2. 『悪魔の提案、選択権はなく』
♢
「……ふぅ」
想定外のことはあったものの、無事出勤に間に合った純也。自身の鞄からエプロンを取り出し、そそくさと着ける。
(転校初日に絡まれるとは、あの子も災難だな)
その最中、頭に浮かぶのはやはり西園寺麗華のこと。お礼を言われたかった訳ではないが、彼女の曖昧な反応や表情に、純也はどこか引っかかっていた。
(まぁ、怖かっただけだろ)
知人の縁故で紹介してもらったこのカフェだが、居心地はとても良い。それほど広くなく、昔ながらの木造建築。少し秘密基地のようで落ち着くと、一部の客からも確かな人気がある。
普段は歳の近い店長と二人で働くことがほとんどだが、数日間店を開けると事前に知らされていた。
純也はエプロンを締め、準備を終える。
──ちょうどその時だった。
入り口のドアの鈴がチリン、と鳴る。
立っていたのは、大きなフレームの眼鏡をかけた女性。
「いらっしゃいませ。空いてる席へお座りくださ──」
それでもいつもと変わらず対応しようと、お決まりの挨拶をしかけたその時。
ふと顔を見やると、そこには。
「ホットコーヒーを一つ。それと……少しお時間よろしいですか?」
つい数分前、助けたばかりの麗華だった。変わらず顔は俯き気味だったが、その瞳だけは確かにこちらを静かに見つめている。
(……まぁ、他にお客もいないしいいか)
「かしこまりました。こちらへどうぞ」
純也は内心動揺しつつも、席へ案内する。
慣れた手つきでコーヒーを挽き、数分と経たずに差し出した。
「お待たせいたしました。どうぞ」
「ありがとうございます。それと、先ほどの件に対してもお礼がしたくて…」
「あー……いや、大丈夫だ。大したことしてないしな」
「いえ。危ないところを助けていただいて、お礼をしないとこちらの気が済みません」
その声は普通よりも少しだけ明瞭だった。
(思えば、詰め寄られている時もやけに冷静だったというか、どこか肝が座ってたな)
思ったより意思が固い。純也はそう思った。
しかし、今日は一人で店を回さなければならない。
「気持ちは嬉しいんだけど、これからの時間はお客も増えるからな。また後日──」
「今日はもう来ませんよ。私以外」
あまりに自然に放たれた言葉。しかし、その場の空気を変えるのには十分だった。
「……は?」
理解に苦しむ純也だったが、すぐに彼女の発言の意図を思い知ることになる。
「あれ。見てください」
ふと、麗華が玄関の窓を目掛け指を指す。視線をやるとそこには、黒いスーツを身に纏った数人の男達が玄関前のドアをその大きな身体で塞いでいた。
「……何やってんだ。あれ」
「流石ね。こんな状況でも冷静なんて」
次の瞬間、彼女は静かに右手を上げ、自分の頭に触れた。長い黒髪をその細い指でそっと掴むと、そのままゆっくりと持ち上げる。
黒い長髪は外れ、真っ赤な髪がまるで炎のようにこぼれ落ちる。肩にかかるほどの、鮮やかな赤。店の照明の下で、その色は不自然なほど鮮烈だった。
続けて、彼女は眼鏡を外した。
大きな眼鏡がテーブルに置かれると、切れ長の瞳が露わになる。
「これでお話聞いてもらえるかしら? 店員さん♡」
人を見下したような笑い。高圧的で迫力のある声。
そこには、先ほどまでの地味で目立たない転校生の姿など、どこにもなかった。
「とりあえず、自分の分のコーヒーでも持ってきなさい。私の話は短くないわ」
「…………チッ」
純也はそれに従い、歩き出しながら麗華へと問う。
「何が目的だ、変装までして転校してきて。つーか、お前誰だよ」
「理解が早くて助かるわね。貴方頭いいでしょ」
