第15話 アルバイト②
2日目の出勤まで、俺はかなりバイトの勉強をやった。
テーブル番号。席の配置。メニュー表。メニュー番号。ハンディに入れるときの略称。前回の注意点。ノートに書いたものを、何度も見返した。
学校の休み時間にも開いた。英単語を詰め込んだときと同じだった。覚えるまで繰り返す。頭に入るまで反復する。
だから、2日目は少し自信があった。少なくとも、前回よりはやれるはずだ。
◇
「おはようございます」
店に入ると、篠崎さんが先に気づいた。
「おはよ。今日も早いね」
「おはようございます」
三浦さんも少し遅れてこっちを見た。
「お、おはようございます」
「おはようございます」
バックヤードに入ると、朝倉店長がいた。相変わらず、無駄のない立ち方だった。店長は俺を見るなり言った。
「確認します。テーブルとメニュー番号をいくつか言うので答えてください」
俺は店長から来る問いに、すぐに答えた。
そこで店長が一度だけ、小さく頷いた。
「悪くないです」
「ありがとうございます」
◇
そこからは、ハンディの確認だった。
画面の切り替え。テーブル番号の入力。人数変更。メニュー選択。セットメニューの分岐。トッピングの追加。取り消し。送信確認。
説明は相変わらず速かった。
でも、頭に入る。テーブル番号とメニュー番号がもう入っているぶん、何を触っているのかがわかった。意味のない情報の羅列には見えなかった。
店長はそこで終わらせなかった。
「1回見せます」
それだけ言って、実際に1組の接客を最初からやってみせた。
戻ってくると、店長が言う。
「次、あなたがやってください。3組見ます」
「はい」
1組目。緊張したが、なんとかできた。2組目。ハンディ入力の途中で少し詰まった。3組目。スムーズにできた。
戻ると、店長が短く言った。
「3組見ましたが、この後を1人でもできそうですか」
頭が止まった。
……もう1人でやるのか。
さすがに早すぎる。俺にできるだろうか。でも、ミッションが頭をよぎった。7日目までに戦力として認められるためには、多少早いと思っても、やるしかない。
「はい」
◇
最初のオーダーは、なんとか通せた。
「ご注文をお伺いします」
声は震えなかった。客も普通だった。ハンディの画面も、思ったよりちゃんと見えた。
いけるかもしれない。
でも、2組目でミスをした。
4人席の注文を取って、厨房に通した。しばらくして、篠崎さんが近寄ってきた。
「天野くん、これ、チーズトッピング入ってないよ。さっきのお客さん、チーズって言ってなかった?」
心臓がひやっとした。
客のところへ戻る。確認する。やっぱり、入力漏れだった。
「申し訳ありません。すぐに修正します」
客は軽く頷いただけだった。怒られはしなかった。でも、顔が熱くなった。
次はやらない。
その直後、別のテーブルでまたやった。
今度は、オムライスとハンバーグを逆に通した。料理が出る直前で、厨房で止められた。
「これ、卓番合ってる?」
「……すみません、確認します」
まただ。
さっきよりきつかった。ミッションがまた頭をよぎった。
もうミスできない。
そう考えた瞬間から、体が少し固くなった。
◇
そのあとだった。
料理を運んでいた。パスタ1皿と、サラダ2皿。無理な量じゃなかった。ちゃんと持てると思った。
でも、通路の角を曲がるとき、ほんの少しだけバランスを崩した。
皿が滑った。
「っ」
反応しきれなかった。パスタの皿が床に落ちた。嫌な音がした。ソースが散った。
店内の空気が、少しだけ止まる。客席のほうから見られているのがわかった。喉が一気に乾いた。
「申し訳ありません!」
とっさにそう言った。でも、もう遅かった。
朝倉店長がすぐに来た。床と皿を見て、それから俺を見る。怒鳴らなかった。ただ、冷たい声で言った。
「天野くん」
「はい」
「今日はもう、見ていてください」
「……はい」
「今の状態で続けても、またミスします」
「はい」
「下がって、流れを見てください」
何も言い返せなかった。
悔しかった。情けなかった。でも、反論できる材料が1つもなかった。
俺は下がった。
◇
少し離れたところで、篠崎さんと三浦さんが小声で話していた。
篠崎さんが言う。
「昨日は良さそうだったけど……」
三浦さんが小さく返した。
「辞めちゃうかもですね……」
「こういうので、一気に折れる人、多いからねえ」
聞こえないふりをした。でも、ちゃんと聞こえていた。
辞める。
その言葉が、妙に残った。
でも、まったく辞める気はなかった。ただ、そう思われても仕方がない内容だった。
2日目で、オーダーミスを2回。皿も落とした。普通に考えれば、見切られてもおかしくない。
◇
