第11話 体育祭③
「スタート」
最初の3歩で、地面を後ろに押した。体が前へ飛び出す。今日はいい。そうわかるくらい、足裏に返ってくる感覚が強かった。
カーブに入る。外側の黒川が、すぐに視界の端へ入った。
速い。
レーン差があるのはわかっている。それでも、黒川の上体が前にあるように見えて、胸の奥がざわついた。
焦るな。
田村先生の声を、頭の中で無理やり再生する。ここで腕を振り回すな。肩を上げるな。
中盤に入っても、黒川は崩れなかった。軽い。速い。やっぱり、こいつは速い。
でも、俺の足も止まっていない。
カーブの出口まで流れを崩すな。中盤で雑に競るな。
残り50m。
脚が重くなる。肺が熱い。太ももの裏が張る。でも、黒川の肩もわずかに揺れていた。あいつも苦しい。
地面を押せ。脚を前に出すな。後ろへ押せ。
カーブが終わる。上体を起こす。腕を鋭く振る。
それでも、黒川はまだ前にいた。
届かないかもしれない。
一瞬、そうよぎった。でも、そこで終わったら、16日間が全部無駄になる。
残していた分を、ここで全部使う。
黒川の背中が近づく。足音が並ぶ。横に並んだ。
黒川の目が、一瞬だけこっちを向いた。
その目が揺れた。
抜かれると思っていなかった顔だった。
残り数メートル。俺が、ほんのわずかに前へ出た。
後ろから、黒川の荒い呼吸が聞こえた。でも、もう譲らない。
肺が焼ける。足が重い。視界の端が白くなる。
それでも、地面を押した。
ゴール。
◇
息が切れた。膝に手をつく。しばらく、周りの音が遠かった。
坂本先生がストップウォッチを見た。
「天野、24秒6。黒川、24秒7」
一瞬、誰も声を出さなかった。俺も、すぐには理解できなかった。
勝った。
本当に、黒川に勝ったのか。
胸の奥で、そんな声が漏れた。
勝つつもりで来た。勝つために走ってきた。それでも、実際に黒川の名前より先に自分の名前が呼ばれると、頭が追いつかなかった。
本当に勝ったのか。
俺が。
黒川に。
「……え?」
最初に声を漏らしたのは、田中だった。さっきまで笑っていた顔が、そのまま固まっている。口だけが半端に開いて、目は黒川と俺の間を何度も行き来していた。
走りなら黒川が勝つ。そう信じ切っていた顔だった。
遅れて、ざわめきがグラウンドに広がった。
「今、天野が勝った?」
「マジで?」
「黒川が負けたの?」
「いや、天野速すぎだろ」
誰も、黒川が負けると思っていなかった。俺が勝つとも思っていなかった。その空気が、はっきり伝わってきた。
顔を上げると、佐々木咲良がこっちを見ていた。隣にいた女子たちも同じだった。
黒川は数メートル先で立ち尽くしていた。
悔しそう、では足りない。信じられないものを見た顔だった。呼吸が少し乱れたまま、拳を握っている。爪が食い込むくらい強く。
言い訳も、悪態も、俺を見下す言葉も。何も出てこなかった。
俺も何も言わなかった。ただ、口元が勝手にゆるんだ。抑えようとしても、少しだけにやついてしまう。
黒川がそれを見た。眉がぴくりと動く。
その反応を見て、さらに胸の奥が熱くなった。
坂本先生が言った。
「アンカーは天野に決定です」
その一言で、D組が一気に沸いた。
「すげえ!」
「天野、マジかよ!」
「黒川に勝つのは予想外すぎる」
「黒川に勝ったなら文句なくない?」
さっきまで「黒川だろ」と言っていた声が、今度は別の形で広がっていく。その変化が、はっきり聞こえた。
伊藤が「おお、マジで勝った!」と叫びながら駆け寄ってきた。
「すごいじゃん。どんだけやったんだよ、この16日間」
「筋トレとか、走ったりとか、まあいろいろ」
伊藤が吹きだすように笑った。
「いや、それ前からずっと言ってるやつじゃん」
俺も笑った。
◇
俺は走りで黒川に勝った。
黒川が当然みたいに持っていたものが、目の前で剥がれていく。運動なら黒川。勝つのは黒川。アンカーは黒川。それが当たり前だった空気が、俺の名前で塗り替わっていく。
校舎裏で殴ったときとは違う。あれは2人だけの場所だった。
ここは違う。
D組全員が見ている。田中も、伊藤も、佐々木も、橘も、川島も、黒川の側にいたやつらも見ている。
クラスメイトみんなの前で、黒川は負けた。
教室に戻ってからも、妙な空気は残っていた。
黒川の周りには、いつも通り何人かが集まっている。でも、誰もさっきの走りには触れなかった。
田中のどうでもいい話題に黒川が頷くと、周りもすぐに頷いた。でも、その声には妙な気遣いが混じっていた。
誰も黒川を笑っていない。責めてもいない。
ただ、前と同じようには扱えていなかった。
それが一番大きかった。
◇
放課後、田村先生のところへ報告に行った。
職員室に入ると、先生は書類を見ていた。俺の顔を見た瞬間、たぶん結果を察したんだろう。
「タイムは」
「24秒6でした。黒川が24秒7で、俺がアンカーになりました」
先生はゆっくり頷いた。
「そうか」
それだけだった。褒めるわけでもない。でも、表情はほんの少しだけやわらいだ。
「教えた甲斐はあったな」
俺は頭を下げた。
「ありがとうございました」
先生は少し間を置いてから、続けた。
「ただ、1つ言っておく。A組に陸上部の1年がいる。体育祭のリレーじゃ、たぶんそいつがアンカーだ」
黙って聞いた。
「200mを、ちゃんとした競技場なら22秒台で走る。中学から本格的にやってきたやつだ。お前の24秒6は十分いい。だが、相手はその上にいる」
22秒台。
