10.『満たされる心、充足する学徒』
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彼──黒道直人の家の食卓は、いつも静かだった。
白いテーブルクロスの上に、母親が作った夕食が並んでいる。焼き魚、野菜の煮物、味噌汁。湯気が細い筋を描いて立ち上り、部屋に穏やかな匂いを満たしていた。窓の外はすでに薄暗く、街灯の光がカーテンの隙間からわずかに差し込んでいる。
目の前の母親はその年齢を感じさせないほど若く、整った顔立ちをしていた。夫と離婚し、一人で直人を育てているとは思えないほどの余裕があった。
長い髪をゆるくまとめ、エプロン姿でもどこか上品で、母親というより姉に近い印象さえある。
直人は箸を手に取りながら、チラチラと何度も時計に視線を向けていた。
「わくわくが抑えきれないって感じね。直人」
母親が優しく微笑み、煮物の皿を差し出す。直人は一瞬だけ動きを止め、それから早口でご飯を掻き込んだ。魚をほぐし、野菜を口に運び、味噌汁を一気に飲む。噛む回数を最小限に抑え、ただ胃に送り込むような食べ方だった。
「母さん、今日は早めに上がるね」
「あら、やけにやる気じゃない。何かいいことでもあったの?」
直人は箸を置き、椅子を後ろに引いた。立ち上がる動作が少し急ぎ足で、テーブルの端に膝が当たる。母親が首を傾げる。
「……友達が、できたんだ。ゲームでだけど」
短く、しかし確かな声だった。
母親の目が大きく見開かれる。直人が友人の話をするのは、本当に久しぶりだった。学校でも、ゲームの中でも、誰かと深く関わる様子を見せたことがない。だからこそ、その言葉の重みが、食卓に静かに落ちた。
「友達?」
母親は箸を置いたまま、直人の顔を見つめた。驚きの色が濃く、すぐに優しい笑みに変わる。目元が柔らかく緩み、声のトーンが少し高くなった。
「そう……よかったじゃない」
直人は「行ってくる」とだけ言い残し、自分の部屋へ足を向けた。廊下を早足で抜け、扉を閉めてから、深く息を吐く。
ヤブキという名の、ぶっきらぼうでどこか欠けたところのある青年。その存在が、今も頭の中で大きく脈打っている。
(……また、会えるかな?)
連絡先も交換していなかったので、再び会う約束は特にしていない。それでも、きっとまた会えるだろう。
直人——クロードは、すぐにVR機器に手を伸ばした。
「……あー、そういや宿屋で寝たんだっけか。昨日は」
ヤブキがログインし、目を覚ましたのは、木造の宿屋の一室だった。
壁に掛かった簡素なランタンが、オレンジ色の光を落としている。窓の外から、夜の街の喧騒が遠くに聞こえる。体を起こすと、脇腹の傷はもうなかった。リスポーンの仕様で、HPも全回復している。
ふと、ヤブキはメニューを開いた。
ーーーーーーーーーーーー
【★ステータス★】
【PN】ヤブキ
【LV】 26
【職業】傭兵
【HP】体力値 100
【MP】魔力値 10
【STR】筋力値 45
【STM】スタミナ値 30
【VIT】耐久値 55
【AGI】敏捷性 30
【LUC】幸運値 4
・所持スキルポイント 残り60
【★装備★】
【右手】なし
【左手】なし
【頭装備】なし
【胴装備】傭兵の胸当て
【腰装備】傭兵の腰布
【足装備】傭兵の靴
【アクセサリー】なし
【★所持金★】1020ゴル
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所持金の欄が、昨夜の戦いの報酬でしっかりと増えている。レベルも上がっていた。ステータスの数値が、確かに成長を示している。
「そういや、スキルポイントなんてあったな。忘れてたわ」
ログアウトする前に宿屋へ向かっている際、クロードから教わったものだ。
このゲームでは、レベルアップすることで自身のステータスを上げることができるが、そのほかに『スキルポイント』なるものが存在する。
レベルアップ時に一定数獲得できるそれは、自身のステータスを好きなように高めることができる。1ポイントにつき、1つの数値を1つ。
せっかくなので、スキルポイントの割り振りをしてみようと思ったヤブキ。
「てか幸運値4って、舐めてんのか。悪意があるよな」
このゲームにおける幸運値とは、ドロップ率や錬金成功率など、ゲーム内の確率を向上させるものらしい。直接戦闘に役立つものではない為、プレイヤーの間での優先度は低い。
『幸運値 4→64』
「……見たか、この野郎」
満足げに画面を閉じ、ヤブキは小さく息を吐いた。
──現実で感じた、あの食卓の微かな不足感。弟妹の笑顔と温かい肉じゃがの匂いの向こうに、まだ残っていた熱。それが、この世界に入った瞬間から、じわりと蘇ってくる。
現実よりも体が軽い。疲れを感じにくいせいで、動きが滑らかだ。
拳を握れば、指の一本一本までが正確に反応する。昨夜、人鬼将軍に食らいついたときの、あの高鳴りが、胸の奥で小さく脈を打った。
(さて、行きますか)
ヤブキはベットから立ち上がった。
