第34話 制裁前
小テストの範囲が発表されてから、俺はかなり意識して動いた。
眠いかどうかではなく、時間になったら寝る。気分が乗るかどうかではなく、机に向かう。授業中も、先生の言葉を流さない。小テストに出そうな部分に印をつけて、わからないところはその日のうちに潰した。
以前なら、「このくらいなら大丈夫だろう」と思っていたところも、今は思わなかった。
一度落ちたことで、維持することの難しさがやっとわかった。上げることより、落とさないことのほうが難しい場面もある。
偏差値とは、そういうものなのかもしれなかった。
◇
小テストの日が来た。
範囲は狭かった。だからこそ、落とせなかった。授業前にも見直した。昼休みにも確認した。前日までに何周もした問題ばかりだった。
解いている最中、自分でも感触は悪くなかった。手が止まるところは少なかったし、迷ってもすぐに戻れた。
結果が返ってきたのは、翌日だった。
クラス1位。
答案を見た瞬間、少しだけ息を止めた。
……取った。
でも、そのすぐあとに点差を見た。
2位の橘とは、1点差だった。
胸の奥が、少し冷えた。
前回の期末テストはクラス2位だった。そこから今回、小テストでは1位を取った。結果だけ見れば上がっている。
それなのに、感覚は全然違った。
ギリギリだった。
本当に、たまたま1位に滑り込んだだけに近かった。もしあと1問ずれていたら、1位は取れていなかった。
周りはかなり騒いだ。
「天野、今度は1位かよ」
伊藤が言った。
「やば。ついに橘越えかよ」
近くの男子もそう言った。
咲良も答案を見て、素直に声を上げた。
「え、1位? すご」
「ありがとう」
「ほんとに勉強できるよね、仁」
「今回、かなり難しくなかった?」
俺は「まあ、結構やったから」とだけ答えた。
周りから見れば、十分すごい結果なんだと思う。実際、1位だ。
でも、内心はかなり焦っていた。
1点差。
この1点差が、今の俺の不安定さそのものに見えた。
たぶん、今回の小テストに俺ほど必死に合わせたやつは多くない。アルバイトもほとんど入れず、授業前も昼休みも、範囲だけを何度も確認した。
それなのに、橘とは1点差だった。
橘は、いつも通りに見えた。特別に焦っていた様子もない。2位でも悔しそうな顔ひとつしない。いや、恐らく順位すら見ていない。
俺が全部を寄せて、ようやく1点上。
そう考えた瞬間、1位を取ったはずなのに、勝った感じがしなかった。
橘の普段通りの表情が、妙にいらついた。
◇
家に帰ってすぐ、パネルを開いた。
小テストで結果を出したんだから、少なくとも学力は戻るか、せめて何かしら反応があるはずだと思った。
でも、数字はそのままだった。
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【STATUS】
学力 63
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変わっていない。
「……は?」
思わず声が出た。
クラス1位だぞ、と思った。下がったあと、睡眠も整えて、かなり勉強した。それで何も上がらないのか。
小テスト程度で1位を取っても意味がないのか。
それとも、今の学力63という数字に見合った結果だったということなのか。
考えれば考えるほど、苛立ちと焦りが混ざっていった。
◇
その日の夜だった。
机に向かっていたとき、またパネルが光った。
嫌な予感がした。
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【ALERT】
精神が不安定な状態が続いています。
本システムは不安定な精神状態の場合、能力が下がりやすくなる補正が加わります。
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「は?」
今度は、さっきよりはっきり声が出た。
精神が不安定だと、ステータスダウンが続く。
もっと焦った。
でも、その瞬間にわかった。
ここで焦るのは駄目だ。
