第28話 服選び⑤
席に着いた。里奈がメニューを広げたまま、テーブルに突っ伏しそうな顔をしていた。
「マジ最悪。マジで最悪だった」
「偶然だからしょうがない」
「しょうがなくない。電車で来る距離なのに、なんで今日に限ってここにいるの」
里奈がメニューを睨んだ。怒りのはけ口がメニューに向かっていた。
「まあ、悪かったな、なんか」
俺は普通に思ったことを言った。里奈が少し俺を見た。
「そりゃそうだよ。あの2人、月曜日に絶対学校で騒ぐし」
「そうなるか」
「なるに決まってるじゃん。里奈のお兄さんがどうだったって話、クラスで広まるやつじゃん。最悪すぎる」
「なんでそんなに嫌なんだ」
「恥ずかしいから!」
里奈がメニューをもう一度ばしっとテーブルに置いた。
「兄貴と一緒にいるとこ見られただけで嫌なのに、彼氏かって騒がれるし、不細工って言ってたのに全然違うじゃんってなるし、向こうが兄貴に興味持ち始めるし、全部嫌だった」
「そういや、俺が何を言っても好意的に受け取られてたんだけど」
「知ってる。それ最悪だった」
「前はひどかったと認めたら『すごい謙遜』って言われて、里奈には渋々来てもらったと言ったら『優しいですね』って言われて、同席を断ったら『いいお兄さんですね』って言われた」
「わかってる。全部知ってる。マジで地獄」
里奈がため息をついた。
「あーもう。パフェおごってもらうだけじゃ全然割に合わないから。今度ちゃんと埋め合わせしてよね」
「わかったわかった」
「今日だけじゃなくて都度払いね。月曜に学校で言われたら追加」
「俺の知らないところでも増えるのかよ」
「当然。被害が増えたら請求も増える」
「悪徳業者じゃねえか」
「被害者なんだけど」
◇
俺は少し間を置いてから言った。
「というか、おい。俺のこと不細工って言ってたのか」
里奈が顔を上げた。
「……言ったけど」
「堂々と言ったな」
「事実だったから。少なくとも1学期まではそうだったじゃん。嘘ついたわけじゃない」
「まあ、事実だな」
「でしょ。でも今はマシになった。だから今はそう言ってない」
ウェイターが来た。里奈がメニューを指さした。
「新春いちごの贅沢2重奏パフェのラージサイズ。スプーンは1つで」
迷いがなかった。エスカレーターの上でスマホを見ていたのは、この限定パフェを確認していたのかと思った。
「お客様、こちらかなり大きいサイズになりますが、お1人でよろしいでしょうか」
「はい。スプーンは絶対に1つで」
「絶対」に力が入っていた。ウェイターが俺を見た。俺は黙ってうなずいた。ウェイターが「かしこまりました」と言って下がっていった。
しばらくして、パフェが来た。本当に大きかった。細長いグラスがかなりの高さまで積み上がっていて、先端には大きないちごが2粒。ホイップクリームとカスタードといちごソースが層になっていて、下のほうにはいちごのコンポートとアイスが見える。テーブルに置かれた瞬間、隣の席の客までちらっと見た。
里奈の目が細くなった。
「……これこれ」
声の温度が、さっきまでと明らかに違っていた。
「本当に1人で食べる気か」
「食べるよ。今日の精神的ダメージを全部これで回収する」
スプーンを持って、先端のいちごをすくって一口食べた。顔がほぐれた。さっきまでの「マジ最悪」モードが、パフェ一口でわずかに遠くなった。
メニューを睨んでいた表情の固さが、少しだけ溶けていった。それから里奈はゆっくりと2口目を食べた。今度はクリームとカスタードを一緒にすくっていた。
「……釣られてバカだったと思ってたけど」
里奈が言った。
「来て正解だった。これ、かなり本物だよ」
「しかも、ラージサイズだしな」
素直だった。さっきまで「割に合わない」と言っていた里奈が、2口で方針転換していた。
「よかったじゃないか」
「よかった。本当によかった」
里奈がまた一口食べた。今度はいちごのコンポートを底からすくい上げていた。丁寧な食べ方だった。
でも、あまりに美味しそうなので、少しいたずら心が湧いた。
「太るぞ」
俺の余計な一言に里奈がスプーンを止めて、俺をチラリと見た。
「私、太らない体質だし。それに、今日の精神的ダメージの消費カロリー半端ない。むしろマイナスかも。やばー。補給しないと」
訳のわからないことを言って、またスプーンを進めた。俺は思わず笑った。
こいつ、こんな冗談も言うタイプだったのか。
