第10話 体育祭②
その日の放課後、川沿いに出た。まず200mを測った。
スマホのストップウォッチで、1人で走る。結果は27秒1。フォームを意識しながら何本か走って、その日の最後は27秒0だった。
翌日も走った。昨日意識したことを頭に置いたまま、また測る。27秒0。縮まっていなかった。
この2日、パネルには何も出なかった。ステータスコミットもない。数字は動かなかった。
◇
2日目の夜、部屋で天井を見ていた。
何かが根本的に足りない。毎朝のランニングは続けてきた。でも、「速く走る」ことは距離を積むのとは別だった。
動画で「200m 速くなる方法」「短距離 フォーム改善」と検索して、いくつも見た。言っていることが微妙に違う。どれが自分に合うのか判断できない。真似してみても、何を直しているのか曖昧なまま走っているだけだった。
このペースじゃ、黒川に届かない。
リビングへ行くと、母さんがいた。俺はソファに座って、少し黙った。母さんは俺の様子に気づいたのか、声をかけてきた。
「どうしたの?」
「……ちょっと詰まってる」
「何が?」
俺は、この2日間のことを話した。体育祭のアンカーを走りたいこと。クラスを勝たせたいこと。でも、何を直せばいいのかわからないこと。
母さんは最後まで口を挟まなかった。話し終わると、少しだけ考えてから言った。
「私にはそういうのはわからないけど……先生に聞いてみたら?」
「先生?」
「学校に陸上の先生、いないの?」
そこで少し止まった。
いる。3年の担任の田村先生が、陸上部の顧問だ。現役の頃は短距離の選手だったと聞いたことがある。走りのことなら、たぶん学校で一番詳しい。
でも、放課後は部活で忙しいはずだ。頼むなら朝か昼休みになる。しかも、学校で走りを見てもらうってことは、グラウンドで練習することになる。
クラスのやつらに見られながら教わるのは、正直気が進まなかった。
けれど、できることがあるなら全部やる。夏休みで学んだのは、それだった。
◇
翌朝、始業前に職員室へ行った。田村先生は机で書類を見ていた。50代くらいの大柄な先生だ。
「田村先生、少しいいですか」
先生が顔を上げた。
「1年D組の天野です。体育祭のクラス対抗リレーでアンカーを走りたいです。走り方を教えてもらえませんか」
先生は少し俺を見て、それからまた書類に目を落とした。
「俺は陸上部の顧問だ。他のクラスの生徒を個別に見る義務はない」
「……はい。すみません」
言い返せなかった。先生の言っていることは正しい。
でも、ここで引いたら終わる。
「でも、お願いします。朝の始業前だけでもいいです。昼休みの少しだけでもいいです。あとは全部、自分でやります」
「部活の生徒でもないやつに時間を割く筋も、暇もない。顧問は部員のためにいる」
「はい」
一度、喉が詰まった。
やはりダメか……。
それでも、続けた。
「でも、自分だけだとうまくできなくて……あと14日しかないんです。このままでは間に合いません」
それで先生が顔を上げた。今度は、さっきより長く見た。
「14日って何だ。体育祭はまだ先だろ」
「14日後のクラス内選考で、アンカーが決まります」
「……だとしても、俺も暇じゃない」
「始業前の少しだけでも、昼休みの10分でもいいです。残りは全部、自分でやります。言われたことは毎日やります」
先生はまた黙った。書類に目を戻しかける。それを見て、もう一度口を開いた。俺にできるのは必死に言うことだけだった。
「絶対に負けたくない相手がいます」
言ってから、少しだけ声が硬くなった。
「そいつがアンカー候補になっていて、直接走りで勝てる場面が来ます。こんな機会、たぶんもう二度と来ません。だから頼みに来ました」
先生の視線が俺に向いた。
「……お前と相手のタイムは」
「俺は昨日の200mのベストが27秒0です。相手の200mはわかりません。ただ、50mは6秒5だったと聞いています」
先生が少し考える顔になる。
「それなら、かなり厳しい。50m6秒5なら、200mも25秒台の可能性が十分ある。2秒差は簡単には埋まらん」
「それでも教えてください」
すぐに言った。
「何もしないで諦めたくなくて……先生に教わるのが、一番近いと思ってます。だから、お願いします」
先生はしばらく俺を見ていた。今度は書類に視線を戻さなかった。
「……明日から、朝7時30分に来い。20分しか取れん。昼休みも10分が限度だ」
息を吐いた。
