第40話 対話①
橘は、俺が話すのを待ってくれていた。
「自分なりに努力はしているつもりなんだけど」
口に出すと、思ったより声が重かった。
「運動能力の維持が精一杯で、友達との会話もうまくできないことを感じる。かなり勉強したのに、学年末テストは前回より順位が落ちた」
「うん」
橘は促さなかった。ただ、聞いていた。
「やっぱり根本的に、俺の元の力が他の人と比べて劣っているんだと思う。それで自信をなくしてる」
橘が少し首を傾けた。
「他の人より劣っているって?」
偏差値システムのことが頭をよぎった。数字で全部測られている、あのパネルのことを。
でも、それは言えない。言えるわけがない。
「例えば今回の学年末テストが代表的な例だよ。かなり勉強したのに、順位は15位に落ちた。俺の能力が他人より劣っている証拠だ。順位が物語ってる。前回より悪くなったってことを」
橘は少し間を置いた。
「十分いい順位だと思う。そもそも、他人と競う必要、ある?」
「それはあるだろ。大学受験もそうだし。人間社会はそういうものだ。競って劣っていたら、痛い目を見る」
「大学受験に基準があるのは確かだね」
橘は静かに言った。
「でも、それは基準を超えるかどうかの話でしょ。天野くん自身が、ずっと他人を見続ける必要はない」
「そんな綺麗な話じゃない。いじめだってそうだろ。強い奴が弱い奴を踏む。だから強くなきゃいけない。人より上でなきゃいけない」
「いじめは悪いこと。そもそも、する側が間違ってる」
「綺麗事言ってんじゃねえよ」
声が、思ったより大きくなった。
「綺麗事じゃない」
橘の声は変わらなかった。
「暴力や脅しがあるなら、証拠を集めて先生や親に出せば、処分に持っていける」
「俺は1学期のときに酷いいじめに遭っていた。先生はそれを知った上で見て見ぬふりをした。知ってるだろ」
「録音や録画や証拠は取った? 直接、先生や親やPTAに言った?」
「は?」
思わず声が出た。
「そんなことしたら、とんでもない仕返しに遭うだろ」
「でも、証拠や証言があれば、退学や警察沙汰もあり得ると思う」
橘は俺をまっすぐ見ていた。
「自分に非があることをしていて、証拠を取ってくる相手を、さらにいじめようって普通は思うかな?」
俺は少し黙った。
「……でも、そんな騒ぎになるのは普通に嫌だろ。親にも知られるし、学校中に広まる」
「それって結局、人と比べて、恥ずかしいと思っていたってことじゃない?」
橘はさらに続けた。
「いじめを防ぐ方法が、なかったわけではないと思う」
「……人と比べるなんて当たり前だ。そんな恥ずかしいことしたら、学校で生活できなくなる」
「いじめられている方が、学校生活しづらいと思うけど?」
少し間が空いた。
橘は、そこで一度だけ視線を落とした。
「極端なことを言えばね」
そして、また俺を見る。
「天野くんは、いじめられていることを相談する方がもっと恥ずかしいと思っていた。だから結果として、受け入れていたことになると思う」
俺は、かっとなった。
こいつ、自分が何を言っているのかわかっているのか。
俺がいじめられていたとき、どれだけ必死に耐えていたと思っている。毎日、ただ学校に行って帰るだけで精一杯だった。
本気で、死のうかと思ったことだってある。
「ふざけるなよ」
気づけば、声は低くなっていた。
「いじめられてるときに、どれだけ苦しかったと思ってるんだ。あれを受け入れてた、だと? 馬鹿言うな。体力も精神も削られきって、何もできなくなってたんだぞ。そんな状態のやつに、証拠を取れだの、PTAに言えだの、そんな冷静で勇気のいることができるわけないだろ」
言いながら、息が荒くなるのが自分でもわかった。
「お前の言ってることは、骨折してるやつにフルマラソン走れって言うのと同じだ」
橘はすぐには返さなかった。
少しだけ伏し目がちになって、それから静かに口を開いた。
「……それは、そうかもしれない」
声の調子は変わらなかった。でも、さっきまでとは少しだけ違っていた。
「あのときの天野くんに言うことじゃなかった。酷な言い方だったと思う。ごめんなさい」
俺は黙ったまま、橘を睨んだ。
「でも」
橘は続けた。
「時間が経った今だからこそ、考えられることもあると思う。もし、恥ずかしいとか、人と比べてどう見られるかとか、そういうことにあまり縛られずにいられたなら、あそこまで追い詰められずに済む方法もあったかもしれない」
すぐには言い返せなかった。
言葉が喉の奥でつかえたみたいに、出てこない。
少し間が空いてから、俺は吐き捨てるように言った。
「……恥ずかしがるなとか、人と比べるなとか、簡単に言うなよ」
声が少し掠れていた。
「じゃあ、俺が体育祭であそこまで頑張ったのは何だったと思う。あれは黒川に勝ちたかったからだ。ああいう人と比べての努力もダメだって言うのか」
「スポーツでライバルを意識して努力すること自体は、別に悪くない。そういう頑張りなら、私も応援する」
橘は少しだけ間を置いた。
「私が言ってるのは、人と比べることに振り回されて、自分が苦しくなってるなら、そんなくだらない比べ方はやめたほうがいいってこと」
しばらく、沈黙が落ちた。
くだらない。
その言葉が、頭の中に残っていた。
俺が今まで必死にしがみついてきたものを、そう言われた気がした。
