第36話 制裁②
「俺に従うことだろ」
空気が凍った。
「は?」
「だって今は、お前のほうが俺より弱い立場だ」
俺は指を折るみたいに、一つずつ並べた。
「勉強は俺のほうが明確に上。喧嘩でも、お前は俺に勝てない。得意だった運動ですら、もう俺のほうが上だ。見ろ。クラスの空気も、もうお前の味方じゃない」
そこで教室をぐるりと見た。誰も否定しなかった。それどころか、空気がはっきり俺の背中を押していた。
「その通りだろ」
「天野のほうが明確に強いじゃん」
そんな声が、教室のあちこちから自然に上がる。
「なら、お前の理屈に従うなら、俺はお前を好きにしていいことになる。お前は、俺に従う側だ」
黒川の顔が歪んだ。
「ふざけんな……」
「田中」
また、その名前を呼ぶ。田中は完全に怯えた顔で俺を見た。
「お前はどう思う」
「お、俺は……」
「よく考えて言え」
今度は、クラス全体の視線が田中に集まった。田中がどちらにつくかを、全員が見ている。田中は数秒止まったあと、絞り出すように言った。
「……黒川は、今は天野より下だと思う……黒川の理屈だと、天野の言うこと聞くしかないと思う」
その答えに、教室の空気が一気に決まった。
「だよな」
「田中が言うならそうだろ」
「黒川、終わってるじゃん」
「自分で言ってたこと返されてるだけだし」
完全に、みんなが俺のほうを向いていた。黒川を敵として見ている。俺を止めるんじゃなく、俺が黒川をどう処理するかを見ている。それが、教室の空気そのものになっていた。
俺は、その空気を感じながら、ずっと頭の奥にあった光景を思い出していた。
教室の前で。みんなが見ている前で。黒川が、俺の前に頭を下げる。何度も何度も、空想の中でだけ見てきた光景だった。
今なら、それが現実になる。
「だがな黒川」
俺は言った。その名前を呼んだ瞬間、教室の空気がぴたりと止まった。
自分でもわかった。今の声は、普段の俺の声と同じなのに、同じじゃなかった。音量は大きくない。怒鳴ってもいない。でも、声が教室の真ん中に落ちた瞬間、全員の意識がそこへ引き寄せられる。
言葉が、ただ届くんじゃない。
逃げ場を塞ぐみたいに、まっすぐ相手の前に置かれる。聞いた側が、その意味を受け取る以外の選択肢を失う。
《カリスマ》が乗っている。そうとしか言えなかった。
「俺はお前の理屈を使って、お前をパシリにしたいわけじゃない。二度としないことを誓って謝ってほしいだけだ」
俺は続ける。
「だから、土下座しろ」
教室が完全に止まった。その言葉が落ちた瞬間、空気が一段深く沈んだ。誰もすぐには息を吸えなかったみたいに、静まり返る。
「……は?」
黒川の声は、さっきまでより明らかに弱かった。俺は黒川を見たまま、もう一度言った。
「クラス全員の前で、俺に土下座しろ」
今度は、自分でもはっきりわかった。
言葉を発した瞬間、教室の全員がその言葉をありえない要求としてではなく、今この場で実行されるべき命令として受け取っていた。
理屈を挟む空気がなかった。教室全体がもう、その先の展開を待つ側へ回っている。黒川一人だけが、その流れに取り残されていた。
1学期、俺がどれだけ見下ろされたか。どれだけ這いつくばらされたか。どれだけ笑われたか。その全部を、俺は今、この教室で取り返そうとしていた。
「ざけんな!」
黒川が吐き捨てる。でも、その声はもう空気を動かせなかった。逆に、その瞬間、教室のあちこちから声が飛んだ。
「いや、お前がやってたことじゃん」
「それくらいしろよ」
「小林にも天野にも謝れよ」
「お前の理屈ならそうなるだろ」
勢いは一気に広がった。
「土下座しろよ、黒川」
「自分で言ってたことだろ」
「弱いやつは従えって、お前じゃん」
「逃げんなよ」
黒川が一歩、後ずさる。肩が壁に近づいた。それでもまだ、睨む目だけは残っていた。
でも、その目にもう力はなかった。
田中が慌てたように黒川へ近づく。
「な、なあ、黒川……もう謝ろうぜ」
田中の声は震えていた。
「もう謝っちまおう。終わらせたほうがいいって。これ以上は、もう……」
「うるせえ」
黒川が低く返す。でも田中は、引かなかった。引けなかったんだと思う。今さら黒川側に立ち続けるほうが危ないと、本能でわかっている顔だった。
「頼むって。もう無理だろ、これ。謝ろうぜ。な?」
今、教室全体が俺の言葉の延長として動いているのが、はっきりわかった。
俺が命じた。その命令を、クラス全体が当然の流れとして引き受けた。
それは、ただ賛同されたのとは違った。俺の言葉が、そのまま教室の空気そのものになっていた。
それでも、黒川はまだ膝を折らなかった。
顔から血の気は引いている。目も揺れている。もう味方なんていないことも、教室の空気が完全に自分を切り捨てたことも、わかっているはずだった。
それでも、最後の意地だけで立っていた。
俺は黒川を見た。
「黒川」
名前を呼ぶと、黒川の肩がわずかに動いた。
教室が、さらに静まり返った。
「お前が俺にしたことも、小林にしたことも、もう取り消せない。土下座したところで、なかったことにはならない」
黒川の口元が、わずかに歪む。
「でも、謝ることはできる」
俺は一歩だけ近づいた。
「ここで謝れば、お前はまだ、自分のやったことを認めた人間として終われる」
言葉を置く。
逃げ道を、一つずつ塞ぐように。
「でも、ここで謝らないなら」
