第32話(番外編) エピソード咲良
話数整理の都合で通常回として番号を振っていますが、今回は咲良視点の番外編です。
2学期初日から現在の場面まで、仁の変化や周囲の出来事を咲良がどう受け止めていたのかを描いています。
2学期初日。
教室に入ってきた男子を見て、最初は誰かわからなかった。
背が高くなっていて、体つきも変わっていて、顔の印象も全然違う。髪もすっきりしていて、制服の上からでも前より引き締まっているのがわかった。
「……あれ、誰?」
近くの子が小さく言った。
それが天野くんだと知ったとき、正直かなり驚いた。
1学期の天野くんは、黒川くんに雑に扱われていた。パシらされたり、笑われたりしているのを、何度か見たことがある。
でも、そのときの私は、深く考えなかった。
そういうものだと思っていた。
クラスには目立つ人がいて、目立たない人がいる。強い人がいて、弱い人もいる。天野くんは、そっち側の人なんだと、勝手に思っていた。
でも、2学期の天野くんは違った。
見た目だけじゃない。
黒川くんに焼きそばパンを買ってこいと言われたとき、天野くんは怯えなかった。
「自分で行けばいいだろ」
そう言い返した。
教室が静かになった。私も、思わず天野くんを見ていた。
本当に変わったんだ、と思った。
見た目だけじゃない。中身まで変わったんだ。
きっと、夏休みにものすごく努力したんだと思った。
◇
体育祭のリレーで、天野くんはさらに印象を変えた。
最初、アンカーは黒川くんで決まりだと思っていた。たぶん、クラスのみんなもそうだったと思う。黒川くんは運動ができる。足も速い。1学期からずっと、そういう人だった。
でも、天野くんは言った。
「俺がアンカーをやりたい」
最初は驚いた。でも、そのあとに続いた言葉を聞いて、少しだけ納得した。
「やる前から決める理由もない」
確かに、その通りだった。走ってみればわかる。
それから天野くんは、本当に練習していた。昼休みにグラウンドで走っていたし、放課後も走っていた。朝も田村先生に見てもらっていたらしいと聞いた。
本気なんだ、と思った。
そして、アンカーを決める日。
天野くんは、本当に黒川くんに勝った。
黒川くんが負けると思っていなかったから、教室中がざわついた。私も驚いた。でも同時に、少し納得もしていた。
あれだけ練習していたなら、起きてもおかしくない結果なのかもしれない。
体育祭本番でも、天野くんはすごかった。
A組のアンカーは陸上部の速い人らしいと聞いていた。それでも、天野くんは怯えているようには見えなかった。
バトンが渡る。
天野くんが走り出す。
気づいたら、私も声を出していた。
「天野くん!」
最後の直線、A組のアンカーが迫ってきた。でも天野くんは崩れなかった。そのまま、逃げ切った。
D組が沸いた。
天野くんが膝に手をついて、それから顔を上げた。笑っていた。
その顔を見たとき、素直にかっこいいと思った。
この人は、やると決めたら、本当にものすごく努力してやり切る人なんだ。
そう思った。
◇
体育祭のあと、初めてちゃんと天野くんに話しかけた。
「最近めっちゃ調子良さそうだね」
そう言うと、天野くんは落ち着いた声で返してきた。
思っていたより、ずっと話しやすかった。
前に見ていた天野くんとは違う。でも、変に調子に乗っている感じでもない。落ち着いていて、ちゃんと相手の言葉を聞いて返してくれる。
仲良くなれそうだな、と思った。
それから私は、気づけば天野くんに話しかけることが増えていた。
◇
美術室に向かう途中、木の上に猫がいるのを見つけた。
かなり高いところにいて、今にも落ちそうだった。
「……私、助けてこようかな」
思わず呟いていた。
でも、実際にはどう助ければいいかわからなかった。そのとき、天野くんが窓の外を見て、すぐに言った。
「ちょっと俺、行ってくる。佐々木と中村は先に美術室行ってて」
そう言って走り出した。
私は反射的に追いかけた。
「一緒に行くよ!」
猫は思ったより高い場所にいた。簡単には届かない。でも天野くんは、迷わず木に登った。
「今、助ける」
真剣な顔だった。
