27.『新天地、悪巧み』
♢
『強欲な天使亭』を後にした夜道から、数刻。
『ネクスリム』へと続く正規の街道を避けてクロードが案内した道は、地図にもほとんど載っていない裏道だった。
森を抜け、崖沿いの細い獣道を進む。
やがて視界が開けた瞬間──二人の前に、巨大な石造りの橋が姿を現した。
『ガーディアン・ロード』。ネクスリムの街へ渡るための、唯一の大橋。
石畳は青みがかった灰色で、表面には複雑な文様がびっしりと刻まれている。渦を巻くような幾何学模様と、獣の爪痕を思わせる曲線が交互に絡み合い、月明かりを浴びて鈍く光っていた。
橋の長さは数百メートルはあるだろう。対岸の闇の向こうに、街の街灯がぼんやりと揺れていた。
周囲に人の気配は、ほとんどない。
「……誰もいないな。もう初心者エリアじゃないのか?」
ヤブキが呟く。
「当たり前だよ。山越えルートの方が安全だから、あえてここに来る初心者は少ないんだ」
クロードは橋の入口で足を止め、少し驚いたように橋全体を見渡した。
「あそこにはもう何回も行ってるけど……この橋を通るのは初めてだな。普通は西側の峠を抜けて山道を下りるルートを使うからね」
「わざわざこっちを選んだ理由は?」
「時間の短縮、ってのもあるけど……」
クロードは少しだけ視線を逸らし、インベントリから小さなガラス瓶を取り出した。中には薄く青白く光る液体が入っている。
「ここにいるエリアボスを倒すと結構いい素材が手に入るらしくて……試してみたかったんだよね」
そう話すクロードだったが、視線は別に向けている。
本当の目的は別にあった。
それを薄々察しつつも、その背中を静かに見据えるヤブキ。
「ラジー」
自身の胸へ、優しく呼びかける。
胸元から小さな白い影が顔を出す。琥珀色の瞳がきょろきょろと辺りを見回す。
「にゃ?」
「ヤブキ、ちょっとだけ預かっててくれる?」
クロードはラジーをそっと両手で包み、ヤブキの方へ差し出した。
「一人でやる気か?」
「うん。その代わり、ちゃんと見てて欲しいんだ」
その瞳から感じられる、確かな決意。
ヤブキはそれ以上聞かなかった。
「わかった。頑張れよ」
「……ありがとう」
ラジーは少し不満げに「ふにゃあ……」と鳴いたが、結局ヤブキの肩に移ると、すぐに小さな体を丸めてじっとしている。
「ここにいろよ。変なことしたらその髭がなくなると思え」
「にゃふん。おみゃあには無理だにゃ」
「…………ふぅ」
クロードは一度だけ深呼吸をする。そして、インベントリから一つの小瓶を取り出した。
その中には少量の、淡く光る液体。
『試練ノ守雫』。
橋の中央近くまで歩を進めた。石畳に取り出した液体を静かに撒く。青白い雫が文様に染み込み、刻印の線が内側から淡く輝き始めた。
次の瞬間──。
地面が低く、重く鳴った。
石畳が波打つように隆起し、巨大な石の塊がゆっくりと立ち上がる。高さは五メートルを超え、両腕は太い柱のように太く、胸元には古びた魔導紋が浮かんでいる。目に当たる部分には、触媒と同じ青白い光が二つ、静かに灯っていた。
『エンチャントゴーレム』。推奨レベルは50。パーティ推奨人数、6人。
橋そのものが生み出した守護の具現。
ヤブキは肩に乗ったラジーを庇うように一歩下がった。だがクロードは、もう振り返らなかった。
鞘から刀を抜く音が夜の橋に小さく響く。
月明かりを反射した刃が銀色に光った。
クロードは静かに両手で刀を構える。
「さぁ、ゲームの時間だ」
その手はもう、震えてなどいなかった。
♢
──場所は変わり、『ネクスリム』。
盆地の中央に聳え立つ巨大な建造物。その、一室。
豪華で煌びやかな内装に反し、そこにいる者たちの顔は暗い。その空間には、煙と酒の匂いが重く沈んでいた。
長いテーブルを囲み四つの影が座っている。そして一つの空席。誰もあえて触れないまま、そこだけが不自然な空白を作っていた。
部屋の中央にかけられた大きな旗に刻まれているのは、林檎を貪り食う黄金の髑髏のエンブレム。
そしてそこに鎮座する四人の装いはこのファンタジーの世界に全くそぐわない、黒いスーツ。多少の違いはあれど、これに統一されていた。襟元は固く、生地は現実の仕立てを思わせるほど精密で、薄暗い魔導灯の光を鈍く反射している。異質な衣装がかえってこの場の緊張を際立たせていた。
「それで、三人とも少しは考えてくれたかしら。この前のアレ」
沈黙を割ったのは、真紅に染まる髪が特徴的な一人の女。テーブルに肘をつき、五指に指輪の付けた指先でゆっくりと木目をなぞる。仕草は穏やかだったが、その瞳に笑みはなかった。
頭上に赤く表示される名前は──レイン。
「またか。……何度聞いても意見は変わらねぇよ」
続いたのはそのすぐ隣──特徴的な眼帯をした男だった。指の間では一本の煙草をゆっくりと回転させ、赤い火先が暗がりの中で静かに明滅する。煙は天井へ向かう途中で揺れ、消える。
そして目の前の机に置かれる、夥しいほどの吸い殻。
「反対」
低く、乾いた声。余分な感情を削ぎ落とした言い方だった。
「何故?」
「計画が不透明すぎんだよ。欲しがり娘の癇癪に、俺らを振り回すんじゃねぇ」
「…………」