先ほど挽いたコーヒーの残りをカップへと注ぎ、麗華の目の前へと静かに座る。
「目的……ね。確かにそこから話した方が分かりやすいかしら」
麗華はカップの縁を指でなぞり、そのまま一口飲む。所作一つ一つに趣があり、ただものではないことを示していた。
「『マジシャンズ・ラグナロク』。どんな人間でも、一度は聞いたことがあるでしょう?」
「‼︎」
その瞬間、純也の頭にハンマーで叩かれたかのような衝撃が走った。忘れもしない、先日ニュースを見たあの時から、それは純也の頭の片隅に常にある。
クリアすれば100億円。夢のような話と諦めつつも、心のどこかで希望を捨てきれなかった。
そんな考えが今、鮮明に呼び戻される。
「確か最近、クリア賞金で100億かけたとか。全く、我が父ながら、考えることは低俗ね」
「我が父って、お前まさか」
「そのまさかよ」
『マジシャンズ・ラグナロク』。現実世界に比肩するほどの広大な世界に加え、ファンタジー世界をこの上ないクオリティで再現することにより、VRMMOの歴史を変えることになった神ゲー。
その制作・運営会社のトップに君臨する一人の若手社長『西園寺統矢』。彼の頭には、もう一つの世界が丸々入っているとまで言われる天才。
「私はその一人娘、西園寺麗華。って言っても、もう何年もあの人とは会っていないけどね」
「……ここへ来た目的は?」
「優秀な人材集め兼、反抗期ってところかしら」
「はぁ?」
あっけらんと答える麗華。
「私もクリアしたいの。あのゲームをね」
「なんで娘のお前が?」
「……知りたい?」
その瞬間、麗華の瞳が怪しく光る。
目の前にいる純也は一瞬みじろぐが、視線を決して外さない。
「いらないのよ。私より上の人間なんて」
──西園寺統矢を潰したい。笑顔で口にするその言葉には、隠しきれない闇を孕んでいた。
「あの人が人生を賭けて作り出したあのゲームを、あの人の計画を、完膚なきまでに壊す。そうすることで、私はあの人を越えられる」
その為には駒がいる。自身の目的に同調し、自身の全てを賭けるに値する駒が。
父の元を離れ、転校を繰り返すようになったのもその目的の為である。
「この学校に来たのは偶然よ。正体を隠してたのも楽に学校生活を送る為。でもよかったわ、そのおかげで──貴方に会えたんだから♡」
麗華は、わずかに唇の端を上げた。だが、その微笑みはすぐに消えた。
視線が彼の目を捉えて離さない。
「山吹純也。数年前に家族が突然の事故死。妹と弟の三人、貧しくも慎ましく暮らす。複数のバイトで無理やり食い繋ぎ、毎日がギリギリの生活……それでも、家族がいれば乗り越えられる。あまつさえ、今の生活で自分は幸せだ、って?」
「随分と頑張って調べたもんだな。その通りだ」
嘲笑まじりの麗華の言葉に、冷静に返答する。多少の苛立ちはあるものの、話のペースを飲まれぬよう一つ一つの言葉に注意して喋る。
「私は欲しい物のためなら何だってする。そして今欲しいものは……貴方なのよ」
十数名を何の準備もなく無傷で制圧する格闘センス。何より、その金への執着に麗華は惹かれていた。
それは『マジシャンズ・ラグナロク』をクリアする上で、麗華が足りないものだと自覚していたものだった。
この男となら、勝ち目のない博打にだって喜んで挑めるだろう。麗華の頬はほのかに赤く染まり、声色も徐々に高くなる。
「クリア報酬は私と貴方の折半。人生を変える絶好の機会だと思うわ」
「…………」
「私の熱に、浮かされてみない?」
純也の心は揺れる。
夢のまた夢のような話だが、目の前の人間の熱意は疑う余地もなく本物だった。
100億。その言葉が頭の中で何度もよぎる。
──しかし。