俺はそんなことも知らなかった。
◇
帰り道。電車を降りて、里奈と2人で駅から自宅に向かって歩いた。空が暗くなり始めていた。冬の日暮れは早い。夕方の空気が頬に当たって、朝より少し冷たかった。街灯がぽつぽつとついていた。
しばらく並んで歩いてから、俺は口を開いた。
「今日、里奈に服選びを頼んでよかったよ」
里奈が少し間を置いて言った。
「私は最悪だったけど?」
「まあ、今日たまたま同級生がいたのは、俺もお願いしたタイミングが悪かった。わざとじゃないとはいえ、すまん」
里奈が少し黙った。歩きながら、視線が少し下に向いていた。何かを考えているような間があった。
「……まあ」
里奈が言った。
「あれを除けば、悪くはなかった」
「そっか」
それ以上は何も言わなかった。里奈も何も言わなかった。でも、悪くない沈黙だった。朝に家を出たときとは全然違う空気だった。
隣を歩いていても、10m離れろとは言われなかった。
家の近くまで来たとき、俺は今日の服選びの結果をもう一度考えた。
体そのものが1日で変わったわけじゃない。顔立ちが急に変わったわけでもない。でも、今の体格をちゃんと見せる服。肌や髪の状態を邪魔しない色。全体の清潔感。
そういうものが揃ったことで、体格と容姿の評価は確かに上がった。
玄関の灯りが見えてきた。里奈が先に玄関に向かった。ドアを開けて、中に入った。振り返りもしなかった。いつも通りの里奈だった。
でも今日1日、こいつのことを少しだけわかった気がした。それで十分だった。俺も玄関を入った。
◇
玄関を開けると、台所から音がした。母さんはもうパートから帰ってきていた。
「おかえり。どうだった――」
母さんが台所から顔を出して、俺を見た。止まった。
「……仁」
「ただいま」
「ちょっと待って」
母さんが言った。エプロンを手で押さえながら、ゆっくりこちらに近づいてきた。俺の顔、髪、コート、靴まで、順番に見ていった。
「……モデルみたいじゃない」
「そこまでではないけど」
「モデルみたいだよ。本当に」
母さんがもう一度言った。今度は確信のある声だった。
「服が全部合ってる。ちゃんとトータルで合ってる」
母さんが里奈を見た。
「里奈が選んだの?」
「そう」
里奈が言った。そっけない口調だったが、否定はしなかった。
「すごい。本当にすごいじゃない、里奈」
母さんが言った。
「センスがいいのは知ってたけど、こんなに人に似合うものを選べるんだ。びっくりした」
「まあ」
里奈が言った。
「里奈のセンスには本当に助かった」
俺は言った。
「もういいから」
里奈が言った。
母さんが嬉しそうに2人を交互に見ていた。
「ほんとに仲良いじゃない」
里奈が「仲良くない。それももういいから」と言った。
母さんはそれを聞いていないのか、聞こえないふりをしているのか、そのまま里奈に向き直った。
「でも里奈、どうやってこんなに似合う服が選べるの?」
里奈が言った。
「服選びには体型と顔の系統が大事で、それを見ればある程度わかる」
「ふーん」
母さんが言った。少し間があった。それから母さんの顔に、何か思いついたときの表情が浮かんだ。
「ひょっとして」
母さんが言った。
「自分に彼氏ができたとき、こういう服を着てほしいなって理想のコーディネートを、そのまま仁に着せたんじゃないの?」
静かになった。
里奈がゆっくりと母さんのほうを向いた。
「マジであり得ないから」
これまで聞いたことのない、ドスの効いた低さの声だった。
そして里奈が自分の部屋に向かって歩き出した。廊下を歩く音が遠ざかって、ドアが閉まった。
母さんが俺のほうにそっと近づいてきた。
「……本気で怒ってる」
母さんが小声で言った。
「やばい。図星だったのかも」
いや、それは母さんの兄妹仲良しのお花畑妄想だろう。里奈は俺を、自分の彼氏に見立てるようなことはまずしない。おそらく本気で想像するだけでも嫌な発言だったんだと思う。
「たぶん違うし、あれは長引くぞ」
俺は言った。
「だって」
母さんが続けた。
「あんなに怒るなんて思わなかったじゃない」
里奈にそんなこと言ったらそりゃ怒るだろと思いながら、俺は廊下のほうを見た。里奈の部屋のドアは閉まったままだった。
まあ、今日は触れないでおこう。
俺は里奈の機嫌のことはもう気にしないことにして、明日の水族館に意識を向けた。




