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第35話 制裁①

その日の昼休み。黒川は、明らかに苛立っていた。


バレーの試合が終わってから、ずっとそうだった。口数は少ないのに、空気だけが荒れている。何か一つでも気に入らないことがあれば、そのまま誰かにぶつけそうな、あの感じだ。


しかも今日は、それが最悪の方向に出ていた。


「おい、小林。購買行ってこい。焼きそばパンとカレーパン」


黒川が椅子に座ったまま言う。田中がその横で笑っている。


小林は立ち上がれなかった。膝の上で手を握ったまま、小さい声で言った。


「……お金、ない」


その瞬間、黒川の目が変わった。


「は?」


教室が一段、静かになる。


「今、本当にないんだよ……」


小林の声は小さかった。


「この前ので……もう……」


言い終わる前に、田中が吹き出した。


「ほぼ声聞こえなくてウケるわ!」


黒川が机を蹴った。鈍い音がして、小林の肩がびくっと跳ねる。


「お金持ってこいって言ったろ」


黒川の声は低かった。


「なんでこういう日に持ってきてねえんだよ。空気読めよ」


田中が横でさらに乗る。


「小林ってほんとノリ悪いよな」


「こういうとき普通、黙って行くだろ」


「使えねえなあ」


その周りに、また輪ができていた。黒川が中心にいて、田中が盛り上げる。近くの何人かが、止めるでもなく空気に流されて笑う。


何度も見てきた構図だった。


小林は、昔の俺みたいに、ただ耐えていた。逃げたいのに逃げられず、目だけが少し泳いでいる。その立ち方を、俺は知っていた。


腹の底が冷たくなった。



俺は、もっとステータスを上げてから《カリスマ》を使うつもりだった。


使うなら、もっと高い位置で。もっと確実に。もっと全部を整えてから。そう考えていた。


でも今の俺は、ステータスを上げるどころか、維持することすら怪しくなり始めている。この先また落ちるかもしれない。早く使わないと、次の機会はないかもしれない。


そして何より――今、この教室の空気は、たぶんもう黒川のものじゃない。


クラスメイトの黒川への印象は、ここ最近で確実に悪くなっていた。黒川の得意分野すらも俺が上回った。1つずつ、黒川の上にあった「当たり前」が崩れてきた。


その上で、今、小林にやっていることを、クラス全体が見ている。


小林を助けたい。それは本当だ。


でも、それだけじゃなかった。


俺は、何度も空想していた。1学期、踊り場で押さえつけられたあと。帰り道の川沿いで、悔しくてたまらなかった夜。ベッドに寝転がって、天井を見ながら、何度も何度も考えた。