木製の扉を開け、狭い廊下を歩く。足元の板が軋む音が、静かに響く。階段を一段ずつ降りると、宿屋の一階に出た。受付のNPCが無言で頭を下げ、ヤブキはそれに一礼して外へ出る。
夜の石畳が、靴底に冷たく触れた。街灯の魔法光が、路面に淡い円を描いている。
通りを抜けると冒険者ギルドの大きな建物が正面に見えた。二階の窓から明かりが漏れ、扉の向こうから低い話し声が聞こえる。
「昨日も思ったが、こんな時間に楽しくゲームできるやつはどんな身体してんだ?」
カウンターの向こうで受付のNPCが淡々と仕事をしており、冒険者たちが数人、テーブルで酒を酌み交わしていた。そして——奥のテーブルに、一人で座っていた少年が、こちらを見て目を見開いた。
黒髪を短く整え、整った顔立ちはどこか中性的で、性別を意識させない柔らかさがある。背中に日本刀を差した、クロードだった。
「あー! 会えた! 思ったよりも早く!」
声が上ずる。クロードは即座に立ち上がり、テーブルを回り込みながら近づいてきた。肩が触れ合いそうな距離まで寄る。
「よっ! 昨日ぶり!」
「お前、なんでここに?」
「ログインしてたらここに来ると思ってたから、適当に依頼しながら待ってたんだよ。会えてよかった!」
「なんでそんなピンピンしてんだよテメーは。こちとら死にかけだ馬鹿野郎」
「いっつもオールしてるからかな? ヤブキは疲れてそうだね」
クロードは少し照れたように笑い、隣の席を指差す。ヤブキが腰を下ろすと、クロードもすぐ隣に座る。テーブルを挟まず、肘が触れそうな近さだった。
座るや否や、クロードは何やらメニューを操作していた。そのすぐ後、パネルに表示された一つの文字列をヤブキへ見せる。
「んだよそれ」
「ゲーム内のフレンド申請! これがあるとオンラインかどうか一目でわかるし、メッセージも送れる。いつでも連絡取れるようになるんだ。便利だしやっとこうよ」
その瞬間、ヤブキのパネルに表示された『YES or NO』の文字。
「ほーん、そりゃ便利だな。やっとくか」
納得し、すぐに承諾を押した。
その瞬間クロードの顔が、ぱっと明るくなる。すぐに抑え込むように表情を戻したが、目の奥に隠しきれない喜びが残っていた。表には出さないが、胸の奥で何かが温かく膨らんでいる。
「これでよし! てか、今日は何しにログインしたの?」
「え? あー……」
不足感を確かめる為。そう言おうともしたが、寸前で言葉が詰まる。
「特に考えてねぇな。ただ、疲れてるから今日は一時間ちょいやったら寝るぞ」
「分かった。じゃあ、ちょっと付き合ってくれない? 俺も昨日結構レベル上がってて、使える『スキル』増えたから試したいし」
「……スキル?」
「え。……もしかして初耳?」
「しっかり初耳だな」
「マジで⁉︎ あー……とりあえず、メニュー開いてみてよ」
言われるがままにメニューを開く。先ほど開いたステータス画面が、再び視界に浮かぶ。
装備欄の僅か下に位置するスキル欄に、見覚えのないいくつかの名前が並んでいる。
『俊敏動作』『ファストスマッシュ』『三段突き』『拘束強化』『ノーマルパリィ』——他にもいくつか、見たことのない名前が光っていた。
「なんじゃこりゃ」
「それがスキルだよ。説明するより実際にやった方が絶対いいから、とりあえず行こーか」
「NPCチュートリアルの弊害だ……」
月明かりに照らされた広い平原が、目の前に広がっている。草が風に揺れ、遠くに森の黒い影。ここなら、試すのにもってこいの弱いモンスターが徘徊しているはずだと、クロードに連れてこられたヤブキ。
クロードが刀の柄に手をかけ、フランクに言った。
「スキルはね、体に染み込んだ『型』みたいなもんだよ。発動すれば動きが補正されるし、威力も上がるね」
スキルを使用する際、主に消費するのはスタミナだ。『体を動かす力を削る』といった感覚の為、使いすぎると次第に筋肉が鉛のようにに重くなる。スキルにはそれぞれ再使用可能時間が存在し、続けて使用することはできない。
「あと、スキルは基本的に詠唱がいらないんだ。発動の意思を固めた瞬間に、体には変化が起こる。例えば──」
草むらの向こうで、最初の影が動いた。その生物に顔はない。
水色で、半透明の体をくねらせる。
頭上に表示される名前は──スライム。
「ちょうどいいや。ちょっと見ててね」
クロードは刀を抜き、ふと息を吐く。身体の前で構え、瞳を閉じ、集中する。
──『居合・周断』。
その瞬間、クロードの刀身から飛び出たのは、透明な飛ぶ斬撃。その刃はスライムの身体を見事に捉え、真っ二つに切り裂く。
半個体の柔らかい身体が、赤い粒子となって空に消えた。
「ふぅ。こんな感じかな」
「……なるほど」
理屈は理解した。この技術があれば、昨日のような格上のモンスターとも十分に渡り合えるだろう。
すると草むらから、さらに数体のスライムが現れた。その動きは鈍重で、新しいことを試すのにはもってこいの的。
「いっちょ、やってみっか」
ヤブキが始めに試したのは『俊敏動作』。
(んーと……こうか?)
