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第10話 体育祭②

その日の放課後、川沿いに出た。まず200mを測った。


スマホのストップウォッチで、1人で走る。結果は27秒1。フォームを意識しながら何本か走って、その日の最後は27秒0だった。


翌日も走った。昨日意識したことを頭に置いたまま、また測る。27秒0。縮まっていなかった。


この2日、パネルには何も出なかった。ステータスコミットもない。数字は動かなかった。



2日目の夜、部屋で天井を見ていた。


何かが根本的に足りない。毎朝のランニングは続けてきた。でも、「速く走る」ことは距離を積むのとは別だった。


動画で「200m 速くなる方法」「短距離 フォーム改善」と検索して、いくつも見た。言っていることが微妙に違う。どれが自分に合うのか判断できない。真似してみても、何を直しているのか曖昧なまま走っているだけだった。


このペースじゃ、黒川に届かない。


リビングへ行くと、母さんがいた。俺はソファに座って、少し黙った。母さんは俺の様子に気づいたのか、声をかけてきた。


「どうしたの?」


「……ちょっと詰まってる」


「何が?」


俺は、この2日間のことを話した。体育祭のアンカーを走りたいこと。クラスを勝たせたいこと。でも、何を直せばいいのかわからないこと。


母さんは最後まで口を挟まなかった。話し終わると、少しだけ考えてから言った。


「私にはそういうのはわからないけど……先生に聞いてみたら?」


「先生?」


「学校に陸上の先生、いないの?」


そこで少し止まった。


いる。3年の担任の田村先生が、陸上部の顧問だ。現役の頃は短距離の選手だったと聞いたことがある。走りのことなら、たぶん学校で一番詳しい。


でも、放課後は部活で忙しいはずだ。頼むなら朝か昼休みになる。しかも、学校で走りを見てもらうってことは、グラウンドで練習することになる。


クラスのやつらに見られながら教わるのは、正直気が進まなかった。


けれど、できることがあるなら全部やる。夏休みで学んだのは、それだった。



翌朝、始業前に職員室へ行った。田村先生は机で書類を見ていた。50代くらいの大柄な先生だ。


「田村先生、少しいいですか」


先生が顔を上げた。


「1年D組の天野です。体育祭のクラス対抗リレーでアンカーを走りたいです。走り方を教えてもらえませんか」


先生は少し俺を見て、それからまた書類に目を落とした。


「俺は陸上部の顧問だ。他のクラスの生徒を個別に見る義務はない」


「……はい。すみません」


言い返せなかった。先生の言っていることは正しい。


でも、ここで引いたら終わる。


「でも、お願いします。朝の始業前だけでもいいです。昼休みの少しだけでもいいです。あとは全部、自分でやります」


「部活の生徒でもないやつに時間を割く筋も、暇もない。顧問は部員のためにいる」


「はい」


一度、喉が詰まった。


やはりダメか……。


それでも、続けた。


「でも、自分だけだとうまくできなくて……あと14日しかないんです。このままでは間に合いません」


それで先生が顔を上げた。今度は、さっきより長く見た。


「14日って何だ。体育祭はまだ先だろ」


「14日後のクラス内選考で、アンカーが決まります」


「……だとしても、俺も暇じゃない」


「始業前の少しだけでも、昼休みの10分でもいいです。残りは全部、自分でやります。言われたことは毎日やります」


先生はまた黙った。書類に目を戻しかける。それを見て、もう一度口を開いた。俺にできるのは必死に言うことだけだった。


「絶対に負けたくない相手がいます」


言ってから、少しだけ声が硬くなった。


「そいつがアンカー候補になっていて、直接走りで勝てる場面が来ます。こんな機会、たぶんもう二度と来ません。だから頼みに来ました」


先生の視線が俺に向いた。


「……お前と相手のタイムは」


「俺は昨日の200mのベストが27秒0です。相手の200mはわかりません。ただ、50mは6秒5だったと聞いています」


先生が少し考える顔になる。


「それなら、かなり厳しい。50m6秒5なら、200mも25秒台の可能性が十分ある。2秒差は簡単には埋まらん」


「それでも教えてください」


すぐに言った。


「何もしないで諦めたくなくて……先生に教わるのが、一番近いと思ってます。だから、お願いします」


先生はしばらく俺を見ていた。今度は書類に視線を戻さなかった。


「……明日から、朝7時30分に来い。20分しか取れん。昼休みも10分が限度だ」


息を吐いた。


「ありがとうございます」


「礼はいい。ただし、来るだけで速くなると思うな。俺が見てない時間のほうが長い。その時間に何をするかで決まる。公園でも川沿いでもできるメニューを出す。毎日やれ。できないなら来なくていい」


