第24話 服選び①
「里奈」
「なに」
スマホから目を上げないまま答えた。廊下の端で立ち止まっていた。
「ちょっと頼みたいことがあるんだけど」
「やだ」
「まだ何も言ってない」
「兄貴の頼みごとはどんなことでも却下」
「……まあ、ちょっとめんどくさいかもしれない」
里奈がスマホから顔を上げた。珍しいものを見る目だった。
「ずいぶん正直に言ったね」
「服を選ぶのを手伝ってほしい」
里奈が俺を見た。上から下まで、一度だけ。
「……は?」
「服。何が似合うのかわからなくて。今持ってるものが全然ダメだと思って」
「兄貴が服とか言い出してる。何これ。なんの冗談」
「冗談じゃない」
「なんで急に」
「出かける予定があるから。ちゃんとした格好で行きたくて」
「自分で選べばいいじゃん」
「自分で選ぶのが怖いんだよ。俺がドラゴンのイラストとチェーンのついた服を着て出かけていたら、お前も嫌だろ」
里奈がぴたりと止まった。
「……兄貴が着る前に、私がその服を燃やすかも」
「だろ。だから頼む」
「そもそも、そんなの買わないでしょ普通」
「売っているということは買うやつがいるんだ。俺が買う可能性は0じゃない」
「買ったことあるの」
「ない。そもそもほぼ母さんに買ってもらってて、自分で選んだことがない」
「マジで……?」
「マジ。だからセンスのある人間に一緒に来てもらいたい」
里奈が少し間を置いてから、また俺を見た。今度は目が少し細くなっていた。
「出かける予定って……誰と」
「女子と」
一瞬、廊下が静かになった。
「……は?」
「女子とデート。初めてだから、ちゃんとした格好で行きたい」
「デートって……マジで?」
「マジで」
「兄貴が?」
「俺が」
「あの、1学期まで友達もいなかった兄貴が?」
「今は友達もいる。デートもする」
「世界線おかしくない?」
「世界線はおかしくない。俺が変わっただけ」
里奈がしばらく黙って、俺を見た。さっきと全然違う目で、じっくりと見ていた。何かを確認するみたいに。
「……まあ、確かに最近はちょっとマシになったけど」
「ちょっとどころじゃなくマシになったと思ってるけど」
「自分で言う?」
「自分を客観的に見てそう思う」
里奈がため息をついた。
「とりあえず、何持ってるか全部見せて」
俺は少し間を置いた。
「それが」
「なに」
「着られる服、実質1着しかない」
里奈が止まった。
「1着?」
「ほぼ全部サイズアウトした。夏休みに母さんが買ってくれたやつも」
「なんで」
「身長が16cm伸びたから」
「……待って。16cm?」
「7月から。今179cm」
里奈が、頭のてっぺんから足元まで俺をじっと見た。
「え……嘘でしょ。そんなに伸びてたの?」
「そんなに」
「なんか縦に伸びたなとは思ってたけど、それがこの半年で16cm分だったってこと……?」
「そう」
「じゃあ夏前、163cmだったってこと?」
「そういうこと」
里奈は目を少し見開いて黙ってから、視線を一瞬鋭くした。
「……ていうか、そんな体だからこの前気絶したんじゃないの」
返事に詰まる。
里奈の声は、いつもの嫌味みたいに聞こえた。でも、目だけは笑っていなかった。
こいつはやっぱり、こういうところを突くのが早い。
「体は問題ないから、心配はいらない」
「してないし。前に私に迷惑かかったから言ってんだけど」
里奈は早口でそう言って、それ以上は広げなかった。そのまま逃げるみたいに、俺の服へ視線を落とす。
「で。まさかと思うけど、今着てるそれがベスト?」
「そう。ベストっていうか、これしかない。あとは制服とバイトに着ていくやつだけ」
里奈は、深いため息をついた。
「それ、体型にも全然合ってない。夏に母さんが選んだやつでしょ」
「そうだけど」
「ダメ。全然ダメ。身長も体型も変わってるのに、選び方だけ昔のままじゃん。せっかくスタイル良くなっても台無し」
何も言い返せなかった。その通りだった。
「わかった」
里奈が腕を組んだまま、もう一度俺を見た。
「行くよ。選んであげる」
「ありがとう」
「お礼の条件ある」
「なんだ」
「限定パフェ。絶対食べたいやつがある」
「パフェ?」
「デートするくらいになったんでしょ。パフェくらい出せるよね」
「わかった。パフェな」
「あと、服に関しては私の言うこと絶対聞くこと。口答えなし」
「わかった」
里奈がもう一度、俺を全身見た。
「……素材自体は悪くなくなってきてるから、何とかなるかもとは思う」
「何とかならないと困る。今回は本当に里奈頼みだから」
