9. 『知ってしまっては戻れない』
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放課後の空気はどこか重たかった。
純也は学校の門を出る際、疲れからか肩を落としていた。
昨夜の徹夜が体に残っている。目の奥が乾き、足取りもどこか重い。
授業を受けるどころではなく、ほぼ全ての授業で寝こけていた。西園寺麗華はと言うと、昨日の宣言通り学校を休んでいた。担任は流行り病で一週間ほど休むと連絡していたが、彼女が病気に負けるような人間ではないことは、純也は理解していた。
「あの女、自分だけ休みやがって……許せねぇ」
ぶつぶつと呟きながら、いつもの道を歩く。これだけ疲れていたとしても、純也に休みはない。今日も今日とてバイトに勤しむ。
途中で最寄りのスーパーに寄り、弟妹の分の食材を買い足してからバイト先のカフェへ向かった。
店の名前は『クロノス』。駅から少し離れた住宅街にひっそりと佇む、小さな店だ。両親を亡くしてからは様々なバイトを掛け持ちしてきたが、初めて純也が働き始めたのもこの店だった。
ドアを開けると、低いジャズが静かに流れていた。木の温もりが残る内装、薄くかかった照明、珈琲の香り。客は数人だけ。夕方のこの時間は、いつもどこか落ち着いている。
「あ、純くん。お疲れ様〜」
カウンターの奥から、軽い声が飛んできた。銀色の髪をきれいにまとめ、整った顔立ちに少し意地悪そうな笑みを浮かべている。年齢は純也とほぼ同じか、少し上。店長の桐雨美琴が、そこに立っていた。
店を継いでからというもの、彼女はほとんど休みなく働いている。しかし、その雰囲気はどこか柔らかい。その笑顔一つで訪れる客を皆、自然と安心させるものがあった。
「わぁ、いつにも増して酷い隈。夜更かしでもした?」
「まぁそんなところです」
「珍しいね。何してたの?」
美琴はグラスを拭きながら、純也をじろじろ見てくる。その視線は軽いのに、どこか細やかに彼の様子を拾っているようだった。純也はカウンター裏に荷物を置き、エプロンを取りながら苦笑する。
「……色々あって、VRゲームを」
予想外の返答に、美琴の手が止まった。
「え、マジ⁉︎ あの純くんが⁉︎」
「あのって何ですか」
「え、金稼ぎ効率厨」
「引っ叩きますよ」
「いや待って、今日イチびっくりなんだけど。スカした感じで急に最先端のVRゲームとか……何があったの?」
「……クリアすれば、報酬金が100億って話で」
「100億って……あれか! 『マジシャンズ・ラグナロク』」
「それです」
美琴は目を丸くしてから、ふっと笑った。
「そっか……そっかぁ! 純くんにも人並みの趣味ができたんだぁ。よかったねぇ」
「趣味って訳じゃないっすよ。金目当てです」
「恥ずかしがんなよー。思春期か? 思春期だな?」
軽口を叩きつつも、美琴の声の端には確かな喜びが混じっていた。
その後数時間、普通にシフトをこなす二人。客の相手をし、コーヒーを入れ、皿を下げる。店内は穏やかで、会話の声も低い。美琴は時折純也の方をちらりと見ることがあったが、特に何も言わずに作業を続けた。その視線の端にほんのわずかな、言葉にしない何かが宿っている気がした。
閉店時間が近づいた頃、美琴がふと口を開いた。
「今日はもう上がっていいよ。お客さんも落ち着いてきたし、後は私一人で片付けるから」
「え、いいんですか。でも一人じゃ大変でしょう」
「いいって。弟ちゃんと妹ちゃん、待ってるでしょ? 純くん親代わりなんだから、ちゃんと顔見せてあげな」
美琴は軽く肩をすくめ、純也を促すように手を振った。その仕草はいつものように軽いのに、どこか丁寧に彼を気遣っていた。
「ほら帰った帰った! 後、趣味なのは良いけどゲームもほどほどにね」
「だから趣味じゃないっすよ。……ありがとうございます」
「うん。気をつけてね」
銀髪の店長に見送られ、純也は店を出た。