猫が枝から滑ったとき、私は必死で腕を伸ばした。なんとか受け止めることができた。猫に怪我はなかった。
安心したら、力が抜けた。
「……よかった」
そう言ってから、天野くんを見た。
「天野くんって、優しいんだね」
本気でそう思った。
そのあと美玲にからかわれて、かなり恥ずかしかった。でも今思うと、たぶんあのときから、天野くんのことを強く意識し始めたんだと思う。
◇
昼休み、勉強を教えてもらったあと、私は言った。
「お互い、下の名前で呼ばない?」
仲の良い友達には、わりとそう言う。だから、特別おかしなことではない。
でもそのときは、いつもより少し緊張した。
「咲良って呼んで。私も……仁くんって呼んでいい?」
天野くんは言った。
「仁でいいよ。くんはいらない」
だから、私は言った。
「じゃあ、仁」
少しだけ変な感じがした。
◇
水族館のチケットの話は、美玲に完全に仕組まれていた。
最初は3人で行く流れだったのに、美玲は「私は用事あるから」と言って、仁と私にチケットを渡した。
驚いた。
でも、嫌ではなかった。
むしろ、少し楽しみだった。
日曜日。待ち合わせ場所に行くと、仁はすごくちゃんとした格好をしていた。学校で見る制服姿とも、普段の感じとも違った。オシャレだった。
正直、少し驚いた。
仁は、私と出かけることをそこまで意識していないと思っていたから。
でも、仁は言った。
「昨日妹に急遽選んでもらった」
しかも、服を選んでもらうために、
「過去一で必死に頼んだ」
と言った。
私とのお出かけをそこまでちゃんと考えてくれていたんだ、と思ったら、少し返事に困った。
嬉しかった。
水族館では、何度もスタッフさんにカップルだと言われた。美男美女カップルとか、お似合いとか。
そのたびに恥ずかしかった。
でも、少しだけ嬉しくもあった。
仁は、たぶんクラスで一番かっこいいと思う。その仁と釣り合って見えるなら、嬉しい。
そんなこと、美玲に言ったら絶対にからかわれるから、絶対に言えないけど。
イルカショーも、写真も、餌やりも、全部楽しかった。
帰り際、私は勢いで言った。
「また、どっか行こうよ」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。でも仁は、普通に頷いてくれた。
「ぜひ」
それが嬉しかった。
◇
翌朝、美玲は当然のように聞いてきた。
「水族館で何があったの?」
でも、私は言わなかった。
仁と秘密にすると決めたから。
美玲は仁にも聞き出そうとした。でも仁は、かなり強引に逃げた。
「ダイオウグソクムシがいて――」
とか言い出して、美玲がすぐに止めていた。
それがおかしくて、思わず笑ってしまった。
仁は約束を守ろうとしてくれていた。その逃げ方が下手すぎて、でも少し嬉しかった。
私だけが知っている水族館のこと。
それがあるだけで、なんだか少し特別な気がした。
◇
ある日の昼休みだった。
仁が、川島さんと話していた。
最初は、ただ目に入っただけだった。
川島さんは、普段あまり目立たない。教室の中でも声は小さいし、自分から話題の中心に入ってくるタイプじゃない。
でも、そのときは違った。
机の上にスマホを置いて、画面を仁に見せながら、早口で何かを説明している。たぶん、ゲームの話だった。
仁はそれを聞いていた。
ただ相槌を打っているだけじゃない。ちゃんと画面を見て、途中で頷いて、時々質問もしている。
川島さんが何か言うたびに、仁の表情が少し動く。
興味があるときの顔だった。
私といるときより、楽しそうに見えた。
もちろん、本当にそうだったかはわからない。私がそう見ただけかもしれない。
でも、一度そう見えてしまうと、もう目が離せなかった。
川島さんの顔が、ぱっと明るくなる。
仁がまた何か聞く。
川島さんが嬉しそうに答える。
そのやり取りが、妙に自然だった。
仁は、私と話すときもちゃんと聞いてくれる。笑ってくれるし、返してくれる。
でも今の仁は、私の知らない話で、私の知らない顔をしていた。
そのとき、仁がふと顔を上げた。
目が合った。一瞬だった。
私は反射的に視線を逸らした。
