第23話 冬休み明け
3学期初日の朝。
廊下を歩いていると、後ろから声がかかった。
「天野!」
振り返ると、伊藤だった。
「久しぶり。冬休みどうだった?」
俺が言うと、伊藤がすぐ返す。
「いや、それより」
伊藤は俺の顔をしばらく見た。
「え、お前まさか化粧してる?」
「いや、してないけど」
「だよな? でもなんか……肌すごくね?」
伊藤は俺の顔をじっと見たまま続ける。
「前よりさらに肌整ってね? 髪もなんか艶あるし」
「ワックス入れてるだけだよ」
「ワックスで肌は変わらんだろ」
伊藤がすぐに言った。
「お前、休みの間に何したんだよ」
「まあ、筋トレとかスキンケアとか、いろいろ」
伊藤が吹くように笑った。
「デジャブかよ! 夏休み明けにもそれ聞いたわ!」
「いや、実際、ほぼそれしかしてないんだって」
「進化し続けるやつが、コメントは毎回同じなの、普通に面白いわ」
「語彙力の進化はこれからっぽい」
俺がそう言うと、伊藤が声を出して笑った。俺も一緒に笑った。
◇
教室に入ると、女子のグループがこちらを見た。2学期の終わりより、視線の強さが増していた。
「見た? 天野くん、さらに清潔感出てない?」
という声が聞こえる。
「わかる。肌がなんか……」と別の声が続いた。
「筋肉もなんかすごそうじゃない?」
「たしかに。胸板とか結構変わってるよね」
俺は前を向いたまま席に着いた。
◇
少しして、咲良と中村がこっちへ来た。
「仁、久しぶり!」
咲良が言う。そのまま俺の顔を見て、目を丸くした。
「え、ちょっと待って、めっちゃ肌きれいになってない?」
「なってるなってる」と中村も言う。
咲良が、少し身を乗り出して聞いてきた。
「なにしたの? どんな化粧水使ってるの?」
「ああ、俺は……」
俺は薬局で選んでもらったものの名前を出した。咲良が少し目を丸くする。
「え、それ普通にプチプラのやつだよね」
「たぶん」
「なのにそんなにきれいなんだ。すご」
「なんか、続けることが大事みたいでさ」
「いや。私も同じ系統のやつ、続けて使ったことあるんだけど」
咲良が少し笑う。
「なんで差つくの。男子のほうが肌きれいって、ちょっと悔しいんだけど」
中村も笑った。
「ほんと。天野くんの肌って人を平気で傷つけてくるよね」
「いや、人を傷つける肌って何だよ。新ジャンルすぎるだろ」
そう返すと、咲良と中村が同時に笑い、俺も笑った。
◇
冬休みが終わってしばらく経過したある日。
放課後になった。鞄に荷物を詰めていると、気配がした。顔を上げると、咲良と中村がこっちに来ていた。2人ともまだ帰り支度の途中らしかった。
少しだけ立ち話をした。
その流れの中で、急に中村が「あ、そうだ」と言った。
「今週までの無料チケットあるんだけど、水族館行かない?」
水族館。
その単語を聞いた瞬間、少し気持ちが動いた。普通に、楽しそうだと思った。咲良と中村と3人で行く水族館は、たぶんかなり賑やかで、わくわくする時間になる気がした。
でも、その直後に別の考えが浮かんだ。
今はまだ、初期サポートによる成長補助が適用されている期間だ。しかも、終了まで残り1カ月を切っている。こういう時期は、できるだけ無駄なく使いたい。
勉強もある。走り込みもある。ジムもある。冬休みが終わったばかりで、まだ伸ばせる感覚も残っていた。
水族館に行く時間があるなら、そのぶん問題集を進めることもできるし、トレーニングにも回せる。
……そう考えたあとで、さらに別の考えが浮かんだ。
友人と出かけること自体は、たぶん無駄じゃない。会話の量は増える。その場での振る舞いも問われる。相手に合わせる力も要る。知識や会話力につながる可能性はある。
そう考えると、行く意味は十分あった。