帰り際、朝倉店長に呼ばれた。
「天野くん」
「はい」
「今日の出来は悪いです」
「はい」
「でも、終わりではないです」
少し間を置いて、続けた。
「次までにハンディの操作を頭に入れてきてください。迷いながら触るから、全部遅れて崩れます」
「はい」
「あと、皿は目線と重心です。手先で持たないでください」
「わかりました」
「次、同じところで止まるなら続かないと思ってください」
「はい」
厳しかった。でもまだ、次がある。そこだけが救いだった。
篠崎さんから少しだけ気を使った顔で言われた。
「まあ……今日はきつかったね」
「はい」
「でも、卓番とかメニュー番号とかかなり覚えていたし、もう少し染みこませるだけだと思うんだよね」
俺は少しだけ間を置いてから答えた。
「……はい。そうします」
「うん。頑張ってね」
◇
着替えたあと、俺はバックヤードの隅で自分のメモを開いた。
量はある。でも、汚い。走り書きが多すぎる。あとから見返すと、どこに何があるのかわかりにくかった。
篠崎さんが言っていた通りだった。
雑すぎると、見返せない。これだと家で復習ができない。
そのとき、三浦さんが自分のメモ帳を鞄にしまおうとしているのが見えた。
俺は少し迷ってから、声をかけた。
「あの、三浦さん」
「は、はい」
「お願いがあります」
三浦さんが少し身構える。
「そのメモを、少しだけ貸していただけないでしょうか。次に入るときに必ずお返しします」
「えっ、私のメモですか?」
「はい。三浦さんのメモ、すごく整理されていて見やすかったので。自分のメモだけだと、たぶん足りないです。お願いします」
三浦さんは戸惑ったように、自分のメモ帳を見た。
「私のが役に立つかはわかりませんが……」
そう言いながらも、メモ帳を差し出してくれた。
「絶対に大事にします。次に来るとき、必ず返します」
「はい……」
三浦さんは少し照れたように視線を逸らした。
「そんなのが参考になるかは、本当にわかりませんけど」
「いえ、かなり助かります。ありがとうございます」
俺は深く頭を下げた。
◇
家に帰ると、すぐにノートを開いた。
努力することには、自信があった。
次までに直す。次は同じミスをしない。そのためなら、いくらでもやれる。
まず、自分のメモと三浦さんのメモを並べた。
差は明らかだった。
俺のメモは量が多い。でも、整理されていない。重要なことも、あとで確認すればいいことも、全部同じように並んでいる。
三浦さんのメモは違った。
小さい字なのに読みやすい。必要なところに印もある。覚える順番まで考えられていた。
俺は三浦さんのメモを中心に、徹底的に勉強することにした。
◇
それから、ふと思った。
皿の持ち方は、家でも練習できる。
俺は立ち上がって、リビングに行った。棚から皿を借りて、持つ。歩く。置く。
何回か繰り返していると、ソファにいた里奈が顔を上げた。
「なにやってんの」
「ファミレスでバイト始めたから、その練習」
「ふーん」
里奈は少し皿を見て、それから言った。
「皿に何も乗ってなかったら、あんま意味なくない?」
「……あ」
確かに。
重さが違う。バランスも違う。何も乗っていない皿を運べても、本番の練習にはなりきらない。
その日の夕飯のとき、母さんに言った。
「ちょっと練習してもいい?」
「え、なにを?」
「皿の持ち方」
母さんは少し驚いたが、すぐに笑った。
「いいよ」
そのまま、母さんが作ってくれた料理を3皿同時に持って、テーブルまで運んだ。
慎重に歩く。目線。重心。皿の角度。
「はい、どうぞ」
母さんは明らかに嬉しそうだった。
「すごい。ちゃんと店員さんみたい」
里奈は椅子に座ったまま、嫌そうな顔をした。
「うわ。ほんとにやる?」
心の中で、お前が空皿じゃ意味ないって言ったんだろ、と返した。
でも、たしかに練習にはなった。もう少しやりたい。
「……もう1回やっていい?」
そう言って、俺は食べようとした里奈の皿を持ち上げかけた。
「は? だめ。それ置いて」
里奈がすぐに言った。
「っていうか、ペットボトルとか乗せて練習すればいいじゃん」
「……それ早く言えよ」
「兄貴がバカなだけだし」
口は悪かった。でも、たしかにその通りだった。
俺は皿を戻して、台所のペットボトルを見た。これなら重さを調整できる。何回でもやれる。
「……なるほど」
「初めからそうしろってこと」
里奈はそれだけ言って、またご飯に戻った。
俺はその夜、ペットボトルを皿に乗せて何度も運んだ。
3皿。2皿。片手の角度。歩く速度。曲がるときの重心。
三浦さんのメモも何度も読み返した。
手を動かす。頭に入れる。もう一度動く。もう一度読む。
できることは、全部やる。