「わかったから早く準備して。時間の無駄だから」
里奈はそう言って、自分の部屋に戻っていった。
俺も部屋に戻って、鏡の前に立った。
改めて見ると、確かにひどかった。肩の縫い目は本来の位置より内側に入っている。冬休みにジムで鍛えた今の体には、細すぎるところもあった。
これが今の俺の私服の全部か、と思うと少し笑えた。
スキンケアも、ヘアケアも、食事管理も、トレーニングも、全部やってきた。でも服だけは、完全に後回しだった。
体を整えるだけじゃ足りない。見せ方まで含めて、ようやく完成に近づく。
こんな形で妹に頼む日が来るとは思っていなかった。でも、こいつしかいないのも事実だった。
里奈のセンスと遠慮のなさは、今の俺に必要なものだった。
恥をかいた分くらいは、ちゃんと回収したい。
準備を終えて廊下に出ると、ちょうど里奈も部屋から出てきたところだった。
白のニットに、ベージュのパンツ。コートを腕にかけている。
財布をポケットに入れながら歩いてきて、俺の前で止まった。
「準備できたみたいだな」
「まあ」
「じゃあ行くか」
「その言い方やめてくれる」
里奈がすぐに言った。
「私が従ってるみたいじゃん」
「いや、実際そうだろ」
「違う。私は善意で依頼されて、手伝ってあげてるの。ニュアンスが全然違う」
「わかった。ご指導よろしくお願いします」
「気持ち悪い」
「俺にどうしろって言うんだ」
そんなことを言いながら、2人でリビングに向かった。
母さんがソファでスマホを見ていた。足音に気づいたのか顔を上げて、俺と里奈を交互に見た。
1秒くらい間があった。
「え……? 2人で出かけるの?」
「そう。服を選んでもらいに」
母さんの表情が、ゆっくり変わった。固まったというより、何かが胸の中でじわっと広がったみたいな顔だった。
スマホをソファに置いて、もう一度俺たちを見た。
「里奈に頼んだの?」
「頼んだ」
「えー!」
声が裏返った。
「仲良いじゃない、2人とも! お母さん、ずっと仲良くしてほしいなって思ってたんだよ! よかった! ほんとによかった!」
目が少し潤んでいた。本気で喜んでいた。
「安心した。お母さん、これで安心して仕事行けるわ」
「仕事関係ないだろ」
「関係あるよ。兄妹仲いいってわかると安心して働けるの」
「そういうもん?」
「そういうもの!」
母さんはそのまま、嬉しそうに続けた。
「どこ行くの? 何買うの? 里奈、ちゃんと選んであげてね。仁の服のセンス、正直ちょっと不安だったから」
「俺も不安だったから頼んでる」
横を見ると、里奈の顔が固まっていた。明らかに引いていた。
でも母さんはまったく気づいていなかった。ただ嬉しそうに俺たちを見ていた。
「いってらっしゃい。楽しんできてね」
「行ってきます」
そう返したのは俺だけだった。
里奈は無言のままだった。
玄関で靴を履いていると、里奈が急に止まった。
「……やっぱやめる」
俺は靴紐を結ぶ手を止めた。
「は?」
「恥ずかしくなってきた。母さんの顔が無理だった。あの顔が」
「何が無理なんだ」
「仲良い兄妹みたいに思われてる。なんかそれが無理」
「実際、服選んでもらう仲ってことになるからな」
「でも仲良くはない」と里奈が言った。
「今日は可哀想だから手伝ってあげてるだけ」
「わかった。それでいいから。行かないのは困る」
「やっぱやめる」
「やめるな」
「やめる」
俺は里奈の前に立った。
「なあ、よく聞いてくれ」
「なに」
「頼んだの、俺だからな」
「知ってる」
「年下の妹に、デート用の服を選んでくれって頼んでる男の気持ちを、少しは考えてくれ」
里奈が少し口を開いた。何か言いかけて、止まる。
「どう考えても、俺のほうがだいぶ恥ずかしいだろ。お前が母さんに仲良い兄妹だと思われたくらいで、恥ずかしいとか言ってる場合じゃないから。それくらい我慢してくれ」
里奈はしばらく俺を見ていた。何か言い返そうとしている顔だったけど、うまく言葉が出ないらしかった。
「……まあ、確かに」
「頼む。こんなに必死で頼んでるくらいには、お前しかいないんだから」
里奈がまた深いため息をついた。
「わかった、行く」
「ありがとう」
「でも絶対限定パフェね。一番デカいやつ。妥協なし」
「わかってる。じゃあ行くぞ」
「その言い方やめてって言ったじゃん」
「よろしくお願いします」
「だからキモいって」
「お前、正解を教えろよ」
◇
玄関のドアを開けると、冬の空気が入ってきた。
リビングのほうから母さんの声がした。
「2人仲良くね!」
2人で無言で玄関を出た。




