19.『断罪ノ刻』
──何かがいる。
そう思わせる気配が、あの巨大な建造物からは漏れ出していた。
「行くしかないのは分かってるが……」
ヤブキは崖の淵に立ち尽くしたまま、しばらく動かなかった。切断した左腕の断面はすでに粒子に包まれ、デスペナルティの制限も消えていた。だが左腕は戻らない。空の袖が風に揺れるだけだ。
「……ま、こちとら何十回死んでると思ってんだって話だ」
曲刀を右手に握り直し、古びた石造りの橋を渡る。手すりは半ば崩れ、石畳には深い亀裂が走っている。一歩ごとに石が軋み、奈落へ落ちる破片の音だけが響く。橋の向こう、黒い蔦に覆われた城が静かに聳えていた。
大きな城門は錆びついて半開きのまま。肩で押すと重い金属音を立てて開く。
「お邪魔します」
足音に気を使いながら、城の内部へ足を踏み入れる。
灯りのない通路を進み、螺旋階段を上っていく。それまでには話を聞けそうなNPCはおろか、モンスターの一匹すら出なかった。順調に階段を登りつめ、最上階らしき部屋へと辿り着く。
「何も考えず一番上に来ちまったが……ボスと煙は高いところって言うだろ」
扉を開ける。
──目の前にしたのは、荒廃した玉座の間。
紫がかった瘴気が床を這い、ひび割れた石柱の間から冷たい風が吹き抜ける。天井の一部は崩れ落ち、遠い灰色の空が覗いていた。石柱が視界を遮り、壁が背後を塞ぎ、床の瓦礫が足元を奪う。
(誰か、いる?)
その玉座の前に、一つの影があった。すぐ側の玉座へ座るわけでもなく、ただ膝をつき、俯いている。どのような表情かは、赤黒く染まった仮面が邪魔をし分からなかった。
「おい。そこのお前」
──反応はない。
「……お前も、会話ができねー口か?」
沈黙だけが返る。微動だにしなかった。
痺れを切らしたヤブキが一歩近づいた、その瞬間だった。
【ワールドクエスト『憤怒ナル起源』進行を確認】
突如眼前に表示されたパネル。
その奥で、男の身体からは黒い瘴気が溢れ出す。床を這い、壁を登り、空間を侵食する。
【これより『断罪ノ刻』】
次の瞬間──無数の影が湧き出た。下級悪魔が二十を超え、矮小で鋭い爪と刃を武器とした影たちが、男の周囲を埋め尽くす。
「ああああああああああああああああああぁぁぁぁ…………」
(おいおい、嘘だろ?)
そしてその中心には──先ほど倒したはずの潜醜美食魔。
石床を割り、巨大な口がせり上がる。腕ほどある一本一本の歯、ぬめりを帯びた黒い舌が蠢く。体表は暗く鈍く、何も受け付けぬ外殻のよう。
ただ、常に開き続けている口の内側だけが生々しい。ヤブキに受けたダメージらしきものは、掠り傷すら残っていなかった。
「また会ったな、クソ野郎ども」
ステータスは戻っている。だが、依然として『スキル使用不可』の警告が薄く浮かぶ。
片腕のない今、手にある曲刀だけが頼りだった。
「何回でもやってやるよ。来いや」
言い終えた刹那、下級悪魔たちが殺到する。ヤブキは臆することなく大群へ飛び込んだ。
曲刀で一匹の腕を切り落とし、その爪を腕ごと奪う。奪った爪を別の個体の喉へ叩き込み、体を回転させて足元を払う。転倒した影に後ろから迫る牙が突き刺さる。短い断末魔とともに、黒い液体が飛び散った。
「勝手に殺し合え!」
だが、その数は圧倒的だった。同士討ちを誘う最中にも背後から飛びかかられ、背中を抉られる。鋭い感触が走り、バランスを崩す。群がる影に腹を裂かれ、太ももを噛まれる。血が飛び、視界が赤く滲む。
(クソ……戦いずれぇな)
こんな時、先ほどの荒野なら大きく下がれた。距離を取れた。しかし、ここは玉座の間。ある程度の広さはあるとはいえ、荒野ほどの余裕はない。
(だったら、この状況も利用してやる)
ヤブキは床を蹴って壁へ跳び、その壁を蹴り返して影の頭上へ着地し、曲刀を振り下ろす。瓦礫を踏み台にし、崩れた石段を滑り落ちながら懐へ滑り込む。閉じた空間だからこそ、上下左右を使い切ることで対応する。
「ああああああああああああああああああぁぁぁぁ……」
そのとき、それまで静止していたモロクが動いた。
巨大な口がゆっくりと開き、空間を歪ませる。ヤブキの体に急に重い引きがかかる。
(何だよ、これ)
足元が滑り、肺の中の空気まで引き抜かれるような感覚。これまでにはなかった力だ。ただ口を開いて飲み込むだけではなく、空間そのものを引き寄せ、内側から何かを奪い取る。
だが口の近くにいた下級悪魔たちは、ただ怯えて後ずさるだけだった。モロクの気配は、明らかにヤブキだけを捉えている。
(……これまでと違う。こいつ、まだ力を隠し持ってやがった!)
口が開くたび、空間が収縮し、動きが鈍くなる。体力がじわじわ削られていく。単なる傷ではない。内側から何かを奪われていく感覚。
「ひゃっ、ひゃっ……!」
しかし、ヤブキは止