1. 『幸せの貧困』
初連載です。
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明かりのない部屋に、一台のパソコンだけが白い光を放っていた。
壁際には資料の束が山積みになり、開きっぱなしの専門書や書き込みだらけのノートが床に散らばっている。空気は静まり返り、キーボードを叩く音すら聞こえない。
画面の中央に浮かぶのは、無機質な短い文字列。
『ワールドクリア 現時点達成率 0%』
椅子に浅く腰掛けた男が、画面をじっと見つめたまま低く呟いた。
「……未だ、動かずねぇ」
「正式リリースから五年か。俺だったらもう七回は攻略してるぜー、先生」
「君がやっちゃあ意味ないでしょ。この遊戯廃人め」
向かい側の椅子に座るもう一人の男も、同じ画面を見ていた。楽しげに話すが二人揃って表情は落ち着いている。声のトーンも一定だった。
「しかしこうもクリアされないものかね。一応ユーザー数は5000万人越えなんだろ?」
「そのほとんどが有象無象、気休めにもならない凡人ばかりだ」
画面を見つめていた男が静かに言った。炎のような髪が微かに揺れる。
「この世界は所詮ゲーム、とでも思ってるんだろうね。自分の全てを賭けるくらい本気にならなきゃ、何も得られないのに」
もう一人が、ゆっくりと視線を上げた。
「偉大な偉大な先生のことだ。何か考えはあんだろ」
「……人間の感情が最も動くとき。それは何を賭けて戦うときか、わかるかい?」
短い沈黙が落ちた。
「答えはね、金だよ」
だからスパイスを入れる、と彼は続けた。
「ほんの少しでいい。計画を立て直すための、スパイスをね」
「……楽しくなんなら、大歓迎♫」
画面の『0%』という数字が、二人の沈黙の中で、ただ静かに点滅していた。
──薄暗いアパートの六畳間に、古いブラウン管テレビの光だけがぼんやりと灯っていた。
その光を見つめる目には深い隈がこびりつき、肩まである髪は無造作にオールバック。頬から首にかけて大きな傷痕が刻まれている。
彼の名は山吹純也。高校二年生。
両親と兄を交通事故で亡くしてから数年。家族に残されたのは純也と中学生の妹、小学生の弟の三人だけだった。
住み慣れた家を離れて親戚のアパートに移り、最低限の支援を受けながらも、生活費は自分で稼ぐ。
放課後はカフェのバイト、休日は飲食店の洗い場、時にはチラシ配り。かけもちで三人分をなんとか賄っている。体はいつも重く、授業や仕事中に眠気が襲うことなんて珍しくない。
それでも純也は、朝起きて『今日も動ける』と思えるだけで、自分が生きている実感を得ていた。
冷蔵庫の中身はいつだって寂しく、冬の朝は布団から出るのが億劫だった。夏の夜はクーラーなしで汗をかきながら眠る。
そんな日々の中で、彼は静かに幸せを噛みしめていた。妹が「今日の晩ごはん、おいしかった」と笑う夜。弟が「お兄ちゃんの作ったカレー、また食べたい」と抱きついてくる朝。
その小さな言葉が、どれほど自分を救っているか。両親を失った後も、この家が家であり続けているのは、きっとあの笑顔のおかげだと、純也は常に思っていた。
金はない。余裕もない。
だが今の暮らしが、彼にとっての何よりもの幸せだった。
今日は休日。だが彼に休みはない。弟妹がまだ眠る中、純也はそそくさと支度をしていた。
ある時。
何気なくつけていたテレビのニュースが、穏やかな空気を乱す。
『世界的な人気を誇るフルダイブ型VRゲーム『マジシャンズ・ラグナロク』に、大規模なクリア報酬が正式発表。未だ誰も到達していない『ワールドクリア』を達成したプレイヤーには、賞金100億円に加え、希少アイテムの現実換金権、大手スポンサーからのプロゲーマー終身雇用契約が約束されています。世界中のプレイヤーがこの一攫千金の舞台に殺到しています』
画面の向こうで華やかなキャスターが報じていた。 純也は思わず支度の手を止め、テレビを見つめた。
──100億円。
兄妹が欲しいものも、食べたいものも、快適な暮らしも、何だって与えてやれる。想像もできない金額を目にし、ふとそんな考えが頭をよぎった。画面の数字から目が離せない。
だが冷静に考えれば、こんな甘い話に本気飛びつこうとした自分が、少し惨めにも思えた。