俺は黒川の目を見た。
「お前はこの先ずっと、弱い相手にしか強く出られず、自分の罪から逃げた卑怯者として扱われる」
黒川の目が揺れた。
「謝るか、逃げるか。選べ」
教室の誰も、声を出さなかった。
「これは、お前が自分の罪を認める最後の機会だ」
そして一拍おいて、続ける。
「そして、これが最後の通告だ」
そこで、一度だけ息を吸った。
次の一言に、意識を集中させる。
《カリスマ》が、喉ではなく、教室そのものに乗る感覚があった。俺の声が空気を震わせる前から、全員の意識がその言葉を受け入れる準備をしている。黒川の逃げ道が、言葉になる前に塞がっていく。
俺は、静かに告げた。
「土下座しろ」
声は大きくなかった。
でも、その一言だけが、異様に重かった。
黒川の顔から、さらに血の気が引いていく。数秒、耐えた。でも、もう無理だった。
ゆっくりと膝が落ちる。床に手がつく。
その姿を見た瞬間、胸の奥で何かが焼けるみたいに熱くなった。
ついに来た、と思った。
何度も空想した光景が、今、現実に目の前にある。黒川が、クラス全員の前で、俺の前に跪いている。
「……悪かった」
声は小さかった。
「聞こえねえな」
俺が言うと、また教室の空気が俺に乗った。
「ちゃんと言えよ」
「それじゃ聞こえない」
「謝れって」
黒川は顔を上げられなかった。
「……悪かった!」
今度は教室全体に届く声だった。その瞬間、俺の中の1学期が、少しだけ壊れる音がした気がした。
気持ちよかった。
本当に気持ちよかった。
この光景を写真に撮って残したいくらいだった。
でも、まだやることはある。
「小林にも謝れ」
黒川の肩が震える。
「……小林も、悪かった」
「田中、お前もだ」
田中は顔を引きつらせたまま、その場にしゃがみ込んだ。
「ご、ごめん……悪かった……!」
その声で、教室の流れは完全に決まった。
「だよな」
「最初からそうしとけよ」
「ほんと最低」
「もう無理だわ」
黒川が教室の中で持っていたものが、音もなく崩れていくのがわかった。俺はそれを、静かに見下ろしていた。
◇
これで俺のやりたかったことは、一応完遂した。
黒川が何をしてきたのか。そして、今はもう黒川のほうが下だということ。それを、教室全体が受け入れた。
だが、まだ終われなかった。
終われるわけがなかった。
俺がやられたのは、この程度じゃない。
でも、ここからはクラスのみんなに見せる必要はない。
「黒川」
「田中」
俺は2人を順に見た。
「ついてこい。小林も来てくれ」
口先だけでは、人は同じことを繰り返す。二度と逆らえないと、体で覚えさせること。俺にも。小林にも。もう手を出せないと、黒川自身にわからせること。
今しかない。
◇
校舎裏に着いた。
昼休みのざわめきも、ここまでは届かない。振り返る。黒川は唇を噛んでいた。田中は完全に怯えていた。小林だけが、何が起きるのかわからない顔で固まっていた。
「これで終わりにしてやる」
そう言って、最初に殴ったのは黒川だった。腹に一発。息が止まる音がして、黒川が折れる。
次に田中。同じ場所に、同じように入れる。2人とも抵抗しなかった。いや、できなかった。
顔は避けた。あとで見てすぐわかる傷は残さない。でも、痛みだけは残る場所を狙った。
一発では終われなかった。
何発か入れるたびに、2人の顔が変わっていく。怒りじゃない。完全な恐怖だった。
この表情が見たかった。
「小林」
俺は言った。小林がびくっとした。
「何発でもいい。好きなだけ殴っていい」
小林は動かなかった。顔が青かった。信じられないものを見るみたいに、俺と黒川を交互に見ていた。
「小林、やってやれよ」
もう一度言うと、小林はゆっくり前に出た。
最初の一発は、かなり弱かった。脇腹に当たるだけの、殴るというよりぶつけるような拳だった。
でも田中は情けない声を漏らした。小林の呼吸が荒くなる。
もう一発。今度は少し強い。黒川の腹に入る。
さらにもう一発。田中に。
小林の拳は綺麗じゃなかった。でも、その分だけ生々しかった。今までの分を、どうにかして返そうとしているのだけはわかった。
それでも、小林の顔は晴れなかった。嬉しさも、達成感もない。ただ必死だった。
俺は止めなかった。
5分もなかったと思う。でも体感では、もっと長かった。最後には、黒川も田中も完全に縮こまっていた。見上げる目の中にあったのは、悔しさよりはっきりした恐怖だった。
「最後にもう一回、謝れ」
俺が言うと、2人は反射みたいに膝をついた。
「……悪かった」
「ごめんなさい……」
「違う。土下座しろ」
2人はそのまま頭を下げた。
気持ちよさの、さらに上だった。
まるで脳の奥が痺れるみたいだった。夏休みから積み上げてきたものが、全部この瞬間のためにあったんじゃないかと思うくらい、気持ちよかった。
気づくと、口元が勝手に歪んでいた。
抑えようとした。でも、頬がぴくついて戻らない。笑ってはいけない場面だと頭ではわかっているのに、にやけが止まらなかった。
黒川と田中が地面に額をつけている。その光景を見るだけで、胸の奥から熱いものが込み上げてくる。
小林に見られたらまずいと思って、俺は少しだけ顔を逸らした。それでも、口元は完全には戻らなかった。
「小林、戻ろう」
俺は冷静を装って小林に言って、先に歩いた。小林は一瞬動けなかった。でも、すぐに後ろをついてきた。