むしろ、成長補助がまだ適用されている今だからこそ、行っておいたほうがいいのかもしれない。
その横で、咲良がぱっと反応した。
「え、水族館いいじゃん。行きたい」
それから、自然な顔でこっちを見る。
「仁も行くでしょ?」
「いいね。俺も行きたい」
「じゃあ決まりだね」
中村がそう言って、鞄の中から封筒を取り出した。
「ただ、私は週末用事あるから、2人で行ってきてね。はい、チケット」
そのまま、俺に2枚渡してくる。
「え、中村は行かないのか?」
「行かないっていうか、行けなくてさ」
中村はあっさり言った。
「でも期限今週までだし、ちょうどいいじゃん」
咲良が、そこでようやく反応した。
「ちょ、ちょっと待って、美玲」
「いや、本当に予定あってさ」
中村が困ったような顔で言う。
「チケット無駄にしないためにもお願い!」
咲良が少し詰まった。
「……いいけど」
「じゃ、決まりだね」
中村は軽く手を振った。
「楽しんできてね」
そのまま話がまとまった。
俺はチケットを受け取った。咲良は少しだけ困ったような顔をしていたが、嫌そうではなかった。急に話が決まりすぎて、気持ちが追いついていない感じだった。
「……じゃあ、日曜はどう?」
俺が言うと、咲良は少し遅れて頷いた。
「うん。日曜ね」
その瞬間、パネルが光った。
━━━━━━━━━━━━━━━━━
【MISSION】
難易度:通常
佐々木咲良との水族館デートを成功させろ。
【達成報酬】
会話力 上昇
知識 上昇
━━━━━━━━━━━━━━━━━
……デート。
俺は一瞬、パネルを見たまま止まった。
そうか、これはデートなのか。
家族以外の女子と2人で出かけるなんて、たぶん初めてだった。しかも相手は、クラスの中心にいるような明るい女子だ。
まさか自分が、そういう相手と2人で出かけることになるとは思っていなかった。
それに、ミッションが出た。
つまり、この時間はちゃんと意味のあるものとして認識されている。今はまだ、初期サポートによる成長補助が適用されている期間だ。この時期に発生した以上、無駄にはならない。
俺の判断は間違っていなかった。
そう考えると、むしろ気持ちは落ち着いた。
◇
そのあと、2人が少し離れたところへ歩いていく。
俺も鞄を肩にかけて教室を出ようとしたとき、小さな声が聞こえた。
「もう、不意打ちやめてよ」
咲良の声だった。
「でも行きたかったんでしょ」
中村の声が返る。
「そういう話じゃなくて……」
そこから先は、よく聞こえなかった。
俺は足を止めず、そのまま廊下に出た。
行くなら、ちゃんと成果に変える。成長補助も、ミッションも無駄にはしない。
◇
デート前日、土曜日の朝。
『デートを成功させろ』
デートが決まった日から、ずっとその言葉が頭の中にあった。
成功、というのがいまいちわからなかった。
体育祭のアンカーなら「1位でゴール」という明確な基準があった。
期末テストなら「学年10位以内」という数字があった。
でも今回は違う。
デートの成功というのは、何をもって成功と言うのか。
考えながら歩いていると、1つの答えが出てきた。
咲良を満足させればいい。
咲良が楽しかったと思えれば、きっとそれが成功だ。
そのために今の俺にできることは何か。
会話力、聴く力、相手のペースに合わせることをさらに鍛えることかもしれない。
コミュニケーション実用書を開こうとした。
デートを成功させるためにやれることを整理しておきたかった。冬休みに読んだ本の要点まとめを見返して、実践で使えそうなことを頭に入れておく。
そういう準備をするつもりだった。