純也は息を吐き、テレビを消した。薄暗い部屋に自分の鼓動だけが残る。
(……そろそろバイトの時間だ)
僅かな未練を振り切るように鞄を手に取り、家を出た。
──翌日。
朝の光が古い校舎の窓を白く照らしていた。教室は騒がしいが、それを尻目に純也は毎日の疲労を少しでも和らげようと、隅の机に突っ伏していた。授業までの数十分が、彼の束の間の休息だった。
ホームルーム直前。ドアが開き、見慣れた担任が一人の女子生徒を連れて入ってきた。
「今日からこのクラスに転校してきた、西園寺麗華さんだ。みんな仲良くしてやってくれ」
「…こんにちは」
短い自己紹介の後、彼女は空いていた席──ちょうど純也の斜め前に座った。
長い黒髪を一つにまとめ、制服の着こなしもぎこちない。大きな眼鏡に隠れがちで、視線を伏せ、声に覇気がない。特に目を引くところのない、ごく平凡な少女。
クラスの空気は数秒ざわついただけですぐに元に戻った。誰も特別な興味を示さず、純也もちらりと視線を向けた後、再び机に顔を伏せた。
(まぁ、関わることもないだろ)
それ以上、深く考えることはなかった。
──時は過ぎ、放課後。
授業が終わり、生徒たちが校門へ流れていく。
純也は鞄を肩にかけ、急ぎ足で校舎を出た。今日のバイトまで時間に余裕はない。
裏道を抜け細い路地に差し掛かったとき、複数の声が聞こえた。
「いやだからさ、うちに来たならやる事あるのわかるでしょ?」
角を曲がると、十数名の高校生グループが一人の女子生徒を囲んでいた。他クラスの不良たちだ。
「俺たちお金ないんだよねー」
「安全な学校生活を送る為にも、ここは一つ。俺たちに恵んでよ」
女子は壁に追い詰められ、鞄を胸に抱きかかえている。先頭の男が小さな肩に手を伸ばし、無理やり顔を上げさせようとしていた。
思わず純也は足を止めかけたが、すぐに考え直した。困っているようだが、他に誰かが助けるだろう。なにより、バイトに遅れるわけにはいかない。
しかし──困っている人を助けない兄を見て、弟妹たちはどう思うだろうか。
ふとそんな考えが頭をよぎり、足が止まる。
「……クソが」
小さく舌打ちをして、純也は歩みを進めた。
「おい、離してやれよ。何してんだテメェら」
「は? 誰だよお前」
先頭の男が鼻で笑い、迷わず純也の頬を殴る。衝撃が走り、頭が小さく揺れる。だがそれ以上、純也は下がらなかった。
あの事故の痛みに比べれば、こんなもの。
「先に手ぇ出したのはお前だぞ」
純也の体が低く沈む。右足が弧を描くように振り上げられ、つまさきが正確に男のこめかみを捉えた。乾いた音とともに男は地面に沈む。
「な⁉︎ 何すんだテメェ!」
残りが一斉に襲いかかる。純也は後退せず、半歩前へ出た。
伸びてくる腕を外側へ払い、重心を奪い、膝を太ももへ叩き込む。別の男の顎を掌底で突き上げ、後頭部へ拳を落とす。低い蹴りで横隔膜を麻痺させ、膝裏を刈って転倒させる。動きに無駄はなく、すべてが最短距離で急所を捉えていた。
一分も経たないうちに、路地にはうめき声と倒れた体だけが残った。純也は荒い息を一つ吐き、拳の痛みと頬の熱を感じながらも、冷たく彼らを見下ろした。
「金くらい自分で稼げ。失せろ」
不良たちはよろめきながら立ち上がり、「覚えてろ」と捨て台詞を残して去っていった。
純也はその背中を見送り、ふと一人残された女子へと目をやる。壁に背中を預けたまま動かず、表情は読めない。恐怖も安堵もはっきりとは浮かんでいない。 ただ静かに純也を見ているだけだった。
「ん、アンタ……」
よく見ると、その顔には見覚えがあった。大きな眼鏡で顔はよく見えないが、今日助けた女子こそ、今日転校してきたクラスメイトの西園寺麗華だと知った。
「…………」
何か言うわけでもなく、彼女はその場に立ち尽くしていた。純也はわずかに眉を寄せたが、それ以上深くは考えなかった。
バイトの時間はもうギリギリだった。
「じゃーな。気をつけて帰れよ」
彼は踵を返し、夕暮れの風が吹き抜ける路地を走り出した。麗華がどのような目でその背中を見送ったのか、彼にはわからないままだった。
「…………欲しい」
静かで、それでいて確かな呟きが、裏路地の空間に響いた。




