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第29話 水族館①

日曜日の朝、目が覚めた瞬間から今日のことを考えていた。


デートを成功させる。


時刻は6時。いつも通りだった。眠気はほとんどない。天井を見ながら、今日の流れを頭の中でなぞる。


待ち合わせは11時。場所は水族館。咲良が決めた。


失敗はしたくない。今日のために、準備はしてきた。


起き上がる。顔を洗って、コンタクトを入れて、スキンケアをする。髪も整える。


クローゼットを開けた。アイボリーのニット。ネイビーのスラックス。ライトグレーのコート。白のレザースニーカー。昨日、里奈に選んでもらった服だった。


着替えて、鏡を見る。


ちゃんとしていた。


深呼吸を1つする。


会話の本で読んだことを思い返す。


相手の話を遮らない。最初は肯定から入る。質問は詰めすぎない。沈黙を怖がらない。笑顔。少し明るめの声。焦らず、1拍置く。相手を自然に褒める。


今日の目的は1つだ。ミッションを成功させること。


正直、恋愛感情があるのかはまだわからない。でも、このミッションは咲良に好印象を与えるものでもある。



駅前に着いたのは10時54分だった。少し待つと、咲良が来た。


「仁!」


振り返ると、咲良がいた。


白っぽいコートに、やわらかい色のマフラー。髪はいつもより少し巻いてあって、学校で見るときより少しだけ雰囲気が違った。


顔を見た瞬間、咲良が目を細めた。


「……え、待って」


「なに?」


「仁、ちゃんとデートみたいな格好してる。すっごいオシャレじゃん」


「それは一応、女子と2人だし」


「うわ、ちゃんと意識してる人だ」


「意識するだろ普通」


「いや、なんか仁ってそういうの、ちょっと鈍いのかと思ってた」


咲良はそう言って笑った。


「咲良も制服姿とは全然違うな」


「ほんと?」


「うん。すごく似合ってる」


「……ほんと? 良かった。仁ってそういうのさらっと言うね」


「え、なんか言い方おかしい?」


「おかしくないけど、ちょっとびっくりした」


少しだけ間があって、咲良がまた俺の服を見た。


「でも、服ほんとちゃんとしてるね。そんなにセンスよかったんだ」


「いや……ネタバレすると、昨日妹に急遽選んでもらった」


「え、妹と服買いに行ったの? 仲良しだね」


「仲は良くない。かなり渋々」


「でも来てくれたんだ」


「俺が過去一で必死に頼んだから」


咲良は一瞬目を丸くして、少しだけ黙った。それから、何を言えばいいか迷うみたいに、照れたように笑った。


「そこまで服のセンス自信なかったんだ」



水族館の最寄り駅に着いたとき、俺は少しだけ落ち着かなかった。


水族館に近づけば近づくほど、周囲にやたらカップルが多いことに気づいた。


冬の日曜の水族館前だ。当然と言えば当然だった。並んでいる男女。手をつないでいる2人。マフラーを共有している2人までいる。


……そういう場所か。


今さら気づいた、と思った。水族館という単語だけ見ていた。デートスポットとしての水族館を、あまり想像していなかった。


「というかさ」


「なに?」


「周り、カップルだらけだね」


「……うん。気になってた」


「仁、ちょっと顔固くなってる」


「え、マジ? 緊張してきたかも」


「マジ。ちょっと面白い」


その時点で、もう笑われていた。


でも、俺は入口の方を見ながら言った。


「ただ、緊張より楽しみの方が大きいかも」


咲良が少し目を丸くした。


「そうなの?」


「水族館なんて、小学校以来だし。普通に楽しみだった」


それから、少しだけ言葉を探す。


「それに、咲良と見るのも楽しそうだと思ってる」


咲良が一瞬だけ黙った。


「……そういうの、急に言うよね」


「そう?思ったことを言っただけ」


「ちょっと反応に困るかも」


「なら、言うタイミングを間違えたかもしれない」


「ううん。嬉しい方で困ってるの」


そう言って、咲良は少しだけ顔を逸らした。



水族館に入ると、最初に大きな回遊水槽が見えた。


水槽の前は人が多かった。前のほうに多くの人が集まっていて、下のほうは少し見づらい。


「お、あそこにエイいる」


「え、どこ?」


「右の岩の奥」


俺が言うと、咲良が背伸びした。


「全然見えないんだけど」


咲良がもう一度ぴょんと背伸びする。でも見えないらしくて、すぐにこっちを見た。


「っていうか、背高いのずる。超有利じゃん」


「まあ、そういう場面もあるかも」


「あるかも、じゃなくてめっちゃあるでしょ。私、おんぶしてもらわないと見えないかも」


咲良が背伸びしながら言った。


つま先立ちになって、水槽の奥を覗こうとしている。でも人が多くて、やっぱり見えないらしい。少しだけ頬を膨らませて、こっちを見上げてきた。


「おんぶなら余裕。咲良くらいなら普通にいけると思う」


「え、私けっこう重いよ」


「いや、絶対いける。デッドリフトでもいけると思う」


「デッドリフトってなに?」


咲良が首を傾げた。


俺は、普通に説明した。