女は微笑もせず、ただ男を見つめる。
互いの視線が交差した瞬間、部屋の空気がさらに重くなる。
「第一他の問題が山積みだ。あのクソ共のせいで、PK自体の数が減ってる。まずそういう目の前の課題から──」
「もしかして、ビビってるの?」
「……あ?」
吐き捨てるように、レインはそう口にした。
男は煙草を唇に運び、深く吸い込んだ。煙を細く吐き出しながら、短く返す。
「そういうお前は焦ってるように見えるがな。クソ女」
「焦ってるんじゃない。私は貴方よりも先を見ているだけ」
多少の感情こそあれど、二人は決して声を荒げない。
しばしの沈黙の最中。
「…………うま」
その隣にいる幼い少女は、二人の会話に一切関心を示さなかった。琥珀に近い酒をゆっくりと舌に転がして喉を潤す。グラスの縁に唇をつけたまま、ただ酒を飲み続けている。酒の香りが烟草の煙と混じり、部屋の空気をさらに重くしていた。
「全く、アナタ達ったら」
そして四人目。その男の瞳は黄金に輝くその髪で丸ごと隠されていた。
スーツの上からでも分かる、筋骨隆々としたその肉体。そしてその低い声色に似合わない、独特な口調。
「喧嘩なんかしてたら折角のディナーが台無しよ♡」
「貴方の意見が聞きたいわ、マスター。どう思う?」
「おい」
「……そうね」
マスター。
そう呼ばれた男のスーツの上着は脱がれ、肩から腕にかけての筋肉が魔導灯の光を浴びて隆起している。
しばしの沈黙の後、呟く。
「賛成」
「あ? 元々アンタは反対派だっただろ」
「だって、あの時とは状況が違うでしょうよ?」
意見だけを淡々と述べ、それ以上は踏み込まない。
男は静かに続けた。
「アナタ達も知ってる筈よ。数日前のあの知らせ」
その一言で、空気がわずかに変わった。
男の指すあれとは、ワールドクエスト閉幕の表示。全プレイヤーに開示され、その存在やクリア者が白日の元に晒された。
「まさか私達よりも先んじてアレを倒すプレイヤーが出るなんて、5大クランも形無しよ」
「……確か、"ヤブキ"だったか?」
眼帯の男の煙草が指の間で止まった。火先が静止し、煙だけが細く上昇する。
「聞かねぇ名だな」
「だから初めて間もなくの初心者ちゃんってコトでしょ」
「ンな事、あり得るのか?」
彼らの反応を見て、レインは指を止めた。
「あり得ているからこの現状なのよ」
赤い髪が夜光を受けて微かに揺れる。
「彼は今、このゲーム内でどんなアイテムや情報よりも価値のある金の卵。どこのクランも今後接触に躍起になるでしょうね」
行動を起こすなら今。レインはそう明言した。
「やけにそいつに肩入れするんだな。知り合いか?」
「えぇ」
確信を突く問い。しかし決して動揺することはない。
それどころか彼女の口元には、微かな笑みが浮かぶ。
「パートナー兼飼い犬、ってところかしら」
「あら」
「……」
「ハッ。私情かよ」
声は低く、はっきりしていた。
「だったらそのヤブキだけでいいだろーが。なんでまたそんな、クソめんどくせぇ事を」
「単純よ」
テーブルの上に落ちた影が、彼女の顔を半分だけ闇に沈める。
彼女の飄々とした笑みは止まらない。話を進めるごとに、野心と悪意が満ちていく。
「他の優秀な駒も集められたら、一石二鳥じゃない?」
「はぁ……この我儘女が」
苦々しい顔を浮かべ、ゆっくりと灰を落とした。
灰が皿に落ちる音が、沈黙を割る。
「だとしても俺は反対だ。金もかかるし、何よりリスクが高いだろ」
「上等よ」
レインは短く吐き捨てるように言った。
「何も恐れないのが私たちの流儀。現状に決して満足せず、常に上を見て自身の進みたい道を突き進む。ここは、そういうクランなんじゃないの?」
淡々と告げるその言葉の端々には、確かな決意があった。
金髪の男が、低く笑う。
「ま、その通りネ」
その笑みに温度は少なく、ただ事実を認めるような響き。
「自由にするといいわ。二人もちゃぁんと協力してあげてネ♡」
「…………うぃ」
それまで無関心を貫いていた幼女は、酒瓶から口を外し短く答える。
その頭上では、短い文字列が赤く光っていた。
「あ? アンタはやらねぇのかよ」
「アタシはホラ♡ 忙しいし、そんな柄じゃないもの」
「はぁ?」
軽い返答に思わず苦々しい顔を浮かべる。
こちらの頭上の文字列も無論、赤く染まっていた。
「資金は私が全て出すわ。だから二人も協力、よろしく頼むわね」
「……もう、どうにでもなれ」
「うん。その意気よ」
レインは視線を外さずに空いた席の方へ、わずかに顔を向ける。
そこには誰もいない。だが、五人目の存在を想定しているかのような間が、部屋に長く残った。
「私がこのゲームを──世界で一番熱い場所にしてあげる」
そう言い切った後、酒と烟草の残り香が、張り詰めた空気をゆっくりと満たしていく。
部屋の中央では林檎を貪る髑髏の旗が、怪しく笑っているような気さえした。
「ウン……楽しくなりそうネ♡」
隠された金髪の男の瞳が、愉快そうに歪む。
対するレインの瞳の奥には遥か先——強者が蠢く世界のさらに向こうを見据えるような、底の見えない野望が沈んでいた。
この会合から一ヶ月後。『マジシャンズ・ラグナロク』の世界に再び、転機が訪れる。