「ありがとうございます」
「礼はいい。ただし、来るだけで速くなると思うな。俺が見てない時間のほうが長い。その時間に何をするかで決まる。公園でも川沿いでもできるメニューを出す。毎日やれ。できないなら来なくていい」
「やります。毎日やります」
「もう1つ」
「なんでしょうか」
「見込みがなければ、すぐ切る」
「わかりました」
「明日来い」
それだけ言って、先生は書類に目を戻した。俺は頭を下げて、職員室を出た。
廊下に出ると、朝の静かな空気があった。
断られると思っていた。実際、最初は断られた。でも引かなかった。
それだけでも、前の俺とは全然違っていた。
◇
翌朝7時30分、グラウンドに行くと、田村先生はもう来ていた。
「まず1本、走ってみろ」
言われた通りに200mを走る。先生は腕を組んだまま見ていた。走り終えた直後、すぐに口を開く。
「お前の走りは、長距離の延長だ。200mはそれじゃ駄目だ」
先生は俺のフォームを見て、短く指摘した。腰が落ちている。腕が横にぶれる。上体を起こすのが早い。前半で力みすぎて、後半に残らない。
「まずは地面を後ろに押す感覚を覚えろ。毎日全力で200mを走るな。崩れたフォームを覚えるだけだ」
それから先生は、30mの加速、60mの流し、カーブ走を少しずつ走らせた。走るたびに、短く修正が入る。
「浮くな」
「肩を上げるな」
「カーブの後の直線で崩すな」
褒めはしない。でも、指摘は全部はっきりしていた。
終わり際、先生が紙を1枚渡してきた。
「自分でやるメニューだ。加速、カーブ、フォーム確認、補強。日ごとに分けてある。タイム測定は毎日するな。食う量も減らすな。短距離は押す力がいる。タンパク質を摂って、寝ろ」
「わかりました。本当にありがとうございます」
俺は頭を下げた。
「礼はタイムで言え」
先生はそれだけ言って、校舎のほうへ歩いていった。
◇
その夜、川沿いへ行った。先生にもらったメニューは、スマホのメモに写してある。それを見ながら、順番にこなした。
この日は短いダッシュと流しが中心だった。30mの加速を4本。60mの流しを3本。そのあと、もも上げとスキップ、体幹。坂道ダッシュは、川沿いの土手を使って2本だけ入れた。
本数は少ない。でも、かなりきつかった。体が重い。腿も張る。
それでも走り終えると、体幹のあたりに熱が残っていた。先生が言った「地面を後ろに押す感覚」が、坂を上るときに少しだけわかった。
家に戻って、シャワーを浴びながらパネルを確認する。
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【STATUS COMMIT】
運動神経 53 → 54
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コミットが来た。
自分1人で、ただ200mを繰り返していた2日間は何も動かなかった。先生にフォームを直されて、正しい負荷で走り始めた途端、数字が動いた。
このシステムは、ただ苦しんだ量じゃなく、正しい方向の積み上げに反応していた。
◇
田村先生に教わり始めてから、毎朝7時30分にグラウンドへ行った。昼休みも、できる日は短いメニューをこなす。放課後は川沿いで、先生に出された内容だけを反復した。
30mの加速。60mの流し。カーブ走。坂道ダッシュ。補強。
やることは地味だった。でも、自己流で200mを何本も走っていたときとは違った。走るたびに、体の使い方が少しずつ変わっていく。
最初の200mは27秒0。数日後には25秒台に入った。
田村先生はストップウォッチを見て、少しだけ頷いた。
「フォームが入ってきたな」
それだけだった。でも、先生が変化を認めたのは初めてだった。
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【STATUS COMMIT】
運動神経 54 → 55
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数字は1だけ動いた。でも、その1が今は大きかった。
その後も、走りを直した。余計なことはしない。言われたことだけを、何度も繰り返す。
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【STATUS COMMIT】
筋力 57 → 58
