第17話 アルバイト④
俺はスキルを使用した。
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【SPECIAL SKILL】
《ネゴシエーション》
発動
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その瞬間、世界の見え方が少し変わった。
全部の音がはっきり聞こえる。父親の荒い息。母親が子どもの肩を抱き寄せる衣擦れ。三浦さんの喉が詰まる音。厨房のほうで誰かが動きを止めた気配。ばらばらだった音が、頭の中で勝手に分類されていく。
怒鳴っている父親は、料理を見ているようで、何度も子どもの顔へ視線を戻していた。母親は声を荒げていない。でも、子どもの肩を掴む指に力が入っている。子どもは皿ではなく、父親の顔を見て怯えていた。
怒りの中心は、料理そのものじゃない。
子どもに危険が及んだかもしれない、という恐怖だ。
頭の中に、いくつもの言葉が浮かんだ。申し訳ありません。すぐ作り直します。厨房に確認します。お待ちください。
さらに重要なのは、順番だった。
謝罪。安全確認。料理の回収。責任者確認。待ち時間の提示。選択肢を渡す。そこまでが、まるでレールみたいに頭の中へ並んだ。
俺は三浦さんの横に入った。
「申し訳ありません」
まず、はっきり頭を下げた。声は大きすぎない。周囲に聞こえる程度で、でも相手を刺激しない高さに抑える。
「お子さまは、もう召し上がりましたか」
父親の眉が動いた。怒鳴るために吸った息が、一瞬だけ止まる。
「1口食べる前に切ったから食べてない! でも、だからいいって話じゃないだろ!」
怒りは続いている。でも、今の質問には答えた。会話の流れが、怒鳴り声だけの状態から少しだけ戻ったのがわかった。
「はい。その通りです。確認していただいて、本当にありがとうございました」
父親の目が、ほんの少しだけ揺れた。
ここで余計な説明はしない。相手が気づいたことを、まず認める。
「すぐに該当のお料理をお下げします。そのうえで、店長に確認を取り、対応内容をお伝えします。少々お時間をください」
母親が口を開いた。
「作り直しなら、またかなり待ちますよね?」
声は父親より静かだった。でも、その静かさのほうが重かった。母親が欲しいのは謝罪じゃない。子どもにこれ以上嫌な思いをさせないことと、どれくらい待つのかという見通しだ。
「そこも含めて、いま確認してまいります」
ここで「すぐできます」とは言わない。約束していい範囲じゃない。今の俺が勝手に保証すれば、それは責任範囲を越える。
「三浦さん」
横を向く。三浦さんの視線は、父親ではなく床の一点に落ちていた。完全に固まっている。でも、名前を呼ぶと目だけは動いた。
「18番卓のお料理を一度下げて、新しいお冷をお願いします」
一度に多くは言わない。いまの三浦さんに必要なのは、考えなくても動ける短い指示だ。
「は、はい……!」
三浦さんが動く。震えていたけど、ちゃんと動けた。俺はそのまま厨房へ向かった。
「18番卓、キッズチキンの火入れ不十分でした。お子さまは未喫食です。代替可能な最短メニューは何分ですか」
厨房の社員がすぐに答える。
「キッズカレーなら5分、チキン作り直しなら15分かかる」
「承知しました。お客様への対応については店長に確認します」
そのまま朝倉店長に電話をかけた。2コールで出た。
「朝倉です」
「18番卓で、キッズチキンプレートの中心が赤いとのご指摘です。お子さまは食べていません。かなり強いお怒りです。該当品は下げました」
自分の声が、普段よりずっと整理されているのがわかった。報告すべきことと、今いらないことの境目がはっきり見える。
店長の声がすぐ返る。
「会計から該当品を外しましょう。必要ならドリンクバーも切ってください」
「わかりました。優先して代替品を作る場合、キッズカレーなら5分、同一メニュー作り直しなら15分です。こちらから優先する旨とその選択肢を提示してよろしいでしょうか」
「問題ないです。お客様が望むほうで対応してください。必要なら私から電話で謝罪も入れます」
「承知しました」
電話を切る。
頭の中で、次の会話の形が自然に組み上がる。先に返金対応を伝える。次に代替案。最後に選択肢。相手に選んでもらう形にする。
俺は客席へ戻った。
「お待たせしました」
18番卓へ戻って、頭を下げる。
「店長に確認が取れました。該当のお料理はお会計から外します。あわせて、本日分のドリンクバー料金もこちらで取り消します」
父親の顔はまだ怒っていた。でも、最初の爆発とは違う。目の焦点が、俺の言葉を追っている。
「……それで?」
「お子さまのお料理ですが、同じチキンの作り直しですと15分ほどかかります」
そこで一度、区切った。母親の視線が、子どもへ落ちる。
「お待たせを減らすなら、キッズカレーであれば5分程度でご用意できます。同じメニューをご希望であれば、作り直します。どちらがよろしいでしょうか」
押しつけない。でも、選びやすい順番で出す。先に短い待ち時間の選択肢を出して、それから同じメニューも選べると伝える。
母親が子どもの顔を見る。
「どうする?」
「カレーがいい」
子どもが小さく言った。