今まさに、その焦りで精神が不安定だとしたら、さらに焦ったら、またステータスが下がるかもしれない。
椅子に深く座り直す。
息を吸う。吐く。もう一度吸う。ゆっくり吐く。
大丈夫だ。
落ち着け。
1回落ちただけだ。まだ終わってない。戻せる。戻すしかない。
そうやって自分に言い聞かせた。
でも、その日も勉強には集中できなかった。問題集を開いても、視線が同じ行を何度も滑る。トレーニングも同じだった。回数はこなした。でも、気持ちは散ったままだった。
頭の中では、ずっと数字がちらついていた。
ステータスが落ちた事実より、自分がそれだけ揺れていたことを、システムに見抜かれていたようで、それが一番きつかった。
◇
翌日の午前の体育は、バレーボールだった。
正直、気分はよくなかった。小テストで1位を取ってもステータスは戻らない。精神が不安定だと下がりやすい、なんてアラートまで出る。
落ち着けと思うほど、頭のどこかで数字がちらついた。
そんな状態でチーム分けが終わり、コートに並ぶ。
向かい側に黒川がいた。田中も同じチームだった。
周りが少しざわつく。
「また天野 VS 黒川じゃん」
「体育祭の次はバレー?」
黒川はセンター寄りに立っていた。腕を組んで、こっちを見ている。何も言わない。田中はその横で、いつもの軽い笑いを浮かべていた。
その顔が、今は妙に腹立たしかった。
ステータスは落ちた。小テストで結果を出しても戻らなかった。自分が揺れていることまで、システムに見抜かれた。
その苛立ちが、黒川を見た瞬間、別の形になった。
こいつをバレーでも叩き潰す。
そう思った。
黒川の得意分野は、運動だ。1学期から、黒川は球技がかなり得意だった。あいつはできる側の人間で、周りもそれを認めている。
だからこそ、ここで勝てば意味がある。
今の俺は、運動神経64、筋力63、体格65。身長は179cmある。バレーなら、打点と体幹が効く。
黒川を事前準備なしで潰す材料は、もうこっちにもある。
◇
試合が始まった。
最初のサーブで、俺はコート全体を見た。ネットの高さ。味方の位置。黒川の立ち位置。田中の動き。
黒川は序盤から速かった。レシーブの反応もいい。トスに入るのも自然だ。
少し甘いボールが上がった瞬間、迷わず踏み込んでスパイクを打ち込んでくる。
最初の1本は決まった。
「うわ、黒川やば」
「やっぱうまいな」
外から声が上がる。
田中も大きめの声で笑っていた。
「いや、今の普通にエグいって」
黒川は何も言わなかった。当然みたいな顔でポジションに戻る。
その感じも、いかにも黒川だった。
でも、2本目は違った。
こっちのレシーブが上がって、ラリーになる。相手の返球が少し浅い。黒川が前に出る。トスが上がる。
その瞬間、俺はタイミングを合わせて跳んだ。
黒川の腕が振り下ろされる。その前に、両手をネット際へ出す。
ボールが、手のひらに当たった。
そのまま真下に落ちる。
ブロックだった。
体育館の空気が、一瞬だけ止まる。
「え、止めた」
「マジ?」
「黒川のスパイクを?」
黒川の表情が一瞬だけ変わった。わずかだった。でも、余裕のある顔じゃなかった。
俺は着地して、ネット越しに黒川を見た。
黒川もこっちを見ていた。
胸の奥で、さっきまでの苛立ちが少しだけ形を持った。
ここだ。
ここで崩す。
◇
そこからは、少し流れが変わった。
俺はネット際に残った。無理に全部を決めようとはしない。前に出すぎず、相手のトスと助走の角度を見る。
黒川は速い。
でも、自分の反応とセンスに自信があるぶん、強引に打ち切ろうとする癖があった。
もう1本、手に当てる。
今度は完全には落とせなかったが、勢いは殺せた。味方が拾ってつなぐ。
「ナイス!」
後ろから声が飛ぶ。
その次のラリーで、こっちにチャンスボールが来た。前衛にいた俺に、そのままトスが上がる。
跳ぶ。
黒川がブロックに来る。でも、打点は俺のほうが高い。視界の端で、黒川の手が見えた。
その上を抜くように、ボールを叩き込む。
「うわ」
「今のやば」
ボールが相手コートに刺さった。
