第18話 アルバイト⑤
目が覚めたとき、白い天井が見えた。
一瞬、どこかわからなかった。蛍光灯の光がやけに白い。薬品の匂いがした。
軽く、頭の奥がまだずきずきしている。さっきまでの激痛に比べれば、ずっとましだった。でも、余韻みたいに残っていた。
まさか、気絶するほどの頭痛になるとは思わなかった。反動の説明は見ていたのに、正直ここまでとは思っていなかった。
横を向くと、母さんと里奈がいた。
病院だった。
「……起きた」
里奈が言った。その声は、いつもより少し低かった。
「ここ……」
「病院」
母さんが言った。目が少し赤かった。
「急に倒れたって聞いて、本当にびっくりした」
俺は少しずつ思い出した。リビング。鞄。頭痛。そこで記憶が途切れている。
「里奈が、すぐ救急車を呼んでくれたの」
母さんが言う。
「私にも電話してくれて、倒れた時間も、痛がってた様子もちゃんと伝えてくれて」
中学2年とは思えないくらい、落ち着いた対応だった。
俺はしばらく里奈を見た。
「……里奈、ありがとう。本当に助かった」
里奈は一瞬だけこっちを見て、それからすぐに顔を逸らした。
「別に……あの場にいたら、そりゃそうするし」
言い方はいつも通りだった。でも、少しだけ声が小さかった。
そのあと、医者から説明があった。検査の範囲では大きな異常はなく、今日はそのまま帰宅して大丈夫とのことだった。
母さんは何度も頭を下げていた。俺も一緒に礼を言った。
病院を出るとき、里奈が小さく言った。
「ほんと、意味わかんないから。いきなり倒れるの」
「……悪かった」
「悪かったで済まないんだけど」
でも、本気で怒っているというより、まだ気が抜けていない感じだった。
◇
病院を出たときには、もうかなり遅い時間だった。
「今日はもう作るのもしんどいし、外で食べて帰ろうか」
母さんがそう言った。
近くのパスタ屋に入った。3人で外食なんて、かなり久しぶりだった。
席について、メニューを開く。俺はすぐ決まった。母さんも割と早かった。でも、里奈だけがまだ悩んでいた。
「里奈……助けてくれたのは本当に感謝してるけど、さすがに長くないか」
「うるさい。最後の2択で悩んでんの。話しかけないで」
「ずっと悩んでるだろ」
「だから最後の2択って言ってるじゃん」
母さんが苦笑した。
「まあまあ、喧嘩しないで」
俺と里奈が同時に言った。ほぼ反射だった。
「してない」
「してないし」
母さんがちょっと笑った。
「やっぱり息ぴったりね」
里奈が、めちゃくちゃ嫌そうな顔をした。
「ほんと無理。次に気絶しても自分で病院行ってよね」
「気絶して行けるか。それほぼゾンビじゃねえか」
母さんがまた笑った。
「あらあら、漫才までして」
母さんだけが、少し楽しそうに笑っていた。
◇
料理が来るまでの間、店内のざわめきを聞きながら、俺は少しだけぼんやりしていた。
今日、自分はクレームを収めた。ちゃんと役に立てた。でも、その代償で倒れた。
スキルは便利だ。効果も大きい。でも、使い方を間違えたら普通に危ない。
《オーバードライブ》のときは、全身が壊れたみたいになった。《ネゴシエーション》では気絶までした。
このシステムは、力をくれる。その代わりに、ちゃんと代償も取る。そこを甘く見るな、ということなんだろう。
使いどころは、もっと選ばないといけない。
今回みたいな場面で使うなら、その後の反動まで計算に入れる必要がある。
そう考えていると、母さんが静かに言った。
「今日、ほんとに怖かったよ」
顔を上げる。母さんは水の入ったグラスを両手で持っていた。
「仁が変わろうとしてるの、ちゃんとわかるし、すごいと思ってる」
少しだけ間を置いてから続けた。
「でも、無理しすぎて倒れるのは、やっぱり心配だよ」
俺はすぐには返せなかった。
「……うん」
やっとそれだけ言った。
「気をつける」
里奈が横から言った。
「ほんと迷惑」
「お前、言い方」
「事実だし」
料理が運ばれてきた。湯気の立つ皿を前にして、やっと少し現実に戻った気がした。
「食べよっか」
母さんが言う。俺たちは小さく頷いて、フォークを取った。
里奈が悩んだ末に選んだパスタは当たりだったらしく、食べ終わる頃には満足そうな顔をしていた。
「前言撤回。むしろ倒れてくれてラッキーだった」
そう言って、すぐに母さんにたしなめられていた。
◇
次の出勤の日。
店に入ったときから、空気が少し違った。大きく何かが変わったわけじゃない。でも、前より明らかに見られ方が違っていた。
バックヤードに入ると、朝倉店長がいた。
「おはようございます」
店長は書類から目を上げて、俺を見た。
「この前の件」
すぐにわかった。18番卓のクレームのことだ。
「落ち着いていて、よかったです」
短い言い方だった。でも、ちゃんと褒めていた。
「ありがとうございます」
「ただし、まだ満足しないでください。評価が上がると、次から求められる水準も上がります」
「はい」
「では、今日もお願いします」
それだけだった。でも、以前より少しだけ扱いが変わったのがわかった。
◇
そのあと、厨房にグラスを取りに行ったときだった。
この前、火入れミスの件で慌ただしく動いていた社員の人が、こっちに気づいた。
「天野くん。あのとき、助かったわ」
「……いえ」
「火入れミスは完全にこっちの責任だったから。ホールであそこまでちゃんと収めてくれて、本当に助かった」