「……じゃあ、どうしろって言うんだよ」
思ったより、ずっと小さい声が出た。
橘は少しだけ考えるように黙ってから、言った。
「私は、天野くんをどうにかしてあげることはできない」
「は?」
「天野くんの問題だから。最終的にどうするかを決めるのは、天野くんしかいない」
「じゃあ、何のためにこんな話してるんだよ」
刺々しく返した。
それでも、橘は表情を崩さなかった。
「ただ、もし私が天野くんの立場なら、今は他人と競わない」
俺は眉をひそめた。
「競うことで前に進めるときもある。やる気になることもあるし、実際に伸びることもある。でも、今の天野くんは違う。競うたびに削られてる」
橘の声は静かだった。
「勝つためじゃなくて、傷つくために競ってるみたいに見える」
「そんな都合よく、競うときと競わないときを分けられるかよ」
「分けられるよ」
橘は迷いなく言った。
「少なくとも、分ける練習はできる。何を見るかは、自分である程度選べるから」
「……選べる?」
「たとえば、同じテストの点数でも、前より10点上がったと見るのか、上に10人いると見るのかで、意味は全然変わるでしょ」
「……」
「どっちも事実。でも、どっちを見るかは選べる。少なくとも、選ぶ練習はできる」
俺は呆然とした。
そんなこと、本当にできるのか。
そんな単純なことを、俺は今まで一度もできていなかったのか。
「……本当に、そんなふうにできるのか」
「できると思う」
橘は言った。
「例えば、ライバルと競うことを選んだとする。その結果、順位がライバルより上だった。そのときに、自信をつけてさらに高みを目指すのか、それとも相手を見下すのか。それも、あなたの選択だよ」
俺は黙った。
頭の中で、黒川の姿が浮かんだ。
校舎裏で、体育祭で、体育館で、教室で。
俺は、勝った。
でも、その勝ち方をどう使ったのか。
そこまで考えて、胸の奥が少しだけ重くなった。
橘は少し間を置いてから言った。
「まあ、受け売りなんだけどね」
「受け売り?」
「昔、私も少し悩んでいた時期があって。そのときに教えてもらった。私が行きたい大学の教授に」
「じゃあ、橘はそのアドバイスを受けて、すぐ実行できたのかよ」
俺は言った。
「なるほど、他人との比較はやめよう。よし、やめた。そんなふうにできるか?」
「もちろん、すぐにはできなかったし、今も完璧にはできない」
俺は橘を見た。
「でも、意識することで、そのためのエネルギーは少しずつ貯められた。できるだけ落ち着いて、冷静に、自分が今やるべきことに集中できるようにする。すぐじゃなかったけど、少しずつ」
「……そんなことが、俺にもできるのか?」
橘が俺を見た。
「私でも少しはできるようになった。あれだけ変われた天野くんなら、できると思う」
俺は黙った。
違う、と心の中で思った。
俺にはシステムがあったから変われただけだ。
他人との比較を数字で見せられて、それに追い立てられながら変わった。橘が言う「自分の意識で変わった」とは根本的に違う。
でも。
何かが引っかかっていた。
「じゃあさ」
俺は口を開いた。
「もしも仮にだけど、他人との比較が直感的にわかる能力があったとしたら、どうする?」
橘が首を傾けた。
「なにそれ。面白いこと言うね」
「仮の話だよ」
橘は少し考えた。
「そうだね。私なら、使いたいときだけ使う。使いたくないなら使わない」
「……使わない?」
「うん。邪魔なら見ない。振り回されるなら、それは本当に邪魔な能力だと思う」
「そうか……」
俺はパネルのことを考えていた。
あのパネルは、他人との比較を数字で見せてくる。
それを見て焦って、見て消耗して、ここまで来た。
でも、橘が言うように、見たくないなら見なければいい。邪魔なら見ない。振り回されるなら、それは邪魔な能力だ。
使いたいときだけ使う。
そんな使い方が、俺にもできるのか。
◇
橘との会話に、必要なヒントが詰まっている気がした。
システムのことを話せたわけじゃない。でも橘との会話の中に、何かがあった。
「……怒鳴って悪かった。それと、話を聞いてくれてありがとう」
橘が少し俺を見た。
「別にいいよ。また話したくなったら聞くから」
それだけ言って、橘は立ち上がった。
「じゃあね」
橘が教室を出ていった。
◇
家に帰ると、里奈がリビングのソファにいた。
スマホを見ていたが、俺の顔を見た瞬間に少し目を細めた。
「うわ。今度はニヤついてるわ」
俺は少し止まった。
言われてみれば、さっきから顔の力が抜けている気がした。
「……里奈って、意外と俺の変化に気づくよな」
「は? 自意識過剰。兄貴がわかりやすすぎるだけだし」
里奈がスマホに視線を戻した。
相変わらずの毒舌だった。
でも、その雑な言い方で、少しだけ日常に戻れた気がした。
気づいたら笑っていた。
久しぶりだった。ここ最近、笑った記憶がなかった。
「何笑ってんの」
里奈はスマホを見たまま言った。
「別に」
「うわ。きもい」
それでも、まだ笑えた。
部屋に向かいながら、さっきの橘の言葉を思い返した。
使いたいときは使う。邪魔なら見ない。振り回されるなら邪魔な能力だ。
パネルは今も、視界の端に薄く浮かんでいた。
俺はそれを、意識して見なかった。
初めてそういう使い方をした気がした。