「やります。毎日やります」


「もう1つ」


「なんでしょうか」


「見込みがなければ、すぐ切る」


「わかりました」


「明日来い」


それだけ言って、先生は書類に目を戻した。俺は頭を下げて、職員室を出た。


廊下に出ると、朝の静かな空気があった。


断られると思っていた。実際、最初は断られた。でも引かなかった。


それだけでも、前の俺とは全然違っていた。



翌朝7時30分、グラウンドに行くと、田村先生はもう来ていた。


「まず1本、走ってみろ」


言われた通りに200mを走る。先生は腕を組んだまま見ていた。走り終えた直後、すぐに口を開く。


「お前の走りは、長距離の延長だ。200mはそれじゃ駄目だ」


先生は俺のフォームを見て、短く指摘した。腰が落ちている。腕が横にぶれる。上体を起こすのが早い。前半で力みすぎて、後半に残らない。


「まずは地面を後ろに押す感覚を覚えろ。毎日全力で200mを走るな。崩れたフォームを覚えるだけだ」


それから先生は、30mの加速、60mの流し、カーブ走を少しずつ走らせた。走るたびに、短く修正が入る。


「浮くな」


「肩を上げるな」


「カーブの後の直線で崩すな」


褒めはしない。でも、指摘は全部はっきりしていた。


終わり際、先生が紙を1枚渡してきた。


「自分でやるメニューだ。加速、カーブ、フォーム確認、補強。日ごとに分けてある。タイム測定は毎日するな。食う量も減らすな。短距離は押す力がいる。タンパク質を摂って、寝ろ」


「わかりました。本当にありがとうございます」


俺は頭を下げた。


「礼はタイムで言え」


先生はそれだけ言って、校舎のほうへ歩いていった。



その夜、川沿いへ行った。先生にもらったメニューは、スマホのメモに写してある。それを見ながら、順番にこなした。


この日は短いダッシュと流しが中心だった。30mの加速を4本。60mの流しを3本。そのあと、もも上げとスキップ、体幹。坂道ダッシュは、川沿いの土手を使って2本だけ入れた。


