第21話 冬休み①
冬休み初日。
朝のランニングを終えて戻ってきた。汗が出ていた。
シャワーを浴びる。今日からコールドシャワーが始まる。シャワーノブを冷水側に回した。
水が出た瞬間――。
「――っ!」
声が出た。抑えようとしたが無理だった。刃物みたいな冷たさが一気に全身を叩いて、肺が縮む。足元から逃げ出したい衝動が、波みたいに来た。
こんなのを好んでやるやつの気持ちがわからない。何が楽しくて冷水を浴びるんだ。でもミッションには、3分と書いてある。
俺は歯を食いしばって、その場に立ったままタイマーを見た。
まだ30秒。
嘘だろ。
「なに、今の声」
ドア越しに里奈の声がした。
「っ……シャワー」
「シャワーでなんで叫んでんの」
「冷水シャワーだから……」
「は?」
里奈が間を置いてから言う。
「真冬に冷水シャワー浴びて叫んでんの? 修行僧じゃん。きも」
文句はシステムに言ってくれ、と思ったが何も言えず、タイマーが鳴るまで、正面を向いたまま立っていた。
出た瞬間、全身が熱いのか冷たいのかもよくわからなかった。でも、妙に目は覚めていた。
◇
まだ冬休みの初日は始まったばかりだ。今日中にやることがいくつもある。
ジム。図書館。書店。薬局。
お金の心配は、思ったよりなかった。夏休みから今まで、ゲームも漫画もほとんど買っていない。バイトを始めてからは、自分で使える金も増えた。黒川にお金を取られることもない。
そのぶん、バイト代がかなり残っている。問題集もスキンケア用品も、自分で払える計算だった。
まず薬局に向かった。入口を入ると、店員が棚の整理をしていた。夏に相談した人だったかどうか、少し距離があってわからない。
近づく。
「あの、スキンケアのことで相談したいんですが」
店員が顔を上げた。間違いなく、あのときの店員だった。
「はい、どうされましたか」
特に何の反応もなかった。
「あの、夏休みに入る前、7月の下旬に一度ここで相談したことがあって。ニキビ肌向けのものを選んでもらったんですが……覚えてないですよね」
店員が俺を一度見て、少し首をかしげた。
「7月下旬……もしかして」
そこで、改めてじっと俺の顔を見る。数秒、間があった。
「え、あのときの……? 全然違ったので、わからなかったです」
少し声が上がった。
「そうです。あのとき教えてもらったもので、ニキビはだいぶ良くなったんですが、今はほぼなくなっていて。同じものを使い続けていいのかわからなくて」
「少し見せてもらっていいですか」
店員は俺の肌を確認した。夏と同じで、短く見て状態を把握するような目だった。
「ニキビ向けは、もう卒業して大丈夫そうですね。今の肌なら、保湿力があって整肌成分が入っているもののほうが合います。あと、バリア機能を整える方向に切り替えたほうがいいです」
それから紫外線予防についても聞いた。顔用のUVクリームの選び方。スキンケアのどの順番で使うか。冬でも必要かどうか。全部、かなり丁寧に教えてくれた。
シャンプーとトリートメントのことも相談した。髪質と頭皮の状態に合ったシャンプーと、髪のダメージを補修するトリートメントを選んでもらう。使い方も教わった。
トリートメントは根元を避けて、中間から毛先につける。少し時間を置いてから流すのがいいらしい。
会計をしながら、店員が少し笑った。
「前回から、かなり変わりましたね。肌だけじゃなくて、全体的に」
「夏からいろいろやってたので」
「続けることって大事ですね。頑張ってください」
続けて午前中に書店と図書館にも行き、必要な本を手に入れた。
◇
午後、トレーニングジムに行き、利用登録を済ませた。
フロアに案内される。平日の昼間で、人は少なかった。ミッションに書かれていた種目を確認してから、各マシンを使ってみる。
スマホでフォーム動画を確認しながら、まずは軽い重量で動作だけを繰り返した。そのたびに、パネルが何度か警告を出した。
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【SYSTEM WARNING】
フォームが適切ではありません。
このセットはカウントされません。
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動画を止めて確認する。やり直す。それを繰り返した。
フォーム確認も含めて、2時間かかった。
◇
夜、机の前に座った。借りてきた実用書を1冊開く。『話すより聴く技術』というタイトルだった。
読み始めると止まらなかった。