パネルが光ったのは、本を手に取った瞬間だった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━
【MISSION】
難易度:困難
自分に似合う服を見つけろ。
ただし必ず、年齢の近い異性の意見を取り入れること。
【達成報酬】
体格 上昇
容姿 上昇
━━━━━━━━━━━━━━━━━
俺はそのまま固まった。
服。
服については、何もしていなかった。
考えていなかった、というより、考える余裕がなかった。
夏休みは体を変えることに全力を注いだ。2学期は勉強と体育祭に全部使った。冬休みはジムと読書と問題集だった。
服のことを考える隙間が、どこにもなかった。
でも今この瞬間、改めて考えると、状況はかなりまずかった。
「年齢の近い異性の意見を取り入れること」
しかも、誰かに相談しないといけない。
頭の中で候補を並べる。
川島。
……でも、服に興味やセンスがあるかは正直かなり怪しい。あいつはそういう方向より、ゲームとアニメのほうが圧倒的に詳しい。
橘。
落ち着いているし、変なことは言わないと思う。でも、あいつはあいつで独特なセンスの可能性がある。悪く言えば、万人向けじゃないものを普通に勧めてきそうだった。
それに、そもそも来てくれるか問題もある。
三浦さん。
一瞬考えて、すぐ消した。
あの人に頼むのは違う。
好意を持たれている可能性がゼロじゃない相手に、デート用の服を選んでもらうのはさすがにまずい。
篠崎さん。
……いや、なくはない。
仕事があれだけできる先輩だし、細かいところまで気が回る人だ。服に関しても、たぶんセンスは悪くない。というか、よく思い出せば、普通におしゃれだった気がする。
ただ、問題はそこじゃない。
あの人に頼んだら、絶対に茶化される。しかも軽くじゃない。楽しそうに、しっかりいじってくるタイプだ。
それでも、そんなことを気にしている余裕はない。
恥は一瞬だ。
そう考えたところで、思い出した。
そういえば、篠崎さんは今日シフトに入っている。
土曜の昼から夕方まで入るはずだ。今日服を選んでもらうのは無理だ。
――本気で困った。
すると、廊下をぱたぱた歩く音がして、里奈が自分の部屋から出てきた。
スマホを見ながら歩いていて、廊下の真ん中に立っている俺の前で止まる。
「兄貴、邪魔」
顔も上げずに、それだけ言った。
俺はその背中を見た。
里奈。
中学2年、14歳。
年齢の近い異性。
即座に棄却しようとした。
ない。
こいつはない。
口は悪いし、俺のことになると基本的に雑だ。頼んだら絶対に馬鹿にしてくる。嫌みも言う。面倒くさそうな顔もする。
里奈の服を見た。
シンプルなニットに、細めのパンツ。カラーの組み合わせがきれいで、なんでもなく見えてちゃんと洒落ていた。
そういえば里奈はいつも、ちゃんと洒落ていた。
派手でも地味でもなく、なんかちゃんとしている。
他の誰かに選んでもらったような服じゃなくて、自分で選んだことが伝わってくる服を着ている。
服のセンスは、本物だと思う。
それだけじゃない。
里奈は頭がいい。
こいつはなぜか、俺と全然違う頭を持って生まれてきた。定期テストでも上位を取る。面倒くさそうな顔をしながら、物事の本質を一言で言い当てる、あの感じ。
俺が夏休みに死ぬ気で勉強して学力を上げた。でも里奈はそれを中学2年の時点で、大して勉強してなさそうなのに当たり前のようにやっている。
悔しいというより、不思議だった。
同じ親から生まれて、なんでここまで違うんだ、と何度思ったかわからない。
それに服のセンスについて何がおかしいかを、俺に一切の遠慮なく言ってくれるはずだ。
今回、それはむしろ必要なことだった。
……やっぱりこいつしかいないか。
俺は覚悟を決めた。
「里奈」




