第12話 体育祭④
そして、体育祭当日になった。
朝から空が高かった。グラウンドに出ると、応援席はいくつかのクラスでもう埋まりかけていて、保護者のエリアも作られている。俺はそこを一度だけ見た。
母さんが来ていた。
少し離れたところから、小さく手を振ってくる。俺も小さく頷いた。
体育祭が始まった。
午前中の種目が進むにつれて、総合順位が動いていった。抜けていたのはA組だった。陸上部や運動部の選手が多く、どの種目でも安定して点を積んでいる。
D組も悪くはなかった。黒川が出た種目はほとんど上位に入ったし、伊藤たちも健闘していた。でも、午前終了時点ではA組が1位、D組が2位だった。
D組が逆転優勝するには、最後のクラス対抗リレーでA組より上に入る必要がある。
しかも、A組のアンカーは田村先生が言っていた陸上部の1年だ。競技場なら200mを22秒台で走る相手。配点が一番重い最後の種目で、そいつに勝つ必要がある。
最後のリレーで決まる。
そういう状況だった。
◇
リレーの前、伊藤たちが集まってきた。
「A組、やっぱ強いな」
伊藤が言った。
「午前からずっと点取ってるし。ただ、リレーの1走から3走までは、D組も普通に勝負できると思う。問題はアンカーだな」
伊藤がA組のほうを見る。
「マジで天野次第じゃない?」
俺もA組のほうを見た。アンカーらしい細身の男子が、軽く流している。動きに無駄がない。腕の振り方も、足の運びも、他の生徒とは明らかに違っていた。
体全体が、走るためにできているような立ち方だった。
「天野、怖くないの?」
伊藤が聞いた。
少し考えてから答える。
「怖くはない。プレッシャーはあるけど」
「マジか。すご」
本当のことだった。緊張はしている。でも、怯えてはいなかった。むしろ、このプレッシャーを体がちゃんと受け止めている感じがあった。
予選では、D組もA組も危なげなく通過した。俺はアンカーとして走ったけれど、無理はしなかった。フォームだけ崩さないようにして、8割くらいの力で流す。
A組のアンカーも、明らかに温存していた。
本当の勝負は決勝。それは、向こうもわかっているようだった。
◇
決勝のスタートが切られた。
黒川が1走として飛び出した。スタートダッシュが鋭かった。前傾から一気に加速する。種目別練習の日より、さらに切れていた。
バトンを渡した時点で、D組が先頭だった。
さすがだと思った。
1学期、俺を散々苦しめた相手だ。それでも、あいつの運動能力が本物なのは認めるしかなかった。今日に限って言えば、その速さに助けられている。
2走、3走と繋いでいく。A組も速い。D組が少し前に出ても、また少し詰められる。それでも黒川が作ったリードは消えなかった。
3走が最後の直線に入った時点で、D組はまだ前にいた。
差はある。普通なら十分なリードに見える。
でも、相手はA組のアンカーだ。
この差でも、全然足りないかもしれない。
D組の3走が、歯を食いしばるようにして腕を振る。A組の3走も迫ってくる。俺はテイクオーバーゾーンの中で、後ろを見た。
バトンが来る。
D組が先に来る。でも、A組も後ろだ。
「天野!」
3走の声が聞こえた。
俺は走り出した。腕を後ろに伸ばす。手のひらに、バトンの硬い感触が入る。
その瞬間、全身が前に向いた。
◇
走り出した瞬間、クラスの応援が聞こえた。
「天野!」
「行け!」
「逃げ切れ!」
声が、そのまま体に入ってきた。
最初の数歩で、地面を後ろに押す。急いで顔を上げない。田村先生の声が、頭の中でそのまま鳴った。
加速していく。
前には誰もいない。俺が先頭だ。けれど、後ろから来る気配は最初からあった。
A組だ。
50m。まだ前にいる。でも、後ろの足音が近い。ただ速いんじゃない。フォームが崩れないまま迫ってくる。本物だと、足音だけでわかった。
70m。観客席のほうから「頑張れ!」という声が聞こえた。少しだけ質の違う声だった。
見なくてもわかった。母さんだった。
それだけで、また脚が前に出た。
100m。差は残っている。でも、もう安全な距離じゃない。A組のアンカーは、確実に俺を削ってきていた。向こうの足音が、少しずつ大きくなる。クラスの応援も、さらに熱くなっていく。
「天野!」
「あと半分!」
「行けるぞ!」
「天野くん!」
佐々木や川島の声も聞こえた。
今まで俺を、こんなふうに本気で応援してくれるクラスメイトがいただろうか。
いや、応援をされたことなんて、たぶんなかった。生まれて、初めての経験だった。
笑われる声じゃない。見下す声でもない。命令でもない。俺に届いてほしいと、本気で思っている声だった。
その瞬間、胸の奥で何かが噛み合った。
世界が、少しだけ遅くなった。
応援の声は聞こえている。風の音もある。グラウンドの土を蹴る音も、後ろから迫るA組の足音も、全部ある。なのに、それらが遠い。水の中に沈んだみたいに、音の輪郭だけがゆっくり伸びる。
時間が薄く引き延ばされていく。
どう足を動かせば速く走れるのか。頭じゃない。体が理解していた。右足が地面に入る角度。左腕を引く深さ。腰の高さ。肩の力を抜く位置。次の一歩を置く場所。
全部が、考える前に決まる。
150m。
A組の足音が、また近づく。
でも、焦りはなかった。足裏で押した力が、そのまま体を前へ返してくる。今まで何度も崩れたフォームが、崩れない。
190m。
ゴールが一気に近づく。A組の気配が、すぐ横まで来た。
最後の数メートル。世界の音が、もう一度だけ遠のいた。
俺は考えていなかった。勝ちたいとも、負けたくないとも、叫んでいなかった。ただ、体が前へ行こうとしていた。
その通りに、動かした。
200m。
そのまま、テープを切った。
◇
その瞬間、全部が戻ってきた。
クラスメイトの声が一気に耳へ押し寄せる。脚の重さも、肺の熱さも、まとめて来た。俺は膝に手をついた。息が全部出ていた。
しばらく、何も考えられなかった。
それから聞こえた。
D組が沸いていた。爆発するみたいな声だった。
「やったー!」
「天野!」
「1位!」
「D組、これ優勝だろ!」
遠くに、母さんが見えた。手を口に当てていた。泣いているように見えた。
A組のアンカーが歩いてきた。まだ息が上がっていた。悔しさを隠しきれていない顔だった。でも、視線だけはまっすぐこっちを向いていた。
「……お前、本当に帰宅部かよ」
「そうだけど。夏休みからは、ずっと走ってた」
相手は少しだけ黙った。それから短く息を吐く。
「だよな。何もしてないやつに、あそこで逃げ切られたらやってられないし」
それだけ言って、自分のクラスのほうへ戻っていった。
負けた悔しさは残っているはずなのに、言い訳はしなかった。
その背中を見送る間もなく、D組のみんなが押し寄せてきた。
「お前マジかよ!」
伊藤がそう言いながら、俺の肩を叩く。
「天野、お前ほんとに誰だよ!?」
「最後の伸びやばかったって!」
「マジで勝つとは思わなかった!」
クラスメイトたちが、わあわあ言いながら近づいてくる。
少し離れたところで、橘は輪の少し外からこっちを見ていた。目が合うと、少しだけ口元を緩める。
みんなに礼を言いながら、少し泣きそうになった。喉の奥が少し詰まった。
少し離れたところに、黒川が立っていた。
D組は勝った。けれど黒川だけは、勝った側の顔をしていなかった。
何をするでもなく、ただ悔しそうに立っていた。
◇
帰り際、パネルが開いた。
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【MISSION COMPLETE】
難易度:極
クラス対抗リレーのアンカーを務め、1位でゴールせよ。
【達成報酬】
運動神経 58 → 60
筋力 58 → 60
体格 60 → 62
【SPECIAL SKILL】
《カリスマ》解放
1時間限定で周囲の人間に対する影響力が大幅上昇する。
発言・行動・存在感が、通常を超えた説得力と求心力を持つ。
使用回数:1回
消費型スキル
【注意】
スキル使用中のあなたの発言は、効果が切れた後も強く心に残ります。
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《カリスマ》の効果を見た瞬間、これだと思った。
これは、黒川を徹底的に潰すスキルになる。
《オーバードライブ》とは種類が違う。あれは、体に作用するスキルだった。
でも今回は、人に作用する。発言が、いつも以上に響く。行動に、人を動かす力が乗る。存在そのものに、引力みたいなものが加わる。
このスキルは温存する。俺のステータスが完全に黒川を超えるまで。
俺の影響力が最大になったとき。そのときに使う。
使うのはおそらく3学期。まだかなり先だ。でも、そう決めた。
黒川が作ってきた空気を、教室の中で全部ひっくり返す。そのために、このスキルは取っておく。
俺はパネルを閉じて、校舎を出た。
◇
家に帰ると、母さんがリビングで待っていた。
「もう」
母さんが言った。目が少し赤かった。
「本当に頑張ったね。最後のところ、心臓止まるかと思った」
「見てたの、わかったよ」
「そりゃ見てたよ」
母さんが笑った。
「ほんとによかった」
少しだけ照れた。
「喜びすぎだよ」
「喜びすぎじゃないよ」
しばらくして、玄関の音がした。里奈が帰ってきた。鞄を下ろしながら、リビングに入ってくる。母さんがすぐに言った。
「里奈、聞いて。今日の体育祭、仁がアンカーで走って、クラス優勝したんだよ」
里奈がこっちを見た。
「ふーん。やるじゃん」
それだけだった。でも、口調はいつもより柔らかかった。
「走ってるところ録画したから、見る?」
母さんが言う。
「いや、別に……」
「本当は見たいんでしょ。ほら」
「別にそういうわけじゃないけど」
「そんなこと言ってないで、ほらほら」
母さんがそのままスマホを向ける。少し間があってから、里奈が言った。
「わかったから。見るから」
母さんがスマホを渡す。里奈が画面をのぞき込む。動画が流れた。
「うわ。本当だ。兄貴、マジで速いじゃん」
「そうでしょ!」
母さんが言う。そのまま、もう1回再生していた。里奈も、もう1回見ていた。目が少し真剣だった。
俺は何も言わなかった。
母さんを喜ばせることができた。
それに、里奈はもう、クソ兄貴とは言わなかった。
たったそれだけのことなのに、胸の奥に残った。
頑張ってよかった。
本当に、そう思った。
◇
週明けの朝、職員室に入ると、先生は書類を見ていた。
「田村先生。土曜日のご報告とお礼に来ました。どうにか逃げ切って、D組が優勝しました。本当にありがとうございました」
先生がゆっくりこちらを向いた。
「ああ。見ていた」
それだけ言ってから、少しだけ口元を緩めた。
「正直、最後は抜かれる可能性のほうが高いと思っていた。よく持たせたな」
「後ろから来てるのは、ずっとわかってました」
「だろうな。だが、お前は崩れなかった。あれは大きい」
少し間があって、先生が続けた。
「実はあのときのタイムも計っていた。非公式だが、24秒2だった」
「……24秒2」
「最初に来たときは27秒0だったな。3秒近く縮めたことになる」
少し迷ってから、「先生のおかげです」と言った。先生は首を横に振った。
「俺が教えたのは基礎だけだ。そこから先を毎日回したのはお前だ」
それから俺を見て言った。
「お前は、かなり走る側の人間だ。フォームの入りが早い。修正を入れたら、翌日には体に持ってくる。しかも本番で固くならなかった。あそこで出せるのは簡単じゃない」
先生の言葉は、いつも通り淡々としていた。でも、だからこそ重かった。
「お前は努力もできる。本格的にやれば、かなり上まで行けるかもしれん。陸上部に来る気はないか。もっと速くしてやれる」
少し固まった。
そういう言葉が、自分に向くとは前なら想像もしなかった。純粋に嬉しかった。先生が、本気でそう言ってくれているのもわかった。
でも、俺がここまで走ってきた理由は、陸上で勝ちたいからじゃなかった。
「ありがとうございます」
俺は言った。
「そう言ってもらえるのは、すごく嬉しいです。でも、今のところはそのつもりはなくて。勝手なことばかり言って、教えてもらうだけ教えてもらったのに、すみません」
先生はしばらく俺を見ていた。それから、小さく息を吐く。
「別に謝ることじゃない。無理にとは言わん。ただ、頭の片隅には置いておけ」
「……はい」
俺は頭を下げて、職員室を出た。
◇
廊下を歩きながら、先生の言葉を反芻した。
『陸上部に来る気はないか』
今は、その気にはなれない。でも、自分の先にそういう選択肢があるのかと思った。
1学期のときは、未来に希望なんてなかった。人に注目されるような人間になれるわけがないし、なろうとも思わなかった。ただ人並みに平穏な人生を送りたいと思っていた。いや、それすら叶わない夢だった。
でも今は違う。
いくつもの未来の中から、自分で選べるかもしれない。
そんなことを、少しだけ思えるようになっていた。