その瞬間、父親の肩から少し力が抜けた。怒りが消えたわけじゃない。でも、場の中心が「怒鳴ること」から「子どもに食べさせること」に戻った。
「かしこまりました。キッズカレーを優先でお作りします」
そのうえで、もう一度言う。
「このたびは本当に申し訳ありませんでした」
父親が少しだけ息を吐いた。
「……最初から、ちゃんとそう対応してくれればよかったんだよ」
怒りの芯が、はっきりほどけたのがわかった。声の角が少しだけ丸くなる。視線が皿ではなく、子どもへ戻る。
「おっしゃる通りです」
俺は答えた。
「ご不安にさせてしまって、申し訳ありません」
それ以上は言わない。余計な言葉には繋げない。
◇
キッズカレーは本当に5分で上がった。俺が自分で持っていった。
「お待たせいたしました。こちら、キッズカレーです」
料理を置いて、そのまま続ける。
「先ほどの件を受けて、提供前に熱処理は厨房で確認しております」
母親の顔が少しだけゆるんだ。今の一言は、母親に向けたものだった。父親ではなく、ずっと子どもの肩を抱いていた母親に。
「……ありがとうございます」
父親のほうも、もう怒鳴る顔ではなかった。
「さっきは言い方きつくなってすみません」
父親が言った。
「子どものことだったから、頭に血が上がって」
「当然です」
俺は答えた。
「ご不安にさせてしまって、申し訳ありませんでした」
父親はそこで初めて、少しだけ笑った。
「でも、ちゃんと対応してくれて助かりました」
少しだけ間を置いてから、父親は続けた。
「ありがとうございました」
その言葉を聞いた瞬間、肩の力が少し抜けた。
◇
裏へ下がると、三浦さんが目を赤くして立っていた。
「天野さん……」
「大丈夫でしたか」
「私、ほんとに終わったと思いました」
声が震えていた。
「でも、天野さんが来てくださって……」
三浦さんは一度、息を整えてから言った。
「本当に助かりました。ありがとうございます」
半泣きだった。でも、ちゃんとこっちを見ていた。
「いいえ。それに三浦さんは悪くないです」
俺は言った。
「持っていった人の責任じゃないです。あれは厨房と店の確認の問題なので」
三浦さんは少しだけ首を振った。
「でも……私、半年も働いてるのに、ああいうとき何もできませんでした」
目元を押さえるみたいにして、続ける。
「ただ謝ることしかできなくて……」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中で三浦さんの表情が整理された。怒鳴られたことに怯えているだけじゃない。半年働いているのに何もできなかった。そこを責めている。自分で自分を役立たずみたいに見ている。
「それでいいと思います」
俺はすぐに言った。
「三浦さんは、一生懸命お客様に謝ってましたし、ちゃんと仕事をしてました」
三浦さんが少しだけ顔を上げる。
「僕も、もし自分があの場の当事者だったら、たぶん同じようにしかできなかったです」
俺は続けた。
「今回は、少し離れた場所から三浦さんの状況とクレームの内容を客観的に見られたから、対応できただけです」
三浦さんは黙って聞いていた。
「それに」
少しだけ言葉を選ぶように見せて、続ける。
「三浦さんって、不思議といるだけで安心感があるんです」
「……え?」
「たぶん、あの場で僕が落ち着いて対応できたのも、三浦さんがちゃんとそこにいてくれたからだと思います」
「私が……?」
「はい。三浦さんが何もしてなかったわけじゃないです。あの場にいて、ちゃんと向き合ってました」
三浦さんはしばらく何も言えないみたいだった。それから、少しだけ目を伏せて、小さく言った。
「……ありがとうございます」
前よりも、ずっと静かな声だった。
◇
上がりの時間まで、仕事は続いた。仕事中、頭は常にクリアで、これまでよりずっとスムーズにこなすことができた。
今の自分は、まだスキルの中にいる。
客の表情の変化。言葉の通し方。店内の空気。全部が少し鮮明すぎるくらい鮮明だった。
上がりの直前、パネルが静かに光った。
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【MISSION COMPLETE】
難易度:困難
30分以内に、責任範囲を逸脱せずにクレームを解決しろ。
【達成報酬】
会話力 57 → 59
知識 53 → 54
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ちゃんと、ミッションは成功していた。
◇
家に帰った。玄関を開けて、リビングに入る。鞄を下ろす。
ソファに里奈がいるのが見えて、「ただいま」と言おうとした、その瞬間だった。
頭の奥で、何かが弾けた。
「――ッ」
頭痛なんて言葉では足りなかった。頭の芯を、内側から何本も針で突き刺されるみたいな感覚。こめかみだけじゃない。後頭部も、目の奥も、額の内側も、全部だった。
視界が揺れる。床も壁も、輪郭がずれて見えた。
これが、《ネゴシエーション》の反動か。
そう思ったときには、もうまともに立っていられなかった。
「兄貴?」
ソファから里奈の声がした。
「兄貴、どうしたの!?」
「だ、大丈夫……」
なんとか声を出した。でも、その直後、膝が抜けた。
床が近づく。
そこで意識が切れた。