美琴の言葉はいつも軽いが、時に刺さる。上下を強く意識させないのに、ちゃんと弟妹のことを気にかけてくれる。それが、純也は妙にありがたかった。
「それにしても、あの純くんが『Mラグ』始めたかぁ。……いつか、会ったりするかな?」
扉が閉じた後、美琴の小さなつぶやきが店内へ響いた。
──アパートに着いたのは、夜になってすぐだった。
ドアを開けると、元気な足音が近づいてくる。
「にぃに、おかえり〜! 」
先に飛びついてきたのは、弟の舜だった。小学生特有の活気に満ちた顔。
後ろから、中学生の妹・瀬奈が落ち着いた様子で続いてくる。瀬奈はすでにしっかり者で、鍵をかけ直すのも慣れたものだ。
「おかえり。店長さんに帰してもらったの?」
「ああ。ただいま、二人とも」
純也は二人の頭を順に撫でると、すぐにキッチンへ向かった。買ってきた食材を広げ、手早く包丁を握る。レトルトやコンビニに頼る日もないわけではないが、毎日何か一品は作るようにしている。
「今日は肉じゃがにするわ。瀬奈、テーブル拭いてくれ。舜は食器出してな」
「うん! わかった!」
「……お兄ちゃん、大丈夫? 目の下、いつもより黒いよ」
瀬奈の静かな指摘に、純也は苦笑した。
「大丈夫。ちょっと夜更かししただけだ」
「夜更かしは体に悪いって、前にも言ったじゃん」
「すまんすまん。もうしないから」
純也の手は慣れたものだった。野菜を切り、肉を炒め、煮込む。
湯気が立ち上り、アパートの狭いキッチンには徐々に、鰹の温かい匂いが広がっていく。
やがて食卓が整った。三人分の皿が並び、舜が嬉しそうに手を合わせる。
「いただきます!」
「いただきます」
純也も箸を取り、普通に食べた。舜はじゃがいものかけらを頬張るなり「おいしい! やっぱり兄ちゃんのが一番!」と何度も繰り返す。瀬奈も「うん、美味しい」と短く頷いている。
ごく普通の、ささやかな夕食。親のいない三人でこうして食卓を囲む時間。純也の一番好きな時間だ。
舜が学校の話を始めた。今日の体育で転んだこと、友達との些細な出来事を、身振り手振りで話す。
「でさ、俺が走ってたら転んでさ! でもすぐ起きてみんな笑ってた!」
「えぇ、怪我はしなかった?」
瀬奈は静かに聞きながら、時折「それは危ないよ」と落ち着いた声で注意を挟む。純也は相槌を打ち、時々笑い、普通の兄としてそこにいる。
なのに——。
純也は、ふと箸を止めた。
胸の奥が、どこか満たされない。温かいご飯、弟妹の笑顔、日常の幸せ。それが確かなものとしてここにある。
だが、頭には昨夜の出来事が残っていた。
モンスターとの戦いのあの感覚、あの熱。100億円という数字も、西園寺麗華のことも、どこか遠い夢のように頭をよぎる。
この食卓は確かに大切だ。守りたいものだ。舜の明るい声も、瀬奈の落ち着いた視線も、全部、自分の生きる理由だ。
だが同時に——あの非現実の熱が、体のどこかで疼いている。ゲームの中で感じた、ただ生きるだけではない高揚。誰かと並んで立ち、本気でぶつかり合う感覚。
(……満足してない、とでも言うのか)
純也は黙って食べ続けた。舜が何か喋っている。瀬奈が返事をしている。普通の、幸せな食卓。
なのに自分だけが、少しだけ離れている気がした。守りたいものを守りながらも、どこかで『もっと』を求めてしまう自分に、純也は静かに戸惑っていた。
食事が終わり、舜が風呂に入り、瀬奈が宿題を始めているのを確認してから、純也は自分の部屋へ向かった。
薄いカーテンを閉め、ベッドに座る。疲れが、一気に押し寄せてくる。だが、目を閉じても、昨夜の光景が浮かぶ。
(ちょっとだけ、なら)
弟妹の寝息が聞こえるようになるまで待つつもりだった。だが、指はすでにVR機器のスイッチにかかっている。
画面が点灯し、ログイン画面が浮かび上がる。
純也——いや、ヤブキは、静かに息を吐いた。
現実の食卓で感じたあの微かな不足感。それを埋めるように。あるいは、ただ確かめるように。




