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第15話 アルバイト②

2日目の出勤まで、俺はかなりバイトの勉強をやった。


テーブル番号。席の配置。メニュー表。メニュー番号。ハンディに入れるときの略称。前回の注意点。ノートに書いたものを、何度も見返した。


学校の休み時間にも開いた。英単語を詰め込んだときと同じだった。覚えるまで繰り返す。頭に入るまで反復する。


だから、2日目は少し自信があった。少なくとも、前回よりはやれるはずだ。



「おはようございます」


店に入ると、篠崎さんが先に気づいた。


「おはよ。今日も早いね」


「おはようございます」


三浦さんも少し遅れてこっちを見た。


「お、おはようございます」


「おはようございます」


バックヤードに入ると、朝倉店長がいた。相変わらず、無駄のない立ち方だった。店長は俺を見るなり言った。


「確認します。テーブルとメニュー番号をいくつか言うので答えてください」


俺は店長から来る問いに、すぐに答えた。


そこで店長が一度だけ、小さく頷いた。


「悪くないです」


「ありがとうございます」



そこからは、ハンディの確認だった。


画面の切り替え。テーブル番号の入力。人数変更。メニュー選択。セットメニューの分岐。トッピングの追加。取り消し。送信確認。


説明は相変わらず速かった。


でも、頭に入る。テーブル番号とメニュー番号がもう入っているぶん、何を触っているのかがわかった。意味のない情報の羅列には見えなかった。


店長はそこで終わらせなかった。


「1回見せます」


それだけ言って、実際に1組の接客を最初からやってみせた。


戻ってくると、店長が言う。


「次、あなたがやってください。3組見ます」


「はい」


1組目。緊張したが、なんとかできた。2組目。ハンディ入力の途中で少し詰まった。3組目。スムーズにできた。


戻ると、店長が短く言った。


「3組見ましたが、この後を1人でもできそうですか」


頭が止まった。


……もう1人でやるのか。


さすがに早すぎる。俺にできるだろうか。でも、ミッションが頭をよぎった。7日目までに戦力として認められるためには、多少早いと思っても、やるしかない。


「はい」



最初のオーダーは、なんとか通せた。


「ご注文をお伺いします」


声は震えなかった。客も普通だった。ハンディの画面も、思ったよりちゃんと見えた。


いけるかもしれない。


でも、2組目でミスをした。


4人席の注文を取って、厨房に通した。しばらくして、篠崎さんが近寄ってきた。


「天野くん、これ、チーズトッピング入ってないよ。さっきのお客さん、チーズって言ってなかった?」


心臓がひやっとした。


客のところへ戻る。確認する。やっぱり、入力漏れだった。


「申し訳ありません。すぐに修正します」


客は軽く頷いただけだった。怒られはしなかった。でも、顔が熱くなった。


次はやらない。


その直後、別のテーブルでまたやった。


今度は、オムライスとハンバーグを逆に通した。料理が出る直前で、厨房で止められた。


「これ、卓番合ってる?」


「……すみません、確認します」


まただ。


さっきよりきつかった。ミッションがまた頭をよぎった。


もうミスできない。


そう考えた瞬間から、体が少し固くなった。



そのあとだった。


料理を運んでいた。パスタ1皿と、サラダ2皿。無理な量じゃなかった。ちゃんと持てると思った。


でも、通路の角を曲がるとき、ほんの少しだけバランスを崩した。


皿が滑った。


「っ」


反応しきれなかった。パスタの皿が床に落ちた。嫌な音がした。ソースが散った。


店内の空気が、少しだけ止まる。客席のほうから見られているのがわかった。喉が一気に乾いた。


「申し訳ありません!」


とっさにそう言った。でも、もう遅かった。


朝倉店長がすぐに来た。床と皿を見て、それから俺を見る。怒鳴らなかった。ただ、冷たい声で言った。


「天野くん」


「はい」


「今日はもう、見ていてください」


「……はい」


「今の状態で続けても、またミスします」


「はい」


「下がって、流れを見てください」


何も言い返せなかった。


悔しかった。情けなかった。でも、反論できる材料が1つもなかった。


俺は下がった。



少し離れたところで、篠崎さんと三浦さんが小声で話していた。


篠崎さんが言う。


「昨日は良さそうだったけど……」


三浦さんが小さく返した。


「辞めちゃうかもですね……」


「こういうので、一気に折れる人、多いからねえ」


聞こえないふりをした。でも、ちゃんと聞こえていた。


辞める。


その言葉が、妙に残った。


でも、まったく辞める気はなかった。ただ、そう思われても仕方がない内容だった。


2日目で、オーダーミスを2回。皿も落とした。普通に考えれば、見切られてもおかしくない。



帰り際、朝倉店長に呼ばれた。


