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第34話 制裁前

小テストの範囲が発表されてから、俺はかなり意識して動いた。


眠いかどうかではなく、時間になったら寝る。気分が乗るかどうかではなく、机に向かう。授業中も、先生の言葉を流さない。小テストに出そうな部分に印をつけて、わからないところはその日のうちに潰した。


以前なら、「このくらいなら大丈夫だろう」と思っていたところも、今は思わなかった。


一度落ちたことで、維持することの難しさがやっとわかった。上げることより、落とさないことのほうが難しい場面もある。


偏差値とは、そういうものなのかもしれなかった。



小テストの日が来た。


範囲は狭かった。だからこそ、落とせなかった。授業前にも見直した。昼休みにも確認した。前日までに何周もした問題ばかりだった。


解いている最中、自分でも感触は悪くなかった。手が止まるところは少なかったし、迷ってもすぐに戻れた。


結果が返ってきたのは、翌日だった。


クラス1位。


答案を見た瞬間、少しだけ息を止めた。


……取った。


でも、そのすぐあとに点差を見た。


2位の橘とは、1点差だった。


胸の奥が、少し冷えた。


前回の期末テストはクラス2位だった。そこから今回、小テストでは1位を取った。結果だけ見れば上がっている。


それなのに、感覚は全然違った。


ギリギリだった。


本当に、たまたま1位に滑り込んだだけに近かった。もしあと1問ずれていたら、1位は取れていなかった。


周りはかなり騒いだ。


「天野、今度は1位かよ」


伊藤が言った。


「やば。ついに橘越えかよ」


近くの男子もそう言った。


咲良も答案を見て、素直に声を上げた。


「え、1位? すご」


「ありがとう」


「ほんとに勉強できるよね、仁」


「今回、かなり難しくなかった?」


俺は「まあ、結構やったから」とだけ答えた。


周りから見れば、十分すごい結果なんだと思う。実際、1位だ。


でも、内心はかなり焦っていた。


1点差。


この1点差が、今の俺の不安定さそのものに見えた。


たぶん、今回の小テストに俺ほど必死に合わせたやつは多くない。アルバイトもほとんど入れず、授業前も昼休みも、範囲だけを何度も確認した。


それなのに、橘とは1点差だった。


橘は、いつも通りに見えた。特別に焦っていた様子もない。2位でも悔しそうな顔ひとつしない。いや、恐らく順位すら見ていない。


俺が全部を寄せて、ようやく1点上。


そう考えた瞬間、1位を取ったはずなのに、勝った感じがしなかった。


橘の普段通りの表情が、妙にいらついた。



家に帰ってすぐ、パネルを開いた。


小テストで結果を出したんだから、少なくとも学力は戻るか、せめて何かしら反応があるはずだと思った。


でも、数字はそのままだった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━

【STATUS】


学力   63

━━━━━━━━━━━━━━━━━


変わっていない。


「……は?」


思わず声が出た。


クラス1位だぞ、と思った。下がったあと、睡眠も整えて、かなり勉強した。それで何も上がらないのか。


小テスト程度で1位を取っても意味がないのか。


それとも、今の学力63という数字に見合った結果だったということなのか。


考えれば考えるほど、苛立ちと焦りが混ざっていった。



その日の夜だった。


机に向かっていたとき、またパネルが光った。


嫌な予感がした。


━━━━━━━━━━━━━━━━━

【ALERT】


精神が不安定な状態が続いています。


本システムは不安定な精神状態の場合、能力が下がりやすくなる補正が加わります。

━━━━━━━━━━━━━━━━━


「は?」


今度は、さっきよりはっきり声が出た。


精神が不安定だと、ステータスダウンが続く。


もっと焦った。


でも、その瞬間にわかった。


ここで焦るのは駄目だ。


今まさに、その焦りで精神が不安定だとしたら、さらに焦ったら、またステータスが下がるかもしれない。


椅子に深く座り直す。