入浴後、新しいシャンプーとトリートメントを使った。トリートメントを根元を避けて中間から毛先につけて、少し置いてから流す。薬局の人に教わった通りにやった。
洗い上がりの感触が、これまでと違った。
化粧水と乳液も新しいものに変えた。ニキビ向けだったものから、保湿と整肌を重視したものへ。
つけたあとの肌の感触が、少し違った。
◇
初日で、ほぼミッションをこなす形を整えた。
ランニング。コールドシャワー。薬局。書店。図書館。ジム。スキンケアとヘアケアの切り替え。
まだ冬休み初日だ。なのに、もう少し疲れていた。
でも、嫌じゃなかった。やることが多いぶん、前に進んでいる感じもあった。
◇
12月24日は冬休みが始まってすぐだった。
今日は昼からラストまで、フォレストテーブルの8時間勤務がある。
朝のうちに最低限を積む。落とす項目を見切る。守る項目を先に守った。
店に入ると、もう2人ともいた。
「おはようございます」
俺が言うと、三浦さんがすぐにこっちを見た。
「あ、おはようございます」
それから、少しだけ表情をやわらげる。
「天野さん、今日も頑張りましょう」
「はい。よろしくお願いします」
三浦さんとのこういう挨拶は、なんとなく落ち着く。忙しい日だとわかっていても、この人にそう言われると、少しだけ肩の力が抜ける気がした。
その横で、篠崎さんが備品を確認しながら顔を上げた。
「おはよー。あ、メリクリ」
「メリークリスマスです」
「天野くんもクリスマス2日連チャンだよね?」
「そうですよ」
篠崎さんは、そこでわざとらしく少しだけ間を置いた。
「あらあら。かわいそうに。彼女とかいないのー?」
「そんなのいませんよ」
俺はそのまま返した。
「篠崎さんも2日連チャンですよね。篠崎さんは彼氏いないんですか?」
「よし。じゃあ今日は頑張ろっか」
「はい……え、無視ですか?」
篠崎さんは本当に無視して、そのままフロアへ向かった。
横で、三浦さんが小さく言った。
「天野さん、あんまりその話題は言わないほうがいいかもです……」
「え、でも篠崎さんから振ってきましたよ?」
「そうなんですけど……」
三浦さんは少し困った顔をした。
「ついさっき、私も似たようなことを聞かれました。答えたら、同じように流されました」
「理不尽ですね」
「……はい」
それだけ言って、三浦さんは少しだけ笑った。
◇
クリスマスの店内は、本当に忙しかった。
篠崎さんに前から「クリスマスは普通に地獄だよ」と言われていたけど、まさにその通りだった。
ファミレスなのに価格帯は高く、雰囲気も良いため、カジュアルレストランにも近かった。だからクリスマスは高校生や大学生のカップル、家族連れが次から次へと入る。待ちも出る。ベルも鳴る。厨房もホールも、ずっと張っていた。
俺はもう仕事そのものにはかなり慣れていた。だから、完全に飲まれることはなかった。ただ、慣れているのと楽なのは全然違った。
この2日間は、本当に一瞬も気を抜けなかった。
その間のことは、正直あまり細かく覚えていない。
卓を見て、動いて、返して、下げて、また次へ行く。それをずっと繰り返していた。気づけば時間が飛んでいた。
24日が終わったときには、もう頭が熱を持っていた。
◇
25日も、やることは同じだった。
朝のうちに最低限を積む。落とす項目を見切る。守る項目を先に守る。それから店へ行く。
2日連続のクリスマスシフトは、24日以上にきつかった。前日からの疲れが残っている。三浦さんも、途中からかなり疲れているように見えた。それでも頑張っていた。
篠崎さんは相変わらず軽い口調のまま、現場を切っていた。どこが詰まっているかを一瞬で見つけて、必要なところへ必要なだけ手を入れる。
忙しいときほど、そのうまさがよくわかった。
◇
25日の上がり際。
閉店まではまだ時間があったが、俺たち3人はその日のシフトを終えた。バックヤードの通路脇で、それぞれ鞄を取って帰り支度をしていた。
ステータスアップのヒントが得られるかもしれないと思い、近くにいた篠崎さんに声をかけた。
「篠崎さん」
「ん?」
「……なんで、あんなに忙しいのに平気そうな顔して、しかもミスもしないんですか」
俺は正直に言った。
「今日、後半かなり崩れました。俺の何が悪かったんでしょう」
篠崎さんがこっちを見て、少しだけ笑った。
「おー。向上心の塊だねえ」
軽い調子でそう言ってから、すぐに続ける。
「でも、天野くんも今日はかなりよくやってたと思うけどね」
「ありがとうございます。でも、後半で結構ミスもしましたし」
俺は少しだけ間を置いた。
「遠慮せずに、悪いところがあれば言ってください」
「いいよ」
篠崎さんはあっさり頷いた。
