った。


既読になってから、しばらくして『よかった』とだけ返ってきた。



カレンダーを見た。


3学期の残りが2週間になっていた。


まだ、やり残したことがある。

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