意思を固めた瞬間、腿の奥から熱が走り、体が一気に軽くなった。筋肉の一つひとつが滑らかに連動し、足元の草の感触までが過剰なほど鮮明になる。スライムが飛びかかってくる軌道が、ゆっくりと引き延ばされたように見えた。避けて、横から蹴りを入れる。スタミナがわずかに削られる感覚が残る。
「すごいすごい! できてるよ!」
次に『ファストスマッシュ』。
短い助走の後、再び発動の意思を固める。その瞬間、背中から両脚にかけて一気に力が湧き上がる。体が前方へ弾かれるように加速し、風が頬を強く打った。視界が狭まり、スライムの核だけがはっきりと浮かぶ。直撃した衝撃が掌に深く沈み、スライムが光の粒子となって消える。スタミナの消費は先ほどの倍近くあり、息が少し荒くなった。
「悪くない……けど、ちょっと疲れるなこれ」
次に現れた小鬼族に、『拘束強化』を試す。
腕と脚の関節に、じわりと熱が集まる。指先から肘、肩にかけて力が明確に増した感覚がある。その感覚に身を任せ、小鬼の腕を掴み、そのまま捻じ上げる。骨が軋む感触が、掌の中で生々しく伝わった。
「普通のプレイヤーならあんまり使い道なさそうだけど……ヤブキなら強化感覚で使えるんじゃない?」
「一々使おうと思わなきゃいけないのが難点だけどな──、っと!」
会話の途中に襲ってきた小鬼族の爪を『ノーマルパリィ』で受け流す。
発動の瞬間、腕の内側に薄い膜が張られたような感触がした。衝撃が骨に響くが、スキルの補正でダメージが大幅に軽減され、体が弾かれない。すぐに次の動作へ移れる。スタミナの消費は少ないが、しばらく腕に違和感が残るのが難点か。
最後に『三段突き』。
このスキルには予備動作がほとんどない。拳を構えたまま、意思を固めるだけだ。肩から拳にかけて、三段階の力が連続して走る。一発目で間合いを詰め、二発目で体勢を崩し、三発目で核を抉る。発動から着弾までの時間が短く、相手に反応する隙を与えない。普通に殴るのとでは、一撃の密度が違う。
「んぉ、これいいな」
他のスキルも悪くないが、この『三段突き』は特に気に入った。予備動作が少ない分、不意打ちに近い感覚で出せる。
獰猛狼、一角兎、突進猪——次々と現れるモンスターを相手に、スキルを織り交ぜながら戦う。クロードも刀を振るい、時折サポートに入る。二人の息は、自然と合っていた。
「スキルはレベルを上げるだけじゃなくて、戦闘中に特定の動きを繰り返したり、条件を満たすと新しく手に入ることもあるんだ。それこそ『拘束強化』とかは、他のプレイヤーは持ってないんじゃないかな」
クロードが息を整えながら言う。黒髪が風に揺れ、中性的な横顔が月明かりに淡く照らされている。
ヤブキは拳を開き、自分の手を見つめた。スキルの感触が、まだ指先に残っている。スタミナを削る、体の内側から来る疲れ。魔法を使ったときの、頭の奥が熱を持つ感覚とは、明らかに違った。
「ますます戦闘の幅が広がるな、こりゃ」
短く呟くと、クロードが隣で小さく笑った。
「でしょ? これが、このゲームの奥深さってやつよ」
平原に、再び静寂が戻る。草が風に揺れ、遠くで夜鳥の声がした。
クロードが森の方を指差す。
「俺はまだ試したいしこのまま森まで行くけど、ヤブキはどうする?」
「あー……」
ヤブキは空を見上げた。時間は一時間など優に過ぎている。現実では既に弟妹が寝静まっているはずだ。
それでも胸の奥の熱が、まだ収まらない。
「よし。俺も行くかな」
「そうこなくっちゃ! 早速行こ!」
ヤブキは短く答え、森の入り口へ足を向けた。その胸にあるのは、確かな熱と充足感。
『スキル』と『魔法』はまた異なります。




