第31話 水族館後①
デートの翌日。
教室に入ると、すぐに咲良と中村の姿が見えた。窓側の席のあたりで、2人が何か話している。
咲良は俺に気づくと、ほんの一瞬だけ目を合わせた。でも、すぐに何でもない顔に戻った。俺はそのまま自分の席に向かおうとした。
「天野くん、ちょっと来て」
中村だった。近づくと、中村が少し唇を尖らせていた。
「咲良がさ、水族館で何があったか全然教えてくれないんだけど」
その瞬間、俺は咲良を見た。咲良は中村の横で、一瞬だけ、こっちにウインクした。
……なるほど、と思った。
「そっか」
俺はそれだけ言って、自分の席に戻ろうとした。
「待ちなさい」
声が飛んできた。
「今の『そっか』で終わるの、絶対おかしいでしょ。天野くんから聞くから。写真はあるよね?」
「写真はない」
「え、本当にないの?」
「何があったかも、あんまり覚えてない」
「絶対嘘じゃん」と中村が言った。
「なんか感謝が足りないんじゃないかな。私の無料チケットで行けたんだからね」
そこまで言われたら、何か返さないといけない気がした。
「わかったよ」
俺は真面目な顔で言った。
「水族館にはダイオウグソクムシがいて、大きさは思ったより大きかった。甲殻の節がかなりはっきりしてて、脚も――」
「いや、ダイオウグソクムシは興味ないから」
中村が即座に切った。
「絶対わざとやってるよね」
「一番印象に残ってたから」
「絶対違うでしょ」
「いや、かなり存在感あったぞ」
「そこじゃないって言ってるの」
横で、咲良が吹き出した。
「ちょっと仁、それはふざけすぎ」
「何が」
「絶対わかっててやってるし」
「いや、印象的だったのはマジだから」
「もう! 本当に一番印象的なのがそれだとしたら、私にも謝ってほしいからね!」
そう言いながら、咲良は少しだけ笑っていた。
中村が「もういい! お幸せに!」と半分本気、半分笑いながら言った。
咲良が「いや、違うから!」と慌てて否定する。けれど、その声はいつもより少しだけ高かった。
朝から、教室の空気が少し軽かった。
◇
それから、何でもない日に咲良からLINEが来るようになった。
『勉強つかれた〜今日の課題難しすぎない?』
とか。
『これ可愛くない!?』
とか。
特に深い用事があるわけじゃない。でも、そういうどうでもいいメッセージが、たまに飛んでくるようになった。俺も、そのたびに適当に返した。
前なら、女子から意味のないLINEが来る、なんてこと自体がなかった。それが今は、少しずつ普通のことになりつつあった。
◇
そんなある日の昼休みだった。
少し休憩しようと思って席を立った。トイレにでも行くか、とぼんやり考えながら歩いていると、視界の端に見慣れない画面が入った。
川島だった。
机にスマホを置いて、何かのゲームをやっている。見たことのないタイトルだった。
思わず足が止まった。
「川島、今度は何やってるの?」
川島がぱっと顔を上げた。
その目が、一瞬で変わる。
「これ、新作なんだけど神でさ」
「そんなに」
「神。いや、ほんとに。まずテンポがいいし、UIがちゃんとしてるし、あと序盤の引きが上手い。今どきのソシャゲって最初の15分でだいたいわかるじゃん。でもこれ、その15分が異常にうまいの」
そこから先は早かった。
話し始めた瞬間、川島の言葉に熱が乗った。キャラデザ。戦闘テンポ。課金圧。ストーリーの導入。次から次へと出てくる。
俺は途中から、かなり本気で聞いていた。
昔の俺なら、そのまま一緒に始めていたかもしれない。話を聞いていると、普通に面白そうだった。
やっぱり川島は、この手の話になると強い。
ただ好きなだけじゃない。人を引き込む話し方をする。熱量と細かさが噛み合っていて、聞いている側が「それ、ちょっと見てみたいかも」と思うポイントを自然に押してくる。
「あと、このキャラがさ」
そう言って、川島がスマホの画面をこっちへ向けた。
俺は少し身を乗り出して画面を見た。
「これ、かなりデザインいいな」
「でしょ?」
川島が嬉しそうに言った。
その顔を見て、俺も少し笑った。
そのとき、視線を感じた。
何気なく顔を上げると、少し離れたところに咲良がいた。こっちを見ていた。
目が合った瞬間、咲良はすぐに視線を逸らした。
その横にいた中村が、今度は俺を見た。俺と目が合うと、中村はすぐに咲良のほうへ顔を寄せて、何か話し始める。
……なんだ?