「残念だが断る。お前の言った通り、俺にはそんな余裕はない」
純也は首を縦には振らなかった。不透明な挑戦、そして何よりも弟妹の存在が、純也の頭を強く縛る。
言葉にしながら、純也は胸の奥で何かがざわつくのを必死に押さえる。
「へぇ」
麗華は小さく頷いた。否定も同情もせず、ただ事実としてそれを受け入れる。
「でも貴方。……ここまでアキレス腱を晒した私を見て、不自然だとは思わなかった?」
純也の眉が僅かに動く。
麗華はスマートフォンをテーブルの上に置き、画面を純也に向けた。動画は再生されていなかったが、サムネイルは明らかに純也の後ろ姿と、地面に転がる人間の影が映っている。
麗華の脅迫の意図を、純也はすぐに理解した。
「……あのまま、お前も殴り倒せばよかったぜ」
「私もこんな手は不本意。でもその気になれば、貴方を今よりもっと下へ落とすことだってできる。元々貴方に選択権なんてないの」
一つ息を吐きながら、純也はコーヒーを口に含む。苦味が下に残る。喉の奥が少し乾いた。
バイト先に知られれば間違いなくクビだろう。学校に知られれば退学かもしれない。
それで済めばまだ御の字だ。数十分話しただけではあるが、目の前の女は常人の考えをしていない。純也はそれを深く理解している。断ればその報復は、自分の最大の弱点である弟妹にまで及ぶかもしれない。
──家族を守るために、ここで折れろ。
頭ではそう判断していた。
しかし、ヤブキの胸の奥でざわついていたものは消えていなかった。
「お前は絶対に地獄に落ちる。賭けてもいい」
「褒め言葉として受け取っておくわ。で、どうするの?」
麗華は純也を『利用する』為に近づいた。助けるためではなく、互いに利益のあるビジネスパートナーとして。感情ではなく、利害で動く関係となる為に。
「一生負け犬でいいのかって聞いてるの」
純也はどうしようもない苛立ちと、少しの興味に脳内を支配されていた。
「……今日会ったばかりだぞ」
「だからこそよ。感情が絡まない、いいパートナーになれるわ」
「ハッ。いい奴隷の間違いだろ」
完全に納得したわけではなかった。
家族を守るための選択なのか、それとも自分の中の何かが動いた結果なのか。
はっきりした答えはまだ出ない。
ただ少なくとも今は、麗華の提案を受け入れる以外に現実的な道は見当たらなかった。
弟妹の笑顔を守りたい。
──でもこのまま『幸せな貧困』に閉じ籠もって、本当にいいのだろうか。
二つの感情が、胸の中で静かにせめぎ合っていた。
「契約成立、ってことでいいかしら?」
「あぁ。ただし、俺の最優先はあくまで家族だ。その為のバイトも続けさせてもらう」
「いいわよ。それが今の貴方の生きがいなんだから」
麗華の目には勝ち誇った色はない。ただ、取引が成立したことを確認するような静けさがあるだけ。
席に座ったまま、カップを傾け最後の一口を飲む。
「でもね、断言してあげる」
──熱に浮かされる時、人は人でなくなる。その熱を支配するか、支配されるか。運命の分かれ道はその岐路にある。
言葉が、純也の胸へと深く刺さる。
「まぁ、詳しいことはまた後日。今日のところはもう帰るわ。バイト、頑張ってね」
「……あぁ」
麗華は返事を聞くなり、コーヒー代を置いて店を出た。
それに伴い、外で待機していた黒服の男達も麗華の後をついていく。扉が閉まる音が小さく響き、純也はようやく一息吐いた。
(正直、頭の中の整理に数日はかかりそうだ)
だが、それ以上に今日から始まる契約の感触。そして挑戦の実感が、静かに胸の奥に沈んでいくのだった。
バ先のコーヒーを勝手に飲んだ彼は、きちんと代金を置いて帰りました。