黒川を、クラスメイト全員の前で土下座させたい。


俺に謝らせたい。


俺を笑っていた連中の前で、あいつのほうを地面に這わせたい。


あのときは、ただの空想だった。実現できるわけがないと、自分でもわかっていた。


でも今は違う。今ならできる。やるなら、今しかない。


しかも、徹底的にやる。


いじめは一度止まっても、また別の形で繰り返す。俺はそれを知っている。1学期も2学期もそうだった。


だったら、二度と手を出せないところまで落とすしかない。小林にも。俺にも。もう二度とできないところまで。


理屈じゃなく、体で覚える恐怖を刻む。序列が完全にひっくり返ったことを、黒川自身に飲ませる。


今しかない。


視界の端で、スキル欄が静かに光っていた。


━━━━━━━━━━━━━━━━━

【SPECIAL SKILL】


《カリスマ》


周囲の人間に対する影響力が

一時的に大幅上昇する。


発言・行動・存在感が、

通常を超えた説得力と求心力を持つ。


消費型スキル


【注意】

スキル使用中のあなたの発言は、

効果が切れた後も強く心に残ります。

━━━━━━━━━━━━━━━━━


俺はその文字を見た。


周囲の人間に対する影響力。発言が通る。心に残る。


ちょうどいい、と思った。


黒川がどんなやつかを、クラスに刻ませる。これで終わらせる。黒川が積み上げてきた序列を、この教室でひっくり返す。


そして、俺が1学期に何度も夢想した形で、黒川を地面に落とす。


━━━━━━━━━━━━━━━━━

【SPECIAL SKILL】


《カリスマ》

発動

━━━━━━━━━━━━━━━━━


体の内側から、何かが広がっていく感覚があった。


《瞬間解放・肉体》が全身を熱にするものだったとしたら、これは重力のようなものだった。俺の存在感が、空間ごと塗り替わっていく感覚だった。


ざわめきが、すっと一方向へ揃う。誰がどこを見て、誰が何を飲み込んでいたのかが、妙にはっきり見えた。


そして同時に、わかった。


今この教室の中心は、俺だ。


視線が集まっている。ただ見られているんじゃない。次に俺が何を言うのかを、全員が待っている。


言葉を置く前から、空気がその行き先を空ける。俺が喋るための静けさが、先にできる。


今なら通る。


俺は席を立った。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく響いた。


「やめろ、黒川」


声が、いつもと違った。喉の奥に、いつもの自分の声じゃない何かが乗っている感覚があった。


声量が上がったわけじゃない。でも、言葉の輪郭だけが異様にはっきりしていて、言葉が空気に溶けていく前に、その場にいる全員の耳に届いているような感覚があった。


教室が静まり返った。全員が俺に注目しているのを感じる。黒川がゆっくりこっちを向く。眉が動く。


「……あ?」


俺は黒川を見たまま言った。


「購買には自分で行け。小林に行かせるな」


自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。でもただ落ち着いているだけじゃなかった。言葉の一つひとつに、いつもより重さが乗っていた。


短く言ったはずなのに、教室の全員に同じ温度で刺さっているのがわかった。


黒川が立ち上がる。


「お前、関係ないだろ」


「関係ある」


その一言で、教室の空気がさらに俺の側へ寄ったのがわかった。


「1学期に、散々俺が行かされたからな。俺も関係あるんだよ」


「……たしかに」


「天野もやられてたし」


教室から小さい声が出始めていた。俺は少しだけ笑った。自分でも、声が妙に冷たくなっているのがわかった。


「たしか俺を殴ったとき、お前こんなこと言ってたよな」


黒川の目が細くなる。


「……何の話だよ」


「お前が強いから、お前が正しいって話だよ」


俺は一歩、前に出た。


「お前が強いから、俺を殴ってもいい。パシらせてもいい。金を取ってもいい。弱い奴は強い奴に従え。そういう理屈だったよな」


「覚えてねえよ、そんなの」


「田中」


俺は視線だけを田中に向けた。田中の肩がびくっと動いた。


「お前は覚えてるだろ」


「え……」


「よく考えてから言え」


声を荒げたわけじゃない。それでも、その一言だけで田中の逃げ場が消えたのがわかった。


教室中の視線が、一斉に田中へ向く。今、誰も田中を助ける気配がなかった。むしろ全員が、こいつは何て答えるんだ、と見ていた。


「嘘ついたら、どうなるかくらいわかるよな?」


田中の喉が動く。視線が泳ぐ。黒川を見る。俺を見る。また黒川を見る。


でも、黒川のほうに味方する空気は、もう教室のどこにもなかった。田中は顔を逸らした。


「……言ってた」


教室がまた静かになる。黒川の顔が引きつった。田中が続ける。


「黒川、たしかに言ってた。お前が弱いから悪いんだって。強い奴は何をしてもいいって」


その瞬間、クラスの視線が一斉に黒川へ向いた。


「田中、てめえ……」


黒川が低く言う。でも田中は、もう黒川を見られなかった。


俺はクラス全体を見渡した。


「聞いただろ」


誰も何も言わない。でも、空気は完全に俺の言葉を肯定していた。


「こいつは、そういう理屈で俺にも小林にも好き放題してきた」


俺は一つずつ、言葉を置いていった。


「パシリをさせた。

金を抜いた。

昼飯を床に落とした。

壁に押しつけた。

踊り場で膝を入れた。

地面に這いつくばった写真を撮って笑った。

他にも腐るほど、思い出せる」


教室の何人かが、はっきり顔をしかめた。


「うわ……」


「それはさすがに」


「普通に最低じゃん」


そういう声が、今度は黒川へ向けて漏れた。


「全部、こいつらがやったことだ」


田中の顔は完全に青くなっていた。今まで空気に流されていた連中も、もう笑っていられない顔をしていた。


「なあ、黒川」


俺はまた黒川を見た。


「お前の理屈が正しいなら、今、お前がやるべきことは小林に命令することじゃない」


黒川の眉が寄る。


「……なんだよ」


「俺に従うことだろ」


空気が凍った。

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