息を吸う。吐く。もう一度吸う。ゆっくり吐く。


大丈夫だ。


落ち着け。


1回落ちただけだ。まだ終わってない。戻せる。戻すしかない。


そうやって自分に言い聞かせた。


でも、その日も勉強には集中できなかった。問題集を開いても、視線が同じ行を何度も滑る。トレーニングも同じだった。回数はこなした。でも、気持ちは散ったままだった。


頭の中では、ずっと数字がちらついていた。


ステータスが落ちた事実より、自分がそれだけ揺れていたことを、システムに見抜かれていたようで、それが一番きつかった。



翌日の午前の体育は、バレーボールだった。


正直、気分はよくなかった。小テストで1位を取ってもステータスは戻らない。精神が不安定だと下がりやすい、なんてアラートまで出る。


落ち着けと思うほど、頭のどこかで数字がちらついた。


そんな状態でチーム分けが終わり、コートに並ぶ。


向かい側に黒川がいた。田中も同じチームだった。


周りが少しざわつく。


「また天野 VS 黒川じゃん」


「体育祭の次はバレー?」


黒川はセンター寄りに立っていた。腕を組んで、こっちを見ている。何も言わない。田中はその横で、いつもの軽い笑いを浮かべていた。


その顔が、今は妙に腹立たしかった。


ステータスは落ちた。小テストで結果を出しても戻らなかった。自分が揺れていることまで、システムに見抜かれた。


その苛立ちが、黒川を見た瞬間、別の形になった。


こいつをバレーでも叩き潰す。


そう思った。


黒川の得意分野は、運動だ。1学期から、黒川は球技がかなり得意だった。あいつはできる側の人間で、周りもそれを認めている。


だからこそ、ここで勝てば意味がある。


今の俺は、運動神経64、筋力63、体格65。身長は179cmある。バレーなら、打点と体幹が効く。


黒川を事前準備なしで潰す材料は、もうこっちにもある。



試合が始まった。


最初のサーブで、俺はコート全体を見た。ネットの高さ。味方の位置。黒川の立ち位置。田中の動き。


黒川は序盤から速かった。レシーブの反応もいい。トスに入るのも自然だ。


少し甘いボールが上がった瞬間、迷わず踏み込んでスパイクを打ち込んでくる。


最初の1本は決まった。


「うわ、黒川やば」


「やっぱうまいな」


外から声が上がる。


田中も大きめの声で笑っていた。


「いや、今の普通にエグいって」


黒川は何も言わなかった。当然みたいな顔でポジションに戻る。


その感じも、いかにも黒川だった。


でも、2本目は違った。


こっちのレシーブが上がって、ラリーになる。相手の返球が少し浅い。黒川が前に出る。トスが上がる。


その瞬間、俺はタイミングを合わせて跳んだ。


黒川の腕が振り下ろされる。その前に、両手をネット際へ出す。


ボールが、手のひらに当たった。


そのまま真下に落ちる。


ブロックだった。


体育館の空気が、一瞬だけ止まる。


「え、止めた」


「マジ?」


「黒川のスパイクを?」


黒川の表情が一瞬だけ変わった。わずかだった。でも、余裕のある顔じゃなかった。


俺は着地して、ネット越しに黒川を見た。


黒川もこっちを見ていた。


胸の奥で、さっきまでの苛立ちが少しだけ形を持った。


ここだ。


ここで崩す。



そこからは、少し流れが変わった。


俺はネット際に残った。無理に全部を決めようとはしない。前に出すぎず、相手のトスと助走の角度を見る。


黒川は速い。


でも、自分の反応とセンスに自信があるぶん、強引に打ち切ろうとする癖があった。


もう1本、手に当てる。


今度は完全には落とせなかったが、勢いは殺せた。味方が拾ってつなぐ。


「ナイス!」


後ろから声が飛ぶ。


その次のラリーで、こっちにチャンスボールが来た。前衛にいた俺に、そのままトスが上がる。


跳ぶ。


黒川がブロックに来る。でも、打点は俺のほうが高い。視界の端で、黒川の手が見えた。


その上を抜くように、ボールを叩き込む。


「うわ」


「今のやば」


ボールが相手コートに刺さった。


黒川が、そこで初めてはっきりこっちを見た。


怒っているというより、悔しそうだった。純粋に、面白くない顔をしていた。