「床に置いた重いものを、背中と脚で持ち上げる筋トレ。ジムの基本種目の一つで、全身の後ろ側をかなり使う」


「ふーん……」


咲良は少しだけ考えるような顔をした。


そのあと、何かに気づいたみたいに俺を見る。


「よくわかんないけど、普通そういうときって、お姫様抱っこもいけるとか言わない?」


「あ」


言われてみれば、完全にそうだった。


女子を持ち上げる話をしているのに、最初に出てきたのがデッドリフト。


あ、ミスった。


「…たしかに。最近ジムでデッドリフトを教えてもらったから、そっちが先に出た」


「女子を持ち上げる話で、筋トレ種目が先に出るんだ」


咲良は口元を押さえながら笑っていた。


「でも、お姫様抱っこはまず間違いなくいけると思う」


「え、すご」


咲良が少し目を丸くした。


デッドリフトの話題はミスだったけど、咲良は笑ってくれていた。なら、もう振り切るか。

咲良が笑ってくれるなら、それでいい。


「いや、それは違う」


「え、違うの?」


「お姫様抱っこは、咲良を体に近づければ重心が安定する。だから持ち上げるだけならそこまで難しくない」


「そういう話なんだ」


「むしろ、デッドリフトで咲良を持ち上げる方がすごい。難易度でいうと、おんぶ、お姫様抱っこ、デッドリフト風の順になるから」


「え?」


「おんぶは背中に重心が乗るから安定する。お姫様抱っこは腕と体幹で支えるけど、相手を体に近づければそこまで難しくない。逆にデッドリフト風は、人間相手だと重心が不安定だし、握る場所もない。特に咲良が途中で暴れた場合は――」


「待って待って」


咲良が慌てて手を振った。


「水族館で私と二人でいるときにした方がいい話?」


俺は少し考えるふりをした。


「うーん……」


咲良が吹くように笑った。


「そこ悩むんだ!」


「ごめん。途中までマジで、途中から冗談。咲良が笑ってるからまあいいやと思って」


「まあいいやで続ける内容じゃないんだけど」


咲良が笑いながら、俺の腕を軽く叩いた。


強くはない。つっこむためだけの軽い動きだった。


その距離が、さっきより少し近い。


「もういい。仁が私を持ち上げられるのはわかったから」


俺は水槽の方を向いた。


「じゃあ、そろそろエイを見るか」


「逃げた」


「逃げてない。話題を水族館に戻しただけだ」


そう言いながら、さっきエイがいた場所を見る。


岩の奥にいたはずのエイは、もういなくなっていた。


「あれ……エイ見失った」


「仁が変な方向に振り切ってるからでしょ!」


咲良がそう言って笑った。


俺も、少しだけ笑った。


水槽の青い光の中で、咲良の笑った顔が明るく見えた。

エイは見失ったけど、悪くない時間だった。



そのまま、小さな生き物の展示コーナーのチンアナゴ、カクレクマノミ。さらにその後のペンギンコーナー。咲良は見るたびに反応した。


「これ、かわいい」


「さっきも言ってたな」


「だってかわいいもん」


「咲良って魚以外もかわいいのが好きなのか」


「え、好きだよ。ほら。このキーホルダーのやつとか」


「なにそれ」


「え、知らないの!?」


「知らない」


「じゃあ、これは?」


そこから咲良が、いくつか有名らしきキャラクターの名前を出した。俺は、半分くらい知らなかった。


「ごめん、知らない」


「じゃあこれは?」


「聞いたことない」


「うそでしょ」


「本当にない」


咲良が数秒止まったあと、吹き出した。


「ちょっと待って。仁ってもっと何でも知ってるタイプかと思ってた」


「そんなことはない」


「いや、だって2学期からは勉強は学年上位だし、体育祭でも大活躍してたし。なんか完璧っぽいじゃん」


「勉強はしたけど、かわいいキャラとは無縁の生活を送ってきた」


「やば。逆に新鮮なんだけど」


咲良はしばらく笑っていた。


「完璧な人かと思ったら、意外と致命的に知らないことあるんだね」


「え、これ致命的なの?」


「うん、これは致命的だよ。でもね、ちょっと安心した」


「何に?」


「可愛いキャラは全然知らないし、水族館でいきなりデッドリフトとか言い出すし。そういうところ見ると、ちょっと安心する」


「……水族館で咲良をデッドリフトで持ち上げる話題だして、安心されるとは思わなかった」


そう返すと、「たしかに。私も変だよね」とまた笑った。


冬休みに読んだ本のことを少し思い出した。


知らないことを無理に取り繕わない。相手の好きなものを、まず否定しない。知らないなら、知らないまま興味を示す。


だから俺はそのまま聞いた。


「ちなみにさ。そのキャラってどんなやつなの?」


「え、そこ気になる?」


「せっかくだし、知りたい」


「仁もこのキャラ好きになっちゃうかもよ」


咲良がそこで少し嬉しそうな顔をした。


そのあとは、しばらくその手の話を聞くことになった。


細かい作品名や設定は半分くらい入ってこなかったが、咲良が楽しそうに話していることはわかった。目が明るくなっていた。


だからか、そこまで興味がなかった俺でも引き込まれていた。

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