運動神経 55 → 56
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9日目の朝、タイムは25秒3まで縮まった。
田村先生が、ストップウォッチを見たまま言った。
「速いな」
先生は続けた。
「フォームを直しても最初の数日はタイムが落ちることすらある。慣れない動き方に体が抵抗するからだ。お前はそれがない。むしろ初日から縮まり続けてる」
「普通とは違うんでしょうか」
「2つある」
先生は言った。
「1つは、フォームの修正が異常に早い。俺が言ったことを、ほとんど翌日には体に落としてくる。これだけ習得が早い生徒は、長年教えてきてほとんど見たことがない。もう1つは、筋肉のつき方だ」
「筋肉のつき方ですか?」
「走りに使う筋肉が、見る間に強くなってる。今日のほうが、明らかに脚の動きに力が乗っている。通常、筋肉がトレーニングに適応するには数週間かかる。それが10日足らずでここまで出るのは、正直、驚く水準だ」
俺は少し黙った。夏休みに40日かけて作った土台があるのは間違いない。でも、先生が言っているのはそれだけじゃない。
言われたことが体に入る。それに合わせて、必要なところが少しずつ伸びていく。ステータスコミットや、システムの初期サポートのことが頭に浮かんだ。
システムが成長を後押ししているなら、先生が驚くのも当然かもしれなかった。
「まあ、続けろ」
「はい」
「ここから先はごまかしが利かなくなる。縮めるなら、1本1本の質を落とすな」
先生はそれ以上言わず、次のメニューを指示した。
◇
アンカー候補を決める前日の昼休み。田村先生がストップウォッチを止めて、しばらく黙った。
「最初が27秒0で、今日が24秒8か」
「はい」
「2秒以上縮めた。普通じゃない」
俺は息を整えながら、先生を見た。
「先生のおかげです。明日は絶対に勝って、その報告を先生へのお礼にします」
先生は小さく鼻で息を吐いた。
「ああ。お前は14日前とは別の走り方ができる。それだけは間違いない」
それから、いつもの口調で続けた。
「明日の朝練はなしだ。今日も、もう走らず疲労を抜け。前日に欲張るな」
「はい」
俺は頭を下げた。
◇
翌日。種目別練習の日が来た。
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【MISSION】
難易度:極
体育祭当日まで:14日
種目別練習まで:0日(今日)
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今日、走る。
黒川と。同じ条件で。同じグラウンドで。クラス全員が見ている前で。
午後のグラウンドには、少し風があった。各クラスがそれぞれの場所に集まり、種目ごとに散っていく。
D組の集合場所に行くと、すでに何人かが俺と黒川を見比べていた。
「いや、でもさすがに黒川じゃね?」
「天野も最近すごいけど、走りなら黒川だろ」
「普通に黒川がアンカーでいいと思うけど」
悪意というほどではなかった。たぶん、自然な反応だった。
1学期の黒川を知っている。運動なら何でもできる黒川を知っている。逆に、1学期の俺が運動で失敗してばかりだったことも知っている。
だから、みんな黒川が勝つと思っている。
それが当たり前だった。
田中が黒川の横で、軽く笑った。
「まあ、普通に走れば黒川だろ。天野も頑張ったとは思うけどさ」
黒川は何も言わなかった。ただ、当然みたいな顔で軽く足首を回していた。
でも今日あらためて見ると、黒川の体は16日前より少し締まっていた。目立つほどじゃない。でも、わかる。
あいつも練習をやってきた。
俺に負けないために、ちゃんと仕上げてきた。
確実に運動神経ではまだ負けている。
俺の運動神経はまだ56。黒川は推定65くらい。
それでも、俺はこの16日間、黒川に勝つためだけに走った。先生から専門のトレーニングを受けた。システムの成長補助もある。練習の質では俺のほうが圧倒的に上なはずだ。
その差で、どこまで届くか。
坂本先生が前に立つ。
「では、アンカー候補の2人に200mを走ってもらいます。隣り合うレーンで同時にスタートし、タイムと着順の両方で判断します」
俺が内側。黒川が外側。
横目で黒川を見る。黒川も俺を見た。何も言わない。ただ、目は真剣だった。
「用意」
前傾する。
重心を前に置く。
「スタート」