「じゃあ、私の持論でよければだけど。天野くんって、なんで今日の後半に崩れたと思う?」
「量が多くて、捌ききれなかったからです」
「うん、まあそれもある」
篠崎さんは軽く頷く。
「でもさ、前半も別に暇じゃなかったじゃん」
「それはそうですけど……やっぱり疲れは溜まりますし」
「まず、そこなんだよね」
篠崎さんは言った。
「天野くんって、忙しくなるとすぐ急ぐじゃん」
俺は少し考えた。
「……それって、誰でもそうなるんじゃないですか」
「私は、クリスマスみたいに、最初から最後までずっと忙しいのが確定してる日は、最初から飛ばさないの」
「……飛ばさない?」
「そ。ずっと80とか85くらいで回す」
さらっと言う。
「本気で上げるのは、クレームとか、遅れたらまずい割り込みとか、そういうときだけ」
「え……」
俺は少し黙った。
「手加減して、あれですか」
「うん。そっちのほうが効率いいし」
篠崎さんは当然みたいに言った。
「実際、天野くんは後半で疲れて、ちょっとずつ判断も雑になってたでしょ」
「……それは、そうですね」
認めるしかなかった。
「でしょ」
篠崎さんは頷いた。
「でもまあ、このへんは慣れもあるし。今の時点であそこまで回せてるなら、普通にかなりいいほうだよ」
俺は少し息を吐いた。
「ありがとうございます」
それから本音で言った。
「でもやっぱり、篠崎さんは全然上だなって思いました。処理も速いですし、記憶も正確ですし」
「まあ、そのへんはわりと得意分野だからねえ」
篠崎さんは肩をすくめた。
「でも天野くんも、人並み以上にはあると思うよ」
そのとき、三浦さんが、小さく口を開いた。
「……私は、何もいいところありませんけど……」
声がかなり小さかった。でも、篠崎さんはすぐに拾った。
「いや、あるでしょ」
「え……?」
三浦さんが顔を上げる。
篠崎さんはあっさり言った。
「三浦は普通に可愛いじゃん」
「えっ」
一瞬で三浦さんの動きが止まった。
「しかも、ミスったときもちゃんと一生懸命謝るし」
篠崎さんは続ける。
「ああいうのって相手の印象かなり違うからね。店としても、あの可愛らしさは普通に助かる」
「え、いや、そんな……」
三浦さんの声が明らかにしどろもどろになる。
「それに店の空気も柔らかくなるしね。全員がピリついてる店って、普通に息詰まるじゃん」
「確かに。俺も三浦さんがいると空気違うなって思います」
「え……あの、ありがとうございます……」
「いやいや」
篠崎さんは軽く手を振る。
「ほんとに三浦もいないと今日は普通にきつかったからね。来年、なぜか2人してクリスマス不在とかやめてよー?」
「ど、どういう意味ですか」
三浦さんが慌てるように言う。
「いやあ、別にー」
篠崎さんは軽く言った。
「じゃあ帰ろうかな。お疲れさま」
「お疲れさまでした……」
「お疲れさまでした」
篠崎さんは、そのまま先に出ていった。
通路に、三浦さんと俺だけが少し残った。三浦さんは鞄を持って、少しだけこっちを見た。何か言おうとして、一瞬止まる。
「……天野さん」
「はい?」
「あの、私も帰りますね」
「わかりました」
また少し間があった。
「あの……」
三浦さんは視線を少し落としてから、少しだけ大きめの声で言った。
「メ、メリークリスマスでした!」
少し遅れて、俺も返した。
「メリークリスマスです。今日、かなり大変でしたけど、一緒で助かりました」
三浦さんが一瞬だけ目を上げる。
「……っ、いえ。こちらこそ、ありがとうございました」
頭を下げ、それだけ言うと、少し早足で出ていった。
俺はその背中を少しだけ見送ってから、自分も店を出た。
◇
帰宅したのはかなり遅かった。
部屋に入って、鞄を下ろす。さすがに頭も体も重かった。それでも、パネルだけは確認した。
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【MISSION WARNING】
未達成項目が更新されました。
・数学 2回未達成
・英語 2回未達成
・理科 2回未達成
・社会 2回未達成
・読書・要点まとめ 2回未達成
・ジムトレーニング 2回未達成
・スキンケア・ヘアケア 1回未達成
※通算4回の未達成で
該当ステータスが低下します。
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今回のクリスマス2日間で、ほとんどの重い項目が2回未達成まで並んだ。でも、ここまでは覚悟していたことで、想定内だ。
俺はゆっくり息を吐いた。
ここから先は、本当に落とせない。