体育祭の種目別練習で俺に負けたときと、少し似ていた。


俺はネット際に寄った。


黒川の近くまで来たタイミングで、周りには聞こえない程度の声で言った。


「黒川、大したことないな」


「……んだと」


黒川の目が、はっきり変わった。


田中が何か言いかけたが、黒川はそっちを見なかった。俺だけを見ていた。


その顔を見て、胸の奥が少しだけすっとした。


良くない感情だとは思った。


でも、止められなかった。


落ちたステータス。戻らない数字。不安定だと見抜かれたこと。川島を避けたこと。咲良への違和感。橘への苛立ち。


全部が、黒川を崩すことに向いていた。



黒川も、そこからさらに前へ出てきた。


甘いボールが上がるたびに、自分で決めようとしてくる。でも、動きはさっきより雑だった。


踏み込みが早すぎる。肩に力が入りすぎて、コースも単調になっていた。


俺はそれを見て、冷静に合わせた。


黒川が焦れば焦るほど、次に来る場所が読めた。


ネット際の勝負では、完全に俺が上だった。


結果だけ見ても、差ははっきりしていた。


マッチポイントの時点で、黒川は6得点、0ブロック。俺は11得点、5ブロック。


内容でも、数字でも、圧倒していた。


「天野、すげえ!」


伊藤の声が響いた。


「黒川より全然すごいじゃん」


誰かが言った。


その言葉が、体育館の空気を変えた。


黒川よりすごい。


それは、黒川にとって一番聞きたくない言葉だったはずだ。


黒川の顔が一瞬で険しくなった。さっきまでの悔しさとは違う。苛立ちが、はっきり表に出ていた。


田中が慌てたように何か笑ってごまかそうとしたが、周りの視線はもう黒川だけには向いていなかった。


俺に向いていた。


黒川が積み上げてきた「運動なら黒川」という空気が、また崩れていく。


体育祭のときと同じだ。


でも今回は、もっと黒川の近くで起きていた。ネット1枚を挟んだ、目の前で。


結局、試合はこっちが取った。


終了の笛が鳴った瞬間、黒川がコートの端へ歩いていって、ボールを床に叩きつけた。


乾いた音が体育館に響く。


田中がすぐ横に寄ったが、黒川は何も言わなかった。ただ、強く舌打ちした。


苛立ちを隠す気もない顔だった。


外から女子の声が聞こえた。


「天野くん、バレーもうまいんだ」


「なんかもう黒川くんより上じゃない?」


「ていうか、黒川くんが前ほど絶対って感じしなくなったかも」


黒川には、たぶん聞こえていた。


腕を組んだまま、顔だけがさらに険しくなる。


俺は息を整えながら、それを横目で見た。


ちゃんと勝った。


黒川の得意分野で勝った。


その事実が、ステータスが下がったときの焦りとは別の場所で、胸の奥に残った。



体育が終わって、更衣室に向かいながら伊藤が言った。


「天野、バレーまでできるの?」


「身長と体幹が出ただけだよ」


「それを『だけ』で済ますのやめろって」


「最後、黒川めっちゃ悔しそうだったよな」


近くの男子が言った。


「ボール叩きつけるの、わかりやすすぎだろ」


俺は少し笑った。


「まあ、今日はネット際が噛み合ったから」


「いや、それができるのがすごいんだって」


伊藤が返す。


黒川が更衣室に入ってきた。


更衣室が静まり返った。


黒川が言った。


「何見てんだよ」


「別に。気のせいじゃないの」


俺が返して、そのまま伊藤に顔を向ける。


「あ、伊藤。次の授業って――」


黒川が舌打ちをしていた。


気持ちよかった。



教室に戻ると、まだ少し話題になっていた。


「天野くん、また黒川くんに勝ったよね」


「体育祭に続いてバレーも」


「なんかもう、めっちゃ運動できる人じゃん」


そんな声が聞こえる。


黒川は自分の席で腕を組んでいた。こちらを見なかった。でも、肩に力が入っているのがわかった。


田中も、俺のほうに視線を向けなかった。


さっきまでの軽い笑いは、もう消えていた。


俺は席に着いた。


勝った。


でも、まだ足りない。


黒川を地に落としてやりたい衝動に駆られていた。

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