21.『俺の未来』
♢
「…………」
戦いが終わり、二人の間に長い沈黙が落ちる。
ひび割れた床石の隙間から漂う古い塵さえも動かない。天井の高い暗闇は、光を拒むように重く垂れ下がっていた。
ヤブキは息を殺して立ち尽くし、正面に項垂れる影を見つめていた。
男はただそこに在るだけで空間の重心を歪め、周囲の光を吸い込むように暗い。俯いたまま、膝をついたまま動かない。
やがて低く、厳かな声が空間に響いた。
「其方は、理想を叶える為に戦うか」
言葉はゆっくりと、一つ一つ意味を確かめるように紡がれる。壁に反響し、天井の高い暗闇の奥まで染み渡っていく。
(戦いは終わった。だとしたら、これは会話イベントってやつか?)
男の影がわずかに揺れた。まるで、遠い記憶の底を手探りで辿っているかのように。
「……数千年前。今や遠すぎる、過去の記憶」
影の奥から滲み出す気配はただの敵意ではない。長い孤独と終わらない後悔が、濃密に混じり合っている。
ヤブキは喉の奥で唾を飲み込み、その声の重みを全身で受け止めた。
「大きな理想を掲げ、我らは世界を統べるべく、破壊の限りを尽くした。……その過程で出来た、小さな夢」
影の輪郭が、微かに震える。その声の奥には、長い年月をかけて堆積した何かが沈んでいた。ヤブキは黙って聞いた。相手の過去など現在は知る由もない。ただ、目の前の存在が、気の遠くなるような歳月をかけて凍てついた絶望を抱えていることだけは、肌で理解できた。その絶望の質量は、キョウイチロウの狂気とも、モロクの食欲とも、まったく質が違っていた。
「同胞を捨て、理想を捨てて私は夢に生きた。自身の全てを燃やし、その果てに何が残ったか──」
冷たく、静かに、そして圧倒的に重い。床に落ちた自分の影さえ、その重みに押し潰されそうになる。
「──灰だ。守りたかったものまで、私は燃やしてしまった」
声の端々から滲み出す、拭い切れぬ後悔。
それらは玉座の間の空気をさらに重くし、ヤブキの肺を圧迫するようだった。息を吸うたびに、胸の奥が軋む。 影は動かない。ただ、その沈黙の中に虚無が詰まっていることがわかった。
「其方の理想は何を照らす火か。世界を焼くための炎か。それとも、すでに失われた何かを虚しく追い求めるだけの、空洞の灯火か」
ヤブキは、その言葉を黙って受け止めていた。胸の奥で、熱が静かに脈打つ。
すべてを手に入れ、生きたいように生きる。その熱の赴くままに、何もかもを奪い取る。もう、自分の人生を誰かの都合で諦めることはしない。
彼は真正面から仮面の男を見据え、端的に告げた。視線は揺らがず、声は低い。
「全部、欲しいんだ」
短く、強い声だった。迷いはなかった。靴音が、ひび割れた床に小さく響く。一歩、前に出る。影との距離が、わずかだが確実に縮まる。床のひび割れが、足元で微かに軋んだ。
「金も家族も、俺自身の生きる理由も、全部欲しい。だからこうして今お前の前にいる」
もう一歩。影との距離がさらに縮まる。
そして膝を突く男の前に座り、その顔を下から見上げる。
「強欲……。最も深い罪、なれば──」
「うるせぇ、知るか」
ヤブキの瞳には、揺るぎない熱が宿っていた。
「誰に何と言われようと俺は俺の心に従う。もう何も諦めたくない」
その『熱』はただの欲望ではなかった。放棄していたものを取り戻し、これ以上何も手放さないという、執拗なまでの意志。
「だからさ。お前に何があったかとかはカケラも知らねーけど──」
影の奥で、何かが微かに揺れた。
「お前の怒りも絶望も後悔も全部───全部、俺が奪ってやる」
ゴルギアスはその後、長い間動かなかった。その言葉が、数千年の空洞に静かに落ちる。
「そうすりゃお前も、少しは変われるだろ?」
優しく、暖かな笑顔。戦闘中のそれとはまるで違う。
男の影がわずかに揺れた。
仮面の奥で、何かがひび割れるような音。遠い氷河が崩れるような、微かな響き。空間全体が、一瞬だけ息を止めたように感じられた。
──貴方の悪い気持ちは全部、今日から私のもの。約束よ、ゴルギアス。
刹那。
ゴルギアスの脳内に反射的に流れる、誰かの声。蘇る、数千年前の確かな記憶。
「……あぁ」
仮面の奥の瞳から溢れるのは── 一筋の涙。
そしてもう一筋。止まらないように静かに、しかし確かに、涙が流れ落ちていく。
長い年月、凍てついていた感情が溶かされるように、溢れ出す。
そして、かすれた声が静かに落ちた。
──私の空洞の数千年は、其方に会う為だった、のか。
影が光を帯び、揺れ始める。
「人の子よ。名を、何という?」
「……ヤブキだ」
「そうか…………いい名だ」