見ていたことに気づかれた。
そう思った瞬間、胸の奥が少し跳ねた。
「咲良、聞いてる?」
美玲に言われて、はっとした。
「え?」
「今、話してたじゃん」
「あ、ごめん。なんだっけ」
笑ってごまかした。
美玲は、私の顔を見てから、私がさっきまで見ていた方へ視線を向けた。
仁と川島さん。
それから、もう一度私を見る。
「やっぱ気になってんじゃん」
そう言って、少しだけ笑った。
「ただボーッとしてただけだって」
慌てて返す。
「ふーん」
見透かされている気がした。
でも美玲はそれ以上つっこまず、何でもない話に戻った。
私は、その話にほとんど集中できなかった。
◇
昼休みが終わってからも、落ち着かなかった。
仁と川島さんが話していただけ。
それだけだ。
なのに、どうしてこんなに引っかかるんだろう。
仁が、私以外の誰かと楽しそうにしていたから。
しかも、私が入れない話題で楽しそうにしていたから。
それが面白くなかったのかもしれない。
◇
翌日の昼休み。
美玲が私の席に来た。
「昨日のことだけどさ」
「昨日?」
「川島さん」
少しだけ、胸が跳ねた。
「……川島さんがどうかした?」
「天野くんと、めっちゃ話してたじゃん」
「うん。ゲームの話でしょ」
軽く返したつもりだった。
美玲は、声を少し落とす。
「咲良、ちょっと嫌だったでしょ」
「……どうだろ」
「いや、絶対そうでしょ」
即答だった。
私は何も言えなかった。
美玲は責める感じじゃない。いつもの、少しからかうような軽い調子だった。
でも、外れてはいなかった。
「ああいうのさ。天野くん優しいから聞いちゃうじゃん。川島さんも、ああいう話になると止まらなそうだし」
「……まあ、川島さんはそういうタイプだよね」
「でしょ」
美玲は小さく笑った。
「でもさ、天野くんって最近いろいろ頑張ってるじゃん。勉強も、運動も、バイトも」
「うん」
「せっかくあそこまで変わったのに、またゲームとかアニメに戻っていくの、ちょっともったいなくない?」
そう言われると、少しだけ納得できる気がした。
仁は本当に頑張っている。体育祭の前も、期末の前も、バイトのことも。近くで見てきたから、それはわかる。
だから、また前みたいになるのは、少しもったいない。
「たしかにそうかも」
私も同意すると、美玲が頷いて続けた。
「でしょ。だからさ。川島さんにちょっと言っとく? 天野くんに話しすぎると迷惑かもよーって。別に怒るとかじゃなくてさ。空気読んだ方がいいよね、くらいの」
「え?」
「だってさ。川島さんのためにもなると思うよ」
「川島さんのため?」
「うん。ああいう話って、相手を選ばないと浮くじゃん。本人は楽しく話してるだけでも、周りから見るとちょっと重いっていうか」
「……それ、わかるかも」
「川島さん、ああいうの全開にしすぎると、損すると思うんだよね」
美玲の言葉は、ちゃんと正しいように聞こえた。
仁のため。
川島さんのため。
そう並べられると、止める理由が少しずつなくなっていく。
でも川島さんは、少し困るかもしれない。
だけど、美玲の言うことだって、間違っているわけじゃない。
仁のためにもなる。
川島さんにとっても、必要なことかもしれない。
だから、少しだけ言う。
少しだけ、気づいてもらう。
傷つけるためじゃない。
そう考えると、むしろ言うべきだと思った。
「咲良が言いづらいなら、私が言うけど」
美玲が言った。
「咲良はどうする?」
少し黙ってから、私は答えた。
「……私も行く。ちょっとだけ伝えた方がいいよね」
美玲が笑う。
「じゃ、行こ」
◇
川島さんは、席でスマホを見ていた。
たぶん、昨日仁に見せていたゲームだと思う。
私たちが近づくと、川島さんは顔を上げた。その目が、一瞬だけ不安そうに揺れた。
その顔を見た瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
でも、言わなくちゃいけない。
「川島さん、ちょっといい?」
美玲が先に声をかけた。
川島さんは小さく頷く。
「え、うん……なに?」
「ちょっと話したいなって思って。少しだけ別の場所で話せる?」
