第35話 制裁①
その日の昼休み。黒川は、明らかに苛立っていた。
バレーの試合が終わってから、ずっとそうだった。口数は少ないのに、空気だけが荒れている。何か一つでも気に入らないことがあれば、そのまま誰かにぶつけそうな、あの感じだ。
しかも今日は、それが最悪の方向に出ていた。
「おい、小林。購買行ってこい。焼きそばパンとカレーパン」
黒川が椅子に座ったまま言う。田中がその横で笑っている。
小林は立ち上がれなかった。膝の上で手を握ったまま、小さい声で言った。
「……お金、ない」
その瞬間、黒川の目が変わった。
「は?」
教室が一段、静かになる。
「今、本当にないんだよ……」
小林の声は小さかった。
「この前ので……もう……」
言い終わる前に、田中が吹き出した。
「ほぼ声聞こえなくてウケるわ!」
黒川が机を蹴った。鈍い音がして、小林の肩がびくっと跳ねる。
「お金持ってこいって言ったろ」
黒川の声は低かった。
「なんでこういう日に持ってきてねえんだよ。空気読めよ」
田中が横でさらに乗る。
「小林ってほんとノリ悪いよな」
「こういうとき普通、黙って行くだろ」
「使えねえなあ」
その周りに、また輪ができていた。黒川が中心にいて、田中が盛り上げる。近くの何人かが、止めるでもなく空気に流されて笑う。
何度も見てきた構図だった。
小林は、昔の俺みたいに、ただ耐えていた。逃げたいのに逃げられず、目だけが少し泳いでいる。その立ち方を、俺は知っていた。
腹の底が冷たくなった。
◇
俺は、もっとステータスを上げてから《カリスマ》を使うつもりだった。
使うなら、もっと高い位置で。もっと確実に。もっと全部を整えてから。そう考えていた。
でも今の俺は、ステータスを上げるどころか、維持することすら怪しくなり始めている。この先また落ちるかもしれない。早く使わないと、次の機会はないかもしれない。
そして何より――今、この教室の空気は、たぶんもう黒川のものじゃない。
クラスメイトの黒川への印象は、ここ最近で確実に悪くなっていた。黒川の得意分野すらも俺が上回った。1つずつ、黒川の上にあった「当たり前」が崩れてきた。
その上で、今、小林にやっていることを、クラス全体が見ている。
小林を助けたい。それは本当だ。
でも、それだけじゃなかった。
俺は、何度も空想していた。1学期、踊り場で押さえつけられたあと。帰り道の川沿いで、悔しくてたまらなかった夜。ベッドに寝転がって、天井を見ながら、何度も何度も考えた。
黒川を、クラスメイト全員の前で土下座させたい。
俺に謝らせたい。
俺を笑っていた連中の前で、あいつのほうを地面に這わせたい。
あのときは、ただの空想だった。実現できるわけがないと、自分でもわかっていた。
でも今は違う。今ならできる。やるなら、今しかない。
しかも、徹底的にやる。
いじめは一度止まっても、また別の形で繰り返す。俺はそれを知っている。1学期も2学期もそうだった。
だったら、二度と手を出せないところまで落とすしかない。小林にも。俺にも。もう二度とできないところまで。
理屈じゃなく、体で覚える恐怖を刻む。序列が完全にひっくり返ったことを、黒川自身に飲ませる。
今しかない。
視界の端で、スキル欄が静かに光っていた。
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【SPECIAL SKILL】
《カリスマ》
周囲の人間に対する影響力が
一時的に大幅上昇する。
発言・行動・存在感が、
通常を超えた説得力と求心力を持つ。
消費型スキル
【注意】
スキル使用中のあなたの発言は、
効果が切れた後も強く心に残ります。
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俺はその文字を見た。
周囲の人間に対する影響力。発言が通る。心に残る。
ちょうどいい、と思った。
黒川がどんなやつかを、クラスに刻ませる。これで終わらせる。黒川が積み上げてきた序列を、この教室でひっくり返す。
そして、俺が1学期に何度も夢想した形で、黒川を地面に落とす。
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【SPECIAL SKILL】
《カリスマ》
発動