ゴルギアスは、わずかに心に生まれた熱に従うように、静かに手を伸ばした。愛おしむように、噛み締めるようにヤブキの頭に手を乗せ、優しく撫でる。
「いきなり何すんだよ、テメェ」
その動作は、もはや敵としてではなく、何かを託す者のそれだった。指先から伝わる感触は、驚くほど柔らかく、生の残滓を宿していた。
最初こそ抵抗したヤブキだったが、次第に目を細め、その手の感触を確かめるように頭を預けた。
「私は……『憤怒』のゴルギアス。七大罪の一翼にして、空洞の罪人」
そうして仮面を外したゴルギアスの顔には、深い悲しみと、わずかな希望が浮かんでいた。影の奥に隠されていた素顔は予想以上に人間らしく、そして疲れていた。
(ゴルギアス……何のことかと思ってたが、こいつの名前だったのか)
ヤブキは、その名を胸に刻む。名前の響きが、奇妙なほど胸の奥に残った。
「もはや私は消えゆく存在と思っていたが……ふと、何かを遺してみたいと思えた。他ならぬ其方のおかげだ」
「……お前」
ゴルギアスは、静かに手を差し出す。光の粒子がゆっくりと掌から溢れ始める。その光は暖かく、しかしどこか悲しげだった。
(何だ、これ……)
「ヤブキよ。全てを教えたいが、もはや一刻の猶予もない。数千年の時を経て、私の存在はじきに消える」
「! それって、」
粒子は空気中を漂い、ヤブキの前で静かに渦を巻く。
「ただ、これだけは伝えなくてはならない」
その瞳は、もはや虚ろではなかった。わずかに宿った熱がヤブキを真っ直ぐに見据えている。視線の先には、ただの託し物ではなく、長い孤独の果てに見つけたわずかな希望が宿っていた。
「我が忌まわしき同胞──六つの大罪。私が死ぬことで、その全てがお前達人類にとって、大きな災厄として降りかかるだろう」
声が静かに、しかし確かに続く。玉座の間の空気が、その言葉の重みでさらに張り詰める。
「覚えておけ。奴らを滅ぼさぬ限り、終末戦争に終わりはない」
六つの大罪、終末戦争。そう告げる。ヤブキの脳裏に、得体の知れない危機感が走った。
(何の話だかわからねーけど……重要だってのは俺でもわかる)
数々の重要な情報。得た情報を頭の中で整理し、必死に食らいつく。言葉の一つ一つが、ただの戯言ではないことを肌で感じていた。
「信じて、受け取ってくれはしないだろうか? この思いを」
ヤブキは迷わず、その光を受け止めた。
「お前が何を成し遂げるか。楽しみにしているぞ」
迷いなど、最初からなかった。
掌を差し出し、光の渦の中心へ手を伸ばす。
「あぁ、約束する。俺がお前を──俺の未来へ連れてってやる」
その時、ゴルギアスは笑った。自身を取り巻く全ての負の感情が、その一瞬だけは消えたのだ。
「……ありがとう。友よ」
次の瞬間、二人の粒子が混ざり合いはじめた。
光が激しく渦を巻く。ヤブキの左肩から、熱い何かが一気に流れ込んできた。最初は針で刺すような鋭い衝撃。それがすぐに、溶けた金属を流し込まれたような、重く熱い感触に変わる。骨の髄まで震える振動が走り、失われていた空間に、新しい肉が急速に盛り上がっていくのがわかる。神経が火花のように走り、指先まで電流が落ちる。皮膚が内側から押し広げられ、熱を帯びた表面が空気に触れた瞬間、生々しい生の感触が押し寄せた。
筋肉が蠢き、骨が軋み、失われていた左腕が、確かに『再生』していく。
「! ……すげぇ」
失われていた半身が、確かに『生きて』いる。熱は腕だけに留まらず、胸の奥深くへ沈み、ゴルギアスの怒りも、絶望も後悔も悲しみも、すべてが一つの『熱』となって、彼の中に収まった。
(友、か)
ゴルギアスの影は徐々に薄れ、光の粒子となってヤブキの中へと還っていった。胸に手を当てれば、鼓動が二つになったような感覚が。
残された空間にはただ静かな余韻だけが漂っている。ひび割れた床に落ちる光の粒子が、少しずつゆっくりと消えていく。玉座の間は、再び深い沈黙に包まれた。
新たに生えた左腕を静かに握りしめる。その掌に残る、まだ消え残る温もりを感じながら、静かに目を閉じた。そして身体には、左腕を支点とした独特な紋様が刻まれた。
温もりは徐々に薄れゆくが、胸の奥に沈んだ熱は確かにそこに在った。
「……見ててくれよ。ゴルギアス」
地面へと残ったのは、付けていた赤黒い仮面のみ。
──憤怒の終結により、時代は変わる。
果ての無い怒りは思いを託し、後悔の念は光となって消え去った。
遺された未来への希望を胸に、少年は戦いに身を投じる。
そして世界は──人は、過去を辿るのだ。
【ワールドクエスト第一節『憤怒ナル起源』終幕】




