↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

11/43

第11話 体育祭③

「スタート」


最初の3歩で、地面を後ろに押した。体が前へ飛び出す。今日はいい。そうわかるくらい、足裏に返ってくる感覚が強かった。


カーブに入る。外側の黒川が、すぐに視界の端へ入った。


速い。


レーン差があるのはわかっている。それでも、黒川の上体が前にあるように見えて、胸の奥がざわついた。


焦るな。


田村先生の声を、頭の中で無理やり再生する。ここで腕を振り回すな。肩を上げるな。


中盤に入っても、黒川は崩れなかった。軽い。速い。やっぱり、こいつは速い。


でも、俺の足も止まっていない。


カーブの出口まで流れを崩すな。中盤で雑に競るな。


残り50m。


脚が重くなる。肺が熱い。太ももの裏が張る。でも、黒川の肩もわずかに揺れていた。あいつも苦しい。


地面を押せ。脚を前に出すな。後ろへ押せ。


カーブが終わる。上体を起こす。腕を鋭く振る。


それでも、黒川はまだ前にいた。


届かないかもしれない。


一瞬、そうよぎった。でも、そこで終わったら、16日間が全部無駄になる。


残していた分を、ここで全部使う。


黒川の背中が近づく。足音が並ぶ。横に並んだ。


黒川の目が、一瞬だけこっちを向いた。


その目が揺れた。


抜かれると思っていなかった顔だった。


残り数メートル。俺が、ほんのわずかに前へ出た。


後ろから、黒川の荒い呼吸が聞こえた。でも、もう譲らない。


肺が焼ける。足が重い。視界の端が白くなる。


それでも、地面を押した。


ゴール。


◇


息が切れた。膝に手をつく。しばらく、周りの音が遠かった。


坂本先生がストップウォッチを見た。


「天野、24秒6。黒川、24秒7」


一瞬、誰も声を出さなかった。俺も、すぐには理解できなかった。


勝った。


本当に、黒川に勝ったのか。


胸の奥で、そんな声が漏れた。


勝つつもりで来た。勝つために走ってきた。それでも、実際に黒川の名前より先に自分の名前が呼ばれると、頭が追いつかなかった。


本当に勝ったのか。


俺が。


黒川に。


「……え?」


最初に声を漏らしたのは、田中だった。さっきまで笑っていた顔が、そのまま固まっている。口だけが半端に開いて、目は黒川と俺の間を何度も行き来していた。


走りなら黒川が勝つ。そう信じ切っていた顔だった。


遅れて、ざわめきがグラウンドに広がった。


「今、天野が勝った?」

「マジで?」

「黒川が負けたの?」

「いや、天野速すぎだろ」


誰も、黒川が負けると思っていなかった。俺が勝つとも思っていなかった。その空気が、はっきり伝わってきた。


顔を上げると、佐々木咲良がこっちを見ていた。隣にいた女子たちも同じだった。


黒川は数メートル先で立ち尽くしていた。


悔しそう、では足りない。信じられないものを見た顔だった。呼吸が少し乱れたまま、拳を握っている。爪が食い込むくらい強く。


言い訳も、悪態も、俺を見下す言葉も。何も出てこなかった。


俺も何も言わなかった。ただ、口元が勝手にゆるんだ。抑えようとしても、少しだけにやついてしまう。


黒川がそれを見た。眉がぴくりと動く。


その反応を見て、さらに胸の奥が熱くなった。


坂本先生が言った。


「アンカーは天野に決定です」


その一言で、D組が一気に沸いた。


「すげえ!」

「天野、マジかよ!」

「黒川に勝つのは予想外すぎる」

「黒川に勝ったなら文句なくない?」


さっきまで「黒川だろ」と言っていた声が、今度は別の形で広がっていく。その変化が、はっきり聞こえた。


伊藤が「おお、マジで勝った!」と叫びながら駆け寄ってきた。


「すごいじゃん。どんだけやったんだよ、この16日間」


「筋トレとか、走ったりとか、まあいろいろ」


伊藤が吹きだすように笑った。


「いや、それ前からずっと言ってるやつじゃん」


俺も笑った。


◇


俺は走りで黒川に勝った。


黒川が当然みたいに持っていたものが、目の前で剥がれていく。運動なら黒川。勝つのは黒川。アンカーは黒川。それが当たり前だった空気が、俺の名前で塗り替わっていく。


校舎裏で殴ったときとは違う。あれは2人だけの場所だった。


ここは違う。


D組全員が見ている。田中も、伊藤も、佐々木も、橘も、川島も、黒川の側にいたやつらも見ている。


クラスメイトみんなの前で、黒川は負けた。


教室に戻ってからも、妙な空気は残っていた。


黒川の周りには、いつも通り何人かが集まっている。でも、誰もさっきの走りには触れなかった。


田中のどうでもいい話題に黒川が頷くと、周りもすぐに頷いた。でも、その声には妙な気遣いが混じっていた。


誰も黒川を笑っていない。責めてもいない。


ただ、前と同じようには扱えていなかった。


それが一番大きかった。


◇


放課後、田村先生のところへ報告に行った。


職員室に入ると、先生は書類を見ていた。俺の顔を見た瞬間、たぶん結果を察したんだろう。


「タイムは」


「24秒6でした。黒川が24秒7で、俺がアンカーになりました」


先生はゆっくり頷いた。


「そうか」


それだけだった。褒めるわけでもない。でも、表情はほんの少しだけやわらいだ。


「教えた甲斐はあったな」


俺は頭を下げた。


「ありがとうございました」


先生は少し間を置いてから、続けた。


「ただ、1つ言っておく。A組に陸上部の1年がいる。体育祭のリレーじゃ、たぶんそいつがアンカーだ」


黙って聞いた。