少し意外だった。厨房側から直接そう言われるとは思っていなかった。
「ありがとうございます」
俺が答えると、その人は近づいてきた三浦さんのほうも見た。
「三浦さんも、この前はごめんね」
「……え」
「持っていった側でああいうのに当たると、どうしても一番きついよね。でも、あれはそっちの責任じゃないから」
三浦さんは少しだけ目を見開いた。
「……ありがとうございます」
「こっちもあれ以来、確認さらに厳しくしてる。また何かあったら遠慮なくすぐ言ってね」
「はい」
そのやり取りを聞きながら、少しだけ肩の力が抜けた。三浦さんも、ほんの少しだけ表情がやわらいでいた。
店の中の評価が、少しだけ上がっている。
その感覚があった。
◇
三浦さんは、少し時間を置いてから話しかけてきた。
「あの……天野さん。この前は、本当にありがとうございました」
少しだけ頭を下げる。
「いえいえ。今日も、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
それだけだった。でも、前より少しだけ言い方がやわらかかった。
◇
その日から、三浦さんの様子が少しだけ変わった。
前から敬語だったし、距離も近すぎなかった。それは同じだった。ただ、たまに目が合う。そのたびに、三浦さんのほうがすぐ視線を逸らすようになった。
最初は気のせいかと思った。でも、一回じゃなかった。
ドリンク補充に行こうとしたとき。休憩前にロッカーへ戻るとき。目が合う。三浦さんが先に逸らす。
しかも、前よりよく話しかけられるようにもなった。
「天野さん、12番卓の伝票、先に下げても大丈夫でしょうか」
「はい。あちらはもう追加注文なさそうなので、大丈夫だと思います」
「ありがとうございます」
とか。
「すみません、これどっちを優先したほうがいいですか」
「料理提供のほうが先でいいと思います。片づけは自分が行きます」
「すみません、ありがとうございます」
とか。
前より、明らかに頼られていた。悪い気はしなかった。
でも、なんとなく不思議でもあった。俺に聞かなくても自分で判断できそうな、小さな頼り事が多かった。
◇
篠崎さんは、たぶん最初から気づいていた。
休憩前、バックヤードの端で俺は備品を補充していた。少し離れたところで、篠崎さんと三浦さんが話しているのが聞こえた。
篠崎さんが、少し笑いを含んだ声で言う。
「三浦さあ」
「はい?」
「なんか、天野くんのことめっちゃ見てない?」
「そ、そんなことないです!」
三浦さんの声が、明らかにひっくり返った。篠崎さんはその反応が面白かったらしい。
「そうかなぁ? さっきもお客さん対応してるとこ見てたし、視線わかりやすすぎたけど」
「見てません!」
「いや、見てるって」
「見てないです!」
「それに最近、天野くんへの質問だけちょっと多くない?」
「そ、それは……聞きやすいからで……!」
「へえ、聞きやすいんだ」
「それに、普通に仕事ができるからです!」
「うんうん」
篠崎さんの声は完全にニヤニヤしていた。
「じゃあ、そういうことにしとこうかなぁ」
三浦さんはたぶん、顔が真っ赤だったと思う。声だけでわかった。
俺は聞こえないふりをした。でも、さすがに少しだけ困った。
◇
あるとき、バックヤードで三浦さんと一緒になった。
三浦さんが、少し迷った様子のあとで声をかけてきた。
「天野さん」
「はい」
「この前……あのとき、言ってくださったこと、ありがとうございます」
「……この前、言ったことですか?」
少しだけ間があった。
「クレームにちゃんと向き合っていた、とか……その……いるだけで安心感がある、とか」
「ああ」
三浦さんは視線を下げたまま続けた。
「ああいうふうに言ってもらえたの、初めてだったので」
俺は少しだけ言葉を探した。
「本当に思ったことを言っただけです」
「でも、すごく救われました」
三浦さんの声は小さかった。
「私、自分では、ああいうとき止まってしまうのがわかってるので。ずっと、だめだなって思ってました」
「……」
「でも、ちゃんと見てくれてたんだってわかって、少しだけ楽になりました」
前より、ちゃんとまっすぐな声だった。
「それならよかったです」
俺は言った。
「三浦さん、実際ちゃんと向き合ってましたし。三浦さんがいることで安心感があるのも本当ですから」
三浦さんは少しだけ顔を上げた。
「……ありがとうございます」
それだけ言って、小さく頭を下げた。そこで会話は終わった。
三浦さんのほうが少しだけ恥ずかしそうにしていた。
◇
篠崎さんはその日の終わり際、伝票整理をしながら小さく言った。
「天野くん」
「はい」
「罪だね」
「……何の話ですか」
「いや、別に?」
俺はため息をつきかけて、やめた。篠崎さんはそういう反応まで面白がる。
「なんでもないならいいです。仕事に戻りましょう」
「はいはい。真面目だねえ」
でも、店の空気を一番楽しそうに見ているのは、たぶんこの人だった。
◇
その日の仕事終わり、店を出るときに思った。
この店の中でも、少しずつ立ち位置が変わっている。
店長の見方。厨房の反応。篠崎さんの態度。三浦さんの視線。
全部が、少し前とは違っていた。
学校だけじゃない。
バイト先でも、自分の居場所が変わり始めている。