「天野くん」


「はい」


「今日の出来は悪いです」


「はい」


「でも、終わりではないです」


少し間を置いて、続けた。


「次までにハンディの操作を頭に入れてきてください。迷いながら触るから、全部遅れて崩れます」


「はい」


「あと、皿は目線と重心です。手先で持たないでください」


「わかりました」


「次、同じところで止まるなら続かないと思ってください」


「はい」


厳しかった。でもまだ、次がある。そこだけが救いだった。


篠崎さんから少しだけ気を使った顔で言われた。


「まあ……今日はきつかったね」


「はい」


「でも、卓番とかメニュー番号とかかなり覚えていたし、もう少し染みこませるだけだと思うんだよね」


俺は少しだけ間を置いてから答えた。


「……はい。そうします」


「うん。頑張ってね」



着替えたあと、俺はバックヤードの隅で自分のメモを開いた。


量はある。でも、汚い。走り書きが多すぎる。あとから見返すと、どこに何があるのかわかりにくかった。


篠崎さんが言っていた通りだった。


雑すぎると、見返せない。これだと家で復習ができない。


そのとき、三浦さんが自分のメモ帳を鞄にしまおうとしているのが見えた。


俺は少し迷ってから、声をかけた。


「あの、三浦さん」


「は、はい」


「お願いがあります」


三浦さんが少し身構える。


「そのメモを、少しだけ貸していただけないでしょうか。次に入るときに必ずお返しします」


「えっ、私のメモですか?」


「はい。三浦さんのメモ、すごく整理されていて見やすかったので。自分のメモだけだと、たぶん足りないです。お願いします」


三浦さんは戸惑ったように、自分のメモ帳を見た。


「私のが役に立つかはわかりませんが……」


そう言いながらも、メモ帳を差し出してくれた。


「絶対に大事にします。次に来るとき、必ず返します」


「はい……」


三浦さんは少し照れたように視線を逸らした。


「そんなのが参考になるかは、本当にわかりませんけど」


「いえ、かなり助かります。ありがとうございます」


俺は深く頭を下げた。



家に帰ると、すぐにノートを開いた。


努力することには、自信があった。


次までに直す。次は同じミスをしない。そのためなら、いくらでもやれる。


まず、自分のメモと三浦さんのメモを並べた。


差は明らかだった。


俺のメモは量が多い。でも、整理されていない。重要なことも、あとで確認すればいいことも、全部同じように並んでいる。


三浦さんのメモは違った。


小さい字なのに読みやすい。必要なところに印もある。覚える順番まで考えられていた。


俺は三浦さんのメモを中心に、徹底的に勉強することにした。



それから、ふと思った。


皿の持ち方は、家でも練習できる。


俺は立ち上がって、リビングに行った。棚から皿を借りて、持つ。歩く。置く。


何回か繰り返していると、ソファにいた里奈が顔を上げた。


「なにやってんの」


「ファミレスでバイト始めたから、その練習」


「ふーん」


里奈は少し皿を見て、それから言った。


「皿に何も乗ってなかったら、あんま意味なくない?」


「……あ」


確かに。


重さが違う。バランスも違う。何も乗っていない皿を運べても、本番の練習にはなりきらない。


その日の夕飯のとき、母さんに言った。


「ちょっと練習してもいい?」


「え、なにを?」


「皿の持ち方」


母さんは少し驚いたが、すぐに笑った。


「いいよ」


そのまま、母さんが作ってくれた料理を3皿同時に持って、テーブルまで運んだ。


慎重に歩く。目線。重心。皿の角度。


「はい、どうぞ」


母さんは明らかに嬉しそうだった。


「すごい。ちゃんと店員さんみたい」


里奈は椅子に座ったまま、嫌そうな顔をした。


「うわ。ほんとにやる?」


心の中で、お前が空皿じゃ意味ないって言ったんだろ、と返した。


でも、たしかに練習にはなった。もう少しやりたい。


「……もう1回やっていい?」


そう言って、俺は食べようとした里奈の皿を持ち上げかけた。


「は? だめ。それ置いて」


里奈がすぐに言った。


「っていうか、ペットボトルとか乗せて練習すればいいじゃん」


「……それ早く言えよ」


「兄貴がバカなだけだし」


口は悪かった。でも、たしかにその通りだった。


俺は皿を戻して、台所のペットボトルを見た。これなら重さを調整できる。何回でもやれる。


「……なるほど」


「初めからそうしろってこと」


里奈はそれだけ言って、またご飯に戻った。


俺はその夜、ペットボトルを皿に乗せて何度も運んだ。


3皿。2皿。片手の角度。歩く速度。曲がるときの重心。


三浦さんのメモも何度も読み返した。


手を動かす。頭に入れる。もう一度動く。もう一度読む。


できることは、全部やる。

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