「うん……わかった」
私は笑顔で言った。
「ありがと。じゃあ行こっか」
教室から少し離れた、人の少ない場所へ移動した。
そこで、私は川島さんに言った。
「川島さんって、ゲームとかアニメの話、超好きだよね」
「え……うん。趣味かな」
「やっぱりそうなんだ」
美玲が軽く笑う。
「それってオタクってやつ?」
川島さんは少し戸惑った顔をした。
「そうなのかも」
「あはは。やっぱオタクなんだ」
美玲の笑い方は軽かった。
でも、少し角があった。
「じゃあさ」
美玲が言った。
「何かゲームとかアニメの話、聞かせてくれない?」
川島さんが固まる。
「え、突然言われても……」
その返答に、少し引っかかった。
私は言った。
「でもさ、この前、仁にはすっごい話してたじゃん」
仁の名前を出した瞬間、川島さんの顔が変わった。
「え?」
美玲が笑いながら続ける。
「えー。私たちにはできないの? ひど。差別じゃん」
私も言った。
「でも、なんで話せないの?」
川島さんは視線を落とした。
「……佐々木さんや中村さんは、そういうの興味ないかと思うし……」
その答えを聞いて、少しだけ言葉が詰まった。
正しい理屈だった。
私は興味がない。
たぶん、美玲もない。
でも、仁は興味があった。
だから話した。
それだけのことだった。
でも、私はそれが面白くなかった。
「じゃあさ」
美玲が先に口を開いた。
「天野くんにもしないほうがいいんじゃない?」
「あ、たしかに」
私は続けた。
「仁、最近はアニメもゲームもしてなくて、勉強とか筋トレとかバイトで忙しいって言ってたしね」
「だよね」
美玲が頷く。
そして私が続けて言った。
「川島さんも、あんまり話さないほうがいいよ。きっと」
「……うん」
川島さんの声が小さくなった。
スマホを持つ手が、少し下がる。
「川島さんのスマホケース、なんかすごいね」
私はつい思ったことを言った。
川島さんが自分のスマホを見る。
「あ……これ?」
美玲が横から言う。
「ほんとだ。やっぱこういうケースのほうがオタク感が出て、やる気出るの?」
川島さんの顔が、はっきり強張った。
「あ……えっと。……」
それを見て、美玲は少し言いすぎだと思った。
だから私は、慌てて言った。
「あ、美玲も怖がらせたいわけじゃなくて、本当に好きなんだねって言いたいだけだと思うよ」
美玲はすぐに乗った。
「そうそう。なんかごめんねー。でも、天野くんと話すときは、少し控えめにした方がいいかもね」
川島さんは、目を伏せたまま小さく頷いた。
「……うん。わかった」
その声を聞いた瞬間、胸の奥がきゅっとした。
でも、少しだけ楽になってしまった。
仁と川島さんが、昨日みたいに楽しそうに話すことは、たぶんしばらくない。
その時点で、私はもう、自分が何をしているのか本当はわかっていたのかもしれない。
「あとさ」
美玲が、軽い声で付け加えた。
「これ、別に悪口とかじゃないからね。変に誤解されたくないし、他の人には言わないでね」
川島さんが小さく頷く。
「……うん」
「うん。約束ね」
美玲がそう言って笑った。
「じゃあ、戻ろっか」
「……うん」
川島さんは、スマホを握ったまま頷いた。
◇
三人で教室に戻った。
教室の中は、いつもの昼休みのざわめきに戻っていた。
川島さんは自分の席に戻った。スマホを机に置く。でも、さっきまでみたいに画面を見ることはなかった。ただ、少しだけ俯いていた。
「じゃあ、よろしくね川島さん」
美玲が言うと、川島さんは小さく顔を上げた。
「……うん。またね」
声は小さかった。
私と美玲は、そのまま自分たちの席の方へ戻った。
少し離れたところで、美玲が私にだけ聞こえるくらいの声で言った。
「まあ、あれくらいでいいんじゃない?」
これは、仁と川島さんのためでもあるんだ。
そう思いたかった。
だから私は、美玲に返した。
「……うん。ありがと、美玲」
美玲は軽く笑った。
「いいよ。咲良が変に悩むからでしょ」
私は頷いた。
もう終わったことだ。
気にしないことにしよう。
そう思った。
でも、川島さんが俯いていた顔だけは、しばらく頭から離れなかった。