少しだけ引っかかった。
でも、川島がまた画面を指さして話し始めたので、俺はそちらに視線を戻した。
気づけば、昼休みのかなりの時間が過ぎていた。
「……やば、もう休み終わる」
俺が言うと、川島が名残惜しそうに言った。
「話したりない〜」
「わかる。俺ももう少し聞きたかった」
「ほんと?」
「うん。また今度聞かせて」
「うん。絶対話す」
◇
翌日の昼休みだった。
俺が席でノートを開こうとしたとき、川島が咲良と中村に声をかけられているのが見えた。
「川島さん、ちょっといい?」
そんな感じだった。
3人はそのまま教室を出ていった。
珍しいな、と思った。
川島と咲良たちが、ああいうふうに一緒に動くのは見たことがない。
少しだけ引っかかった。
咲良と中村が川島を呼ぶ理由が、すぐには思いつかなかった。
昨日の視線もある。
それに、あの2人と川島は、普段から一緒に話す距離ではない。
胸の奥に、嫌な予感が残った。
気づいたときには、少し距離を置いて後を追っていた。
廊下の角を曲がった先。
人の少ないところで、3人が止まっていた。
俺は距離を取って、壁の陰に身を寄せた。
聞こえてきた。
「川島さんって、ゲームとかアニメの話、超好きだよね」
咲良の声だった。
明るい。いつもの声に近かった。
「え……うん。趣味かな」
川島が答える。
「やっぱりそうなんだ」
中村が軽く笑う。
「それってオタクってやつ?」
「そうなのかも」
「あはは。やっぱオタクなんだ」
笑い方は軽かった。
でも、少し角があった。
「じゃあさ」
中村が続ける。
「何かゲームとかアニメの話、聞かせてくれない?」
「え、突然言われても……」
川島の声が小さくなる。
そのあと、咲良の声がした。
「でもさ、この前、仁にはすっごい話してたじゃん」
仁。
俺の名前が出た瞬間、川島の声が止まった。
「え?」
中村が笑いながら言った。
「えー。私たちにはできないの? ひど。差別じゃん」
続けて咲良が言う。
「でも、なんで話せないの?」
少し間があった。
「……佐々木さんや中村さんは、そういうの興味ないかと思うし……」
その答えは、当たり前だった。
咲良たちは興味がない。
俺は興味があった。
だから、川島は俺に話した。
ただそれだけの話だった。
でも、その場の空気はそう受け取っていなかった。
「じゃあさ」
中村が言った。
「天野くんにもしないほうがいいんじゃない?」
「あ、たしかに」
咲良が続ける。
「仁、最近はアニメもゲームもしてなくて、勉強とか筋トレとかバイトで忙しいって言ってたしね」
「だよね」
中村が頷く。
そして、咲良が言った。
「川島さんも、あんまり話さないほうがいいよ。きっと」
「……うん」
川島の声が、さらに小さくなった。
咲良と中村の言葉は、表面だけ見れば軽かった。
でも、意味ははっきりしていた。
お前は、そこまで出てくるな。
お前は、あっち側の人間だろ。
お前は、自重しろ。
そういう種類の圧だった。
「川島さんのスマホケース、なんかすごいね」
咲良の声がした。
川島が小さく反応する。
「あ……これ?」
中村が横から言う。
「ほんとだ。やっぱこういうケースのほうがオタク感が出て、やる気出るの?」
川島の返事が、どんどん小さくなっていく。
上位にいる側が、下位にいる側へ線を引いている。
露骨ないじめではない。
でも、意味は十分すぎるほど伝わる。
咲良は、水族館で俺の横で笑っていた女の子だ。木の上の猫を見つけたとき、本気で心配して、助けようとした女の子でもある。
いつも明るくて、華やかで、かわいいものが好きな優しい女子高生だと思っていた。
でも今、目の前で行われている会話は、明らかにカースト差のある会話だった。
聞いていられなかった。
俺は壁から離れた。
胸の奥が、少し冷えた気がした。
◇
教室に戻りながら、考えた。
俺はもう、スクールカーストの下にいる人間じゃない。むしろ、かなり上の側にいる。
そうなると、川島と何も考えずに仲良く話すことが、そのまま川島の負担になる可能性がある。
俺が話す。それを見られる。上の側の人間と、下だと認識されている人間が近づく。
その結果、圧が川島に向く。
そこで、ふと別の見方も頭に浮かんだ。
今回、悪かったのは咲良だけじゃないのかもしれない。
咲良は、ただ自分が立っている場所の論理に従っただけだ。上の側にいる人間が、下の側にいる人間へ線を引く。残酷ではあるけど、あの教室の中ではそれが自然に流れている。
そこに、俺が割って入った。本来なら交わらない距離にあるはずの川島と、俺が何も考えずに仲良く話した。自分が今どの位置にいるのか、理解できたはずなのに、その線を捻じ曲げた。
だから、その反動が川島に向いた。
そう考えると、あの場で一番迂闊だったのは、俺だったのかもしれない。
咲良を完全に責める気にはなれなかった。もちろん、やっていることが正しいとも思わない。でも、あれは咲良個人の悪意だけで動いたものじゃない。
だから、俺にできることは何か。
一番単純なのは、川島とできるだけ話さないことだった。
そうすれば、少なくとも川島に余計な矢印は向きにくい。
……それが、一番川島のためになる。
そう思った。