黒川が、そこで初めてはっきりこっちを見た。
怒っているというより、悔しそうだった。純粋に、面白くない顔をしていた。
体育祭の種目別練習で俺に負けたときと、少し似ていた。
俺はネット際に寄った。
黒川の近くまで来たタイミングで、周りには聞こえない程度の声で言った。
「黒川、大したことないな」
「……んだと」
黒川の目が、はっきり変わった。
田中が何か言いかけたが、黒川はそっちを見なかった。俺だけを見ていた。
その顔を見て、胸の奥が少しだけすっとした。
良くない感情だとは思った。
でも、止められなかった。
落ちたステータス。戻らない数字。不安定だと見抜かれたこと。川島を避けたこと。咲良への違和感。橘への苛立ち。
全部が、黒川を崩すことに向いていた。
◇
黒川も、そこからさらに前へ出てきた。
甘いボールが上がるたびに、自分で決めようとしてくる。でも、動きはさっきより雑だった。
踏み込みが早すぎる。肩に力が入りすぎて、コースも単調になっていた。
俺はそれを見て、冷静に合わせた。
黒川が焦れば焦るほど、次に来る場所が読めた。
ネット際の勝負では、完全に俺が上だった。
結果だけ見ても、差ははっきりしていた。
マッチポイントの時点で、黒川は6得点、0ブロック。俺は11得点、5ブロック。
内容でも、数字でも、圧倒していた。
「天野、すげえ!」
伊藤の声が響いた。
「黒川より全然すごいじゃん」
誰かが言った。
その言葉が、体育館の空気を変えた。
黒川よりすごい。
それは、黒川にとって一番聞きたくない言葉だったはずだ。
黒川の顔が一瞬で険しくなった。さっきまでの悔しさとは違う。苛立ちが、はっきり表に出ていた。
田中が慌てたように何か笑ってごまかそうとしたが、周りの視線はもう黒川だけには向いていなかった。
俺に向いていた。
黒川が積み上げてきた「運動なら黒川」という空気が、また崩れていく。
体育祭のときと同じだ。
でも今回は、もっと黒川の近くで起きていた。ネット1枚を挟んだ、目の前で。
結局、試合はこっちが取った。
終了の笛が鳴った瞬間、黒川がコートの端へ歩いていって、ボールを床に叩きつけた。
乾いた音が体育館に響く。
田中がすぐ横に寄ったが、黒川は何も言わなかった。ただ、強く舌打ちした。
苛立ちを隠す気もない顔だった。
外から女子の声が聞こえた。
「天野くん、バレーもうまいんだ」
「なんかもう黒川くんより上じゃない?」
「ていうか、黒川くんが前ほど絶対って感じしなくなったかも」
黒川には、たぶん聞こえていた。
腕を組んだまま、顔だけがさらに険しくなる。
俺は息を整えながら、それを横目で見た。
ちゃんと勝った。
黒川の得意分野で勝った。
その事実が、ステータスが下がったときの焦りとは別の場所で、胸の奥に残った。
◇
体育が終わって、更衣室に向かいながら伊藤が言った。
「天野、バレーまでできるの?」
「身長と体幹が出ただけだよ」
「それを『だけ』で済ますのやめろって」
「最後、黒川めっちゃ悔しそうだったよな」
近くの男子が言った。
「ボール叩きつけるの、わかりやすすぎだろ」
俺は少し笑った。
「まあ、今日はネット際が噛み合ったから」
「いや、それができるのがすごいんだって」
伊藤が返す。
黒川が更衣室に入ってきた。
更衣室が静まり返った。
黒川が言った。
「何見てんだよ」
「別に。気のせいじゃないの」
俺が返して、そのまま伊藤に顔を向ける。
「あ、伊藤。次の授業って――」
黒川が舌打ちをしていた。
気持ちよかった。
◇
教室に戻ると、まだ少し話題になっていた。
「天野くん、また黒川くんに勝ったよね」
「体育祭に続いてバレーも」
「なんかもう、めっちゃ運動できる人じゃん」
そんな声が聞こえる。
黒川は自分の席で腕を組んでいた。こちらを見なかった。でも、肩に力が入っているのがわかった。
田中も、俺のほうに視線を向けなかった。
さっきまでの軽い笑いは、もう消えていた。
俺は席に着いた。
勝った。
でも、まだ足りない。
黒川を地に落としてやりたい衝動に駆られていた。