本数は少ない。でも、かなりきつかった。体が重い。腿も張る。


それでも走り終えると、体幹のあたりに熱が残っていた。先生が言った「地面を後ろに押す感覚」が、坂を上るときに少しだけわかった。


家に戻って、シャワーを浴びながらパネルを確認する。


━━━━━━━━━━━━━━━━━

【STATUS COMMIT】


運動神経 53 → 54

━━━━━━━━━━━━━━━━━


コミットが来た。


自分1人で、ただ200mを繰り返していた2日間は何も動かなかった。先生にフォームを直されて、正しい負荷で走り始めた途端、数字が動いた。


このシステムは、ただ苦しんだ量じゃなく、正しい方向の積み上げに反応していた。



田村先生に教わり始めてから、毎朝7時30分にグラウンドへ行った。昼休みも、できる日は短いメニューをこなす。放課後は川沿いで、先生に出された内容だけを反復した。


30mの加速。60mの流し。カーブ走。坂道ダッシュ。補強。


やることは地味だった。でも、自己流で200mを何本も走っていたときとは違った。走るたびに、体の使い方が少しずつ変わっていく。


最初の200mは27秒0。数日後には25秒台に入った。


田村先生はストップウォッチを見て、少しだけ頷いた。


「フォームが入ってきたな」


それだけだった。でも、先生が変化を認めたのは初めてだった。


━━━━━━━━━━━━━━━━━

【STATUS COMMIT】


運動神経 54 → 55

━━━━━━━━━━━━━━━━━


数字は1だけ動いた。でも、その1が今は大きかった。


その後も、走りを直した。余計なことはしない。言われたことだけを、何度も繰り返す。


━━━━━━━━━━━━━━━━━

【STATUS COMMIT】


筋力   57 → 58

運動神経 55 → 56

━━━━━━━━━━━━━━━━━


9日目の朝、タイムは25秒3まで縮まった。


田村先生が、ストップウォッチを見たまま言った。


「速いな」


先生は続けた。


「フォームを直しても最初の数日はタイムが落ちることすらある。慣れない動き方に体が抵抗するからだ。お前はそれがない。むしろ初日から縮まり続けてる」


「普通とは違うんでしょうか」


「2つある」


先生は言った。


「1つは、フォームの修正が異常に早い。俺が言ったことを、ほとんど翌日には体に落としてくる。これだけ習得が早い生徒は、長年教えてきてほとんど見たことがない。もう1つは、筋肉のつき方だ」


「筋肉のつき方ですか?」


「走りに使う筋肉が、見る間に強くなってる。今日のほうが、明らかに脚の動きに力が乗っている。通常、筋肉がトレーニングに適応するには数週間かかる。それが10日足らずでここまで出るのは、正直、驚く水準だ」


俺は少し黙った。夏休みに40日かけて作った土台があるのは間違いない。でも、先生が言っているのはそれだけじゃない。


言われたことが体に入る。それに合わせて、必要なところが少しずつ伸びていく。ステータスコミットや、システムの初期サポートのことが頭に浮かんだ。


システムが成長を後押ししているなら、先生が驚くのも当然かもしれなかった。


「まあ、続けろ」


「はい」


「ここから先はごまかしが利かなくなる。縮めるなら、1本1本の質を落とすな」


先生はそれ以上言わず、次のメニューを指示した。



アンカー候補を決める前日の昼休み。田村先生がストップウォッチを止めて、しばらく黙った。


「最初が27秒0で、今日が24秒8か」


「はい」


「2秒以上縮めた。普通じゃない」


俺は息を整えながら、先生を見た。


「先生のおかげです。明日は絶対に勝って、その報告を先生へのお礼にします」


先生は小さく鼻で息を吐いた。


「ああ。お前は14日前とは別の走り方ができる。それだけは間違いない」


それから、いつもの口調で続けた。


「明日の朝練はなしだ。今日も、もう走らず疲労を抜け。前日に欲張るな」


「はい」


俺は頭を下げた。



翌日。種目別練習の日が来た。


━━━━━━━━━━━━━━━━━

【MISSION】


難易度:極


体育祭当日まで:14日

種目別練習まで:0日(今日)

━━━━━━━━━━━━━━━━━


今日、走る。


黒川と。同じ条件で。同じグラウンドで。クラス全員が見ている前で。


午後のグラウンドには、少し風があった。各クラスがそれぞれの場所に集まり、種目ごとに散っていく。


D組の集合場所に行くと、すでに何人かが俺と黒川を見比べていた。


「いや、でもさすがに黒川じゃね?」


「天野も最近すごいけど、走りなら黒川だろ」


「普通に黒川がアンカーでいいと思うけど」


悪意というほどではなかった。たぶん、自然な反応だった。


1学期の黒川を知っている。運動なら何でもできる黒川を知っている。逆に、1学期の俺が運動で失敗してばかりだったことも知っている。


だから、みんな黒川が勝つと思っている。


それが当たり前だった。


田中が黒川の横で、軽く笑った。


「まあ、普通に走れば黒川だろ。天野も頑張ったとは思うけどさ」


黒川は何も言わなかった。ただ、当然みたいな顔で軽く足首を回していた。


でも今日あらためて見ると、黒川の体は16日前より少し締まっていた。目立つほどじゃない。でも、わかる。


あいつも練習をやってきた。


俺に負けないために、ちゃんと仕上げてきた。


確実に運動神経ではまだ負けている。


俺の運動神経はまだ56。黒川は推定65くらい。


それでも、俺はこの16日間、黒川に勝つためだけに走った。先生から専門のトレーニングを受けた。システムの成長補助もある。練習の質では俺のほうが圧倒的に上なはずだ。


その差で、どこまで届くか。


坂本先生が前に立つ。


「では、アンカー候補の2人に200mを走ってもらいます。隣り合うレーンで同時にスタートし、タイムと着順の両方で判断します」


俺が内側。黒川が外側。


横目で黒川を見る。黒川も俺を見た。何も言わない。ただ、目は真剣だった。


「用意」


前傾する。


重心を前に置く。


「スタート」

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