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第18話 アルバイト⑤

目が覚めたとき、白い天井が見えた。


一瞬、どこかわからなかった。蛍光灯の光がやけに白い。薬品の匂いがした。


軽く、頭の奥がまだずきずきしている。さっきまでの激痛に比べれば、ずっとましだった。でも、余韻みたいに残っていた。


まさか、気絶するほどの頭痛になるとは思わなかった。反動の説明は見ていたのに、正直ここまでとは思っていなかった。


横を向くと、母さんと里奈がいた。


病院だった。


「……起きた」


里奈が言った。その声は、いつもより少し低かった。


「ここ……」


「病院」


母さんが言った。目が少し赤かった。


「急に倒れたって聞いて、本当にびっくりした」


俺は少しずつ思い出した。リビング。鞄。頭痛。そこで記憶が途切れている。


「里奈が、すぐ救急車を呼んでくれたの」


母さんが言う。


「私にも電話してくれて、倒れた時間も、痛がってた様子もちゃんと伝えてくれて」


中学2年とは思えないくらい、落ち着いた対応だった。


俺はしばらく里奈を見た。


「……里奈、ありがとう。本当に助かった」


里奈は一瞬だけこっちを見て、それからすぐに顔を逸らした。


「別に……あの場にいたら、そりゃそうするし」


言い方はいつも通りだった。でも、少しだけ声が小さかった。


そのあと、医者から説明があった。検査の範囲では大きな異常はなく、今日はそのまま帰宅して大丈夫とのことだった。


母さんは何度も頭を下げていた。俺も一緒に礼を言った。


病院を出るとき、里奈が小さく言った。


「ほんと、意味わかんないから。いきなり倒れるの」


「……悪かった」


「悪かったで済まないんだけど」


でも、本気で怒っているというより、まだ気が抜けていない感じだった。



病院を出たときには、もうかなり遅い時間だった。


「今日はもう作るのもしんどいし、外で食べて帰ろうか」


母さんがそう言った。


近くのパスタ屋に入った。3人で外食なんて、かなり久しぶりだった。


席について、メニューを開く。俺はすぐ決まった。母さんも割と早かった。でも、里奈だけがまだ悩んでいた。


「里奈……助けてくれたのは本当に感謝してるけど、さすがに長くないか」


「うるさい。最後の2択で悩んでんの。話しかけないで」


「ずっと悩んでるだろ」


「だから最後の2択って言ってるじゃん」


母さんが苦笑した。


「まあまあ、喧嘩しないで」


俺と里奈が同時に言った。ほぼ反射だった。


「してない」

「してないし」


母さんがちょっと笑った。


「やっぱり息ぴったりね」


里奈が、めちゃくちゃ嫌そうな顔をした。


「ほんと無理。次に気絶しても自分で病院行ってよね」


「気絶して行けるか。それほぼゾンビじゃねえか」


母さんがまた笑った。


「あらあら、漫才までして」


母さんだけが、少し楽しそうに笑っていた。



料理が来るまでの間、店内のざわめきを聞きながら、俺は少しだけぼんやりしていた。


今日、自分はクレームを収めた。ちゃんと役に立てた。でも、その代償で倒れた。


スキルは便利だ。効果も大きい。でも、使い方を間違えたら普通に危ない。


《オーバードライブ》のときは、全身が壊れたみたいになった。《ネゴシエーション》では気絶までした。


このシステムは、力をくれる。その代わりに、ちゃんと代償も取る。そこを甘く見るな、ということなんだろう。


使いどころは、もっと選ばないといけない。


今回みたいな場面で使うなら、その後の反動まで計算に入れる必要がある。


そう考えていると、母さんが静かに言った。


「今日、ほんとに怖かったよ」


顔を上げる。母さんは水の入ったグラスを両手で持っていた。


「仁が変わろうとしてるの、ちゃんとわかるし、すごいと思ってる」


少しだけ間を置いてから続けた。


「でも、無理しすぎて倒れるのは、やっぱり心配だよ」


俺はすぐには返せなかった。


「……うん」


やっとそれだけ言った。


「気をつける」


里奈が横から言った。


「ほんと迷惑」


「お前、言い方」


「事実だし」


料理が運ばれてきた。湯気の立つ皿を前にして、やっと少し現実に戻った気がした。


「食べよっか」


母さんが言う。俺たちは小さく頷いて、フォークを取った。


里奈が悩んだ末に選んだパスタは当たりだったらしく、食べ終わる頃には満足そうな顔をしていた。


「前言撤回。むしろ倒れてくれてラッキーだった」


そう言って、すぐに母さんにたしなめられていた。



次の出勤の日。


店に入ったときから、空気が少し違った。大きく何かが変わったわけじゃない。でも、前より明らかに見られ方が違っていた。


バックヤードに入ると、朝倉店長がいた。


「おはようございます」


店長は書類から目を上げて、俺を見た。


「この前の件」


すぐにわかった。18番卓のクレームのことだ。


「落ち着いていて、よかったです」


短い言い方だった。でも、ちゃんと褒めていた。


「ありがとうございます」


「ただし、まだ満足しないでください。評価が上がると、次から求められる水準も上がります」


「はい」


「では、今日もお願いします」


それだけだった。でも、以前より少しだけ扱いが変わったのがわかった。



そのあと、厨房にグラスを取りに行ったときだった。


この前、火入れミスの件で慌ただしく動いていた社員の人が、こっちに気づいた。


「天野くん。あのとき、助かったわ」


「……いえ」


「火入れミスは完全にこっちの責任だったから。ホールであそこまでちゃんと収めてくれて、本当に助かった」