「200mを、ちゃんとした競技場なら22秒台で走る。中学から本格的にやってきたやつだ。お前の24秒6は十分いい。だが、相手はその上にいる」


22秒台。


さっきまで熱かった胸の奥が、少し冷えた。


「本番は学校のグラウンドで、運動靴だ。条件が違うぶん、差は縮むかもしれん」


「はい」


「だからこそ、陸上部の顧問としては、これ以上お前を見てやるわけにはいかん。基礎は教えた。ここから先は自分で仕上げろ」


俺は深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


先生が小さく頷く。それだけだった。


俺はもう一度、深く頭を下げた。


◇


廊下を歩きながら、パネルを確認した。


━━━━━━━━━━━━━━━━━

【STATUS COMMIT】


運動神経 56 → 57

━━━━━━━━━━━━━━━━━


今日の走りが、数字になっていた。


アンカーは取った。黒川には勝った。でも、本当の勝負はここからだ。体育祭で1位を取るには、まだ足りない。


黒川を越えた先に、もっと速いやつがいる。


あと2週間で、どこまで縮められるか。


◇


家に帰ると、リビングに母さんと里奈がいた。


いつもと変わらない夕方だった。母さんがキッチンで夕飯の準備をしていて、里奈がソファでスマホを見ている。


「おかえり」と母さんが言った。


「ただいま」


俺は鞄を置いて、テーブルに座った。


「今日、体育祭の種目別練習があってさ」


母さんが手を止めて、こっちを向いた。


「アンカー、決まった」


「え。やったじゃない」


いつもより少し大きい声だった。普段あまり感情を前に出さない母さんが、ちゃんと喜んでいた。目が明るくなっている。


「どうやって決まったの? タイムで競ったの?」


「うん。同時に走って、タイムで勝った」


「すごい」


母さんが言った。


「ほんとに頑張ったんだね。毎日出ていってたもんね」


ソファから、里奈がこっちを見た。スマホを持ったまま、少しだけ姿勢を起こす。


「ふーん。何秒で走ったの?」


「24秒6」


里奈が少し考えてから言った。


「え、200mを24秒6って、50mだと6秒15でしょ」


「単純に4で割るとそんな感じ。ただ、50mはスタートダッシュの割合が多いから、実際は別だけど」


「やば。速」


素で驚いている声だった。


「……ありがとう」


そう言うと、里奈は少しだけ眉を動かして、またスマホに目を戻した。


◇


夕飯を食べながら、母さんがぽつりと言った。


「あの夏休みに毎朝走ってたの、ちゃんと意味あったんだね」


「あれがなかったら、今日は負けてた」


母さんは頷いた。里奈は黙ったまま、おかずをつついていた。でも、いつもより静かだった。


少し間が空いてから、母さんが思い出したみたいに言った。


「体育祭って、2週間後の土曜日だよね。お母さん、見に行っていい?」


俺は少し止まった。


前なら断っていた。去年も、その前も、学校行事に来てほしいとは思わなかった。


でも、今日は違った。


「……まあ、いいけど」


母さんが目を丸くした。それから、ぱっと顔が明るくなる。


「ほんとに? うれしい。いつも断られてたから」


少しだけ照れた。


「そんな大げさな」


「大げさじゃないよ」


母さんは笑った。それから、里奈のほうを見る。


「そうだ。里奈も一緒に行かない?」


「え……」


里奈の顔に、ほんの一瞬だけ迷いが出た。


「行かない。別に興味ないし」


母さんが口元を押さえる。


「なにそれ。今ちょっと迷ったでしょ」


「迷ってないし」


「迷ってたよ」


「迷ってないって言ってんじゃん。普通に行かないから」


「はいはい」


母さんが笑った。


◇


本番までの14日間、自主トレを続けた。


田村先生が最後に言っていた。


「基礎は教えた。あとは自分で仕上げろ」


先生はもう直接は見てくれない。でも、14日間で体に入ったものはあった。


最初の数歩で地面を後ろに押す感覚。カーブで力まないこと。中盤で無駄に上げすぎないこと。ラストで残した分を出し切ること。


毎朝、川沿いを走るたびに、その言葉を頭の中で繰り返した。


ただ、ステータスコミットはあまり来なかった。先生の指導みたいな、明確な修正がなくなった分、システムの反応も鈍くなった。それはそういうものだ。


それでも、走りそのものは少しずつ変わっていた。教わった動きを、自分の体に馴染ませていく。そんな時間だった。


何日かして、ようやくまたパネルが光った。


━━━━━━━━━━━━━━━━━

【STATUS COMMIT】


運動神経 57 → 58

━━━━━━━━━━━━━━━━━


数字は大きくは動かなかった。でも、タイムは少しずつ縮まっていた。


200mは、24秒3まで来ていた。


◇


その間、クラスのバトン練習も何度かやった。


1走が黒川。2走と3走がほかの男子。アンカーが俺だ。


練習のたびに、黒川のスタートダッシュを後ろから見た。相変わらず速かった。悔しさを燃料にして走っているのが、背中から伝わってきた。


でも、前みたいな圧迫感はなかった。


バトン練習のたびに、クラスの空気も少しずつ変わっていった。


「黒川と天野がいれば、A組以外には普通に勝てるんじゃない?」


誰かがそう言った。


否定する声はなかった。


問題はA組だ。


そういう空気が、クラス全体に漂ったまま、体育祭当日を迎えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。