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体の内側から、何かが広がっていく感覚があった。
《瞬間解放・肉体》が全身を熱にするものだったとしたら、これは重力のようなものだった。俺の存在感が、空間ごと塗り替わっていく感覚だった。
ざわめきが、すっと一方向へ揃う。誰がどこを見て、誰が何を飲み込んでいたのかが、妙にはっきり見えた。
そして同時に、わかった。
今この教室の中心は、俺だ。
視線が集まっている。ただ見られているんじゃない。次に俺が何を言うのかを、全員が待っている。
言葉を置く前から、空気がその行き先を空ける。俺が喋るための静けさが、先にできる。
今なら通る。
俺は席を立った。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく響いた。
「やめろ、黒川」
声が、いつもと違った。喉の奥に、いつもの自分の声じゃない何かが乗っている感覚があった。
声量が上がったわけじゃない。でも、言葉の輪郭だけが異様にはっきりしていて、言葉が空気に溶けていく前に、その場にいる全員の耳に届いているような感覚があった。
教室が静まり返った。全員が俺に注目しているのを感じる。黒川がゆっくりこっちを向く。眉が動く。
「……あ?」
俺は黒川を見たまま言った。
「購買には自分で行け。小林に行かせるな」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。でもただ落ち着いているだけじゃなかった。言葉の一つひとつに、いつもより重さが乗っていた。
短く言ったはずなのに、教室の全員に同じ温度で刺さっているのがわかった。
黒川が立ち上がる。
「お前、関係ないだろ」
「関係ある」
その一言で、教室の空気がさらに俺の側へ寄ったのがわかった。
「1学期に、散々俺が行かされたからな。俺も関係あるんだよ」
「……たしかに」
「天野もやられてたし」
教室から小さい声が出始めていた。俺は少しだけ笑った。自分でも、声が妙に冷たくなっているのがわかった。
「たしか俺を殴ったとき、お前こんなこと言ってたよな」
黒川の目が細くなる。
「……何の話だよ」
「お前が強いから、お前が正しいって話だよ」
俺は一歩、前に出た。
「お前が強いから、俺を殴ってもいい。パシらせてもいい。金を取ってもいい。弱い奴は強い奴に従え。そういう理屈だったよな」
「覚えてねえよ、そんなの」
「田中」
俺は視線だけを田中に向けた。田中の肩がびくっと動いた。
「お前は覚えてるだろ」
「え……」
「よく考えてから言え」
声を荒げたわけじゃない。それでも、その一言だけで田中の逃げ場が消えたのがわかった。
教室中の視線が、一斉に田中へ向く。今、誰も田中を助ける気配がなかった。むしろ全員が、こいつは何て答えるんだ、と見ていた。
「嘘ついたら、どうなるかくらいわかるよな?」
田中の喉が動く。視線が泳ぐ。黒川を見る。俺を見る。また黒川を見る。
でも、黒川のほうに味方する空気は、もう教室のどこにもなかった。田中は顔を逸らした。
「……言ってた」
教室がまた静かになる。黒川の顔が引きつった。田中が続ける。
「黒川、たしかに言ってた。お前が弱いから悪いんだって。強い奴は何をしてもいいって」
その瞬間、クラスの視線が一斉に黒川へ向いた。
「田中、てめえ……」
黒川が低く言う。でも田中は、もう黒川を見られなかった。
俺はクラス全体を見渡した。
「聞いただろ」
誰も何も言わない。でも、空気は完全に俺の言葉を肯定していた。
「こいつは、そういう理屈で俺にも小林にも好き放題してきた」
俺は一つずつ、言葉を置いていった。
「パシリをさせた。
金を抜いた。
昼飯を床に落とした。
壁に押しつけた。
踊り場で膝を入れた。
地面に這いつくばった写真を撮って笑った。
他にも腐るほど、思い出せる」
教室の何人かが、はっきり顔をしかめた。
「うわ……」
「それはさすがに」
「普通に最低じゃん」
そういう声が、今度は黒川へ向けて漏れた。
「全部、こいつらがやったことだ」
田中の顔は完全に青くなっていた。今まで空気に流されていた連中も、もう笑っていられない顔をしていた。
「なあ、黒川」
俺はまた黒川を見た。
「お前の理屈が正しいなら、今、お前がやるべきことは小林に命令することじゃない」
黒川の眉が寄る。
「……なんだよ」
「俺に従うことだろ」
空気が凍った。