少し意外だった。厨房側から直接そう言われるとは思っていなかった。


「ありがとうございます」


俺が答えると、その人は近づいてきた三浦さんのほうも見た。


「三浦さんも、この前はごめんね」


「……え」


「持っていった側でああいうのに当たると、どうしても一番きついよね。でも、あれはそっちの責任じゃないから」


三浦さんは少しだけ目を見開いた。


「……ありがとうございます」


「こっちもあれ以来、確認さらに厳しくしてる。また何かあったら遠慮なくすぐ言ってね」


「はい」


そのやり取りを聞きながら、少しだけ肩の力が抜けた。三浦さんも、ほんの少しだけ表情がやわらいでいた。


店の中の評価が、少しだけ上がっている。


その感覚があった。



三浦さんは、少し時間を置いてから話しかけてきた。


「あの……天野さん。この前は、本当にありがとうございました」


少しだけ頭を下げる。


「いえいえ。今日も、よろしくお願いします」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


それだけだった。でも、前より少しだけ言い方がやわらかかった。



その日から、三浦さんの様子が少しだけ変わった。


前から敬語だったし、距離も近すぎなかった。それは同じだった。ただ、たまに目が合う。そのたびに、三浦さんのほうがすぐ視線を逸らすようになった。


最初は気のせいかと思った。でも、一回じゃなかった。


ドリンク補充に行こうとしたとき。休憩前にロッカーへ戻るとき。目が合う。三浦さんが先に逸らす。


しかも、前よりよく話しかけられるようにもなった。


「天野さん、12番卓の伝票、先に下げても大丈夫でしょうか」


「はい。あちらはもう追加注文なさそうなので、大丈夫だと思います」


「ありがとうございます」


とか。


「すみません、これどっちを優先したほうがいいですか」


「料理提供のほうが先でいいと思います。片づけは自分が行きます」


「すみません、ありがとうございます」


とか。


前より、明らかに頼られていた。悪い気はしなかった。


でも、なんとなく不思議でもあった。俺に聞かなくても自分で判断できそうな、小さな頼り事が多かった。



篠崎さんは、たぶん最初から気づいていた。


休憩前、バックヤードの端で俺は備品を補充していた。少し離れたところで、篠崎さんと三浦さんが話しているのが聞こえた。


篠崎さんが、少し笑いを含んだ声で言う。


「三浦さあ」


「はい?」


「なんか、天野くんのことめっちゃ見てない?」


「そ、そんなことないです!」


三浦さんの声が、明らかにひっくり返った。篠崎さんはその反応が面白かったらしい。


「そうかなぁ? さっきもお客さん対応してるとこ見てたし、視線わかりやすすぎたけど」


「見てません!」


「いや、見てるって」


「見てないです!」


「それに最近、天野くんへの質問だけちょっと多くない?」


「そ、それは……聞きやすいからで……!」


「へえ、聞きやすいんだ」


「それに、普通に仕事ができるからです!」


「うんうん」


篠崎さんの声は完全にニヤニヤしていた。


「じゃあ、そういうことにしとこうかなぁ」


三浦さんはたぶん、顔が真っ赤だったと思う。声だけでわかった。


俺は聞こえないふりをした。でも、さすがに少しだけ困った。



あるとき、バックヤードで三浦さんと一緒になった。


三浦さんが、少し迷った様子のあとで声をかけてきた。


「天野さん」


「はい」


「この前……あのとき、言ってくださったこと、ありがとうございます」


「……この前、言ったことですか?」


少しだけ間があった。


「クレームにちゃんと向き合っていた、とか……その……いるだけで安心感がある、とか」


「ああ」


三浦さんは視線を下げたまま続けた。


「ああいうふうに言ってもらえたの、初めてだったので」


俺は少しだけ言葉を探した。


「本当に思ったことを言っただけです」


「でも、すごく救われました」


三浦さんの声は小さかった。


「私、自分では、ああいうとき止まってしまうのがわかってるので。ずっと、だめだなって思ってました」


「……」


「でも、ちゃんと見てくれてたんだってわかって、少しだけ楽になりました」


前より、ちゃんとまっすぐな声だった。


「それならよかったです」


俺は言った。


「三浦さん、実際ちゃんと向き合ってましたし。三浦さんがいることで安心感があるのも本当ですから」


三浦さんは少しだけ顔を上げた。


「……ありがとうございます」


それだけ言って、小さく頭を下げた。そこで会話は終わった。


三浦さんのほうが少しだけ恥ずかしそうにしていた。



篠崎さんはその日の終わり際、伝票整理をしながら小さく言った。


「天野くん」


「はい」


「罪だね」


「……何の話ですか」


「いや、別に?」


俺はため息をつきかけて、やめた。篠崎さんはそういう反応まで面白がる。


「なんでもないならいいです。仕事に戻りましょう」


「はいはい。真面目だねえ」


でも、店の空気を一番楽しそうに見ているのは、たぶんこの人だった。



その日の仕事終わり、店を出るときに思った。


この店の中でも、少しずつ立ち位置が変わっている。


店長の見方。厨房の反応。篠崎さんの態度。三浦さんの視線。


全部が、少し前とは違っていた。


学校だけじゃない。


バイト先でも、自分の居場所が変わり始めている。

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