さっきまで熱かった胸の奥が、少し冷えた。
「本番は学校のグラウンドで、運動靴だ。条件が違うぶん、差は縮むかもしれん」
「はい」
「だからこそ、陸上部の顧問としては、これ以上お前を見てやるわけにはいかん。基礎は教えた。ここから先は自分で仕上げろ」
俺は深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
先生が小さく頷く。それだけだった。
俺はもう一度、深く頭を下げた。
◇
廊下を歩きながら、パネルを確認した。
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【STATUS COMMIT】
運動神経 56 → 57
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今日の走りが、数字になっていた。
アンカーは取った。黒川には勝った。でも、本当の勝負はここからだ。体育祭で1位を取るには、まだ足りない。
黒川を越えた先に、もっと速いやつがいる。
あと2週間で、どこまで縮められるか。
◇
家に帰ると、リビングに母さんと里奈がいた。
いつもと変わらない夕方だった。母さんがキッチンで夕飯の準備をしていて、里奈がソファでスマホを見ている。
「おかえり」と母さんが言った。
「ただいま」
俺は鞄を置いて、テーブルに座った。
「今日、体育祭の種目別練習があってさ」
母さんが手を止めて、こっちを向いた。
「アンカー、決まった」
「え。やったじゃない」
いつもより少し大きい声だった。普段あまり感情を前に出さない母さんが、ちゃんと喜んでいた。目が明るくなっている。
「どうやって決まったの? タイムで競ったの?」
「うん。同時に走って、タイムで勝った」
「すごい」
母さんが言った。
「ほんとに頑張ったんだね。毎日出ていってたもんね」
ソファから、里奈がこっちを見た。スマホを持ったまま、少しだけ姿勢を起こす。
「ふーん。何秒で走ったの?」
「24秒6」
里奈が少し考えてから言った。
「え、200mを24秒6って、50mだと6秒15でしょ」
「単純に4で割るとそんな感じ。ただ、50mはスタートダッシュの割合が多いから、実際は別だけど」
「やば。速」
素で驚いている声だった。
「……ありがとう」
そう言うと、里奈は少しだけ眉を動かして、またスマホに目を戻した。
◇
夕飯を食べながら、母さんがぽつりと言った。
「あの夏休みに毎朝走ってたの、ちゃんと意味あったんだね」
「あれがなかったら、今日は負けてた」
母さんは頷いた。里奈は黙ったまま、おかずをつついていた。でも、いつもより静かだった。
少し間が空いてから、母さんが思い出したみたいに言った。
「体育祭って、2週間後の土曜日だよね。お母さん、見に行っていい?」
俺は少し止まった。
前なら断っていた。去年も、その前も、学校行事に来てほしいとは思わなかった。
でも、今日は違った。
「……まあ、いいけど」
母さんが目を丸くした。それから、ぱっと顔が明るくなる。
「ほんとに? うれしい。いつも断られてたから」
少しだけ照れた。
「そんな大げさな」
「大げさじゃないよ」
母さんは笑った。それから、里奈のほうを見る。
「そうだ。里奈も一緒に行かない?」
「え……」
里奈の顔に、ほんの一瞬だけ迷いが出た。
「行かない。別に興味ないし」
母さんが口元を押さえる。
「なにそれ。今ちょっと迷ったでしょ」
「迷ってないし」
「迷ってたよ」
「迷ってないって言ってんじゃん。普通に行かないから」
「はいはい」
母さんが笑った。
◇
本番までの14日間、自主トレを続けた。
田村先生が最後に言っていた。
「基礎は教えた。あとは自分で仕上げろ」
先生はもう直接は見てくれない。でも、14日間で体に入ったものはあった。
最初の数歩で地面を後ろに押す感覚。カーブで力まないこと。中盤で無駄に上げすぎないこと。ラストで残した分を出し切ること。
毎朝、川沿いを走るたびに、その言葉を頭の中で繰り返した。
ただ、ステータスコミットはあまり来なかった。先生の指導みたいな、明確な修正がなくなった分、システムの反応も鈍くなった。それはそういうものだ。
それでも、走りそのものは少しずつ変わっていた。教わった動きを、自分の体に馴染ませていく。そんな時間だった。
何日かして、ようやくまたパネルが光った。
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【STATUS COMMIT】
運動神経 57 → 58
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数字は大きくは動かなかった。でも、タイムは少しずつ縮まっていた。
200mは、24秒3まで来ていた。
◇
その間、クラスのバトン練習も何度かやった。
1走が黒川。2走と3走がほかの男子。アンカーが俺だ。
練習のたびに、黒川のスタートダッシュを後ろから見た。相変わらず速かった。悔しさを燃料にして走っているのが、背中から伝わってきた。
でも、前みたいな圧迫感はなかった。
バトン練習のたびに、クラスの空気も少しずつ変わっていった。
「黒川と天野がいれば、A組以外には普通に勝てるんじゃない?」
誰かがそう言った。
否定する声はなかった。
問題はA組だ。
そういう空気が、クラス全体に漂ったまま、体育祭当日を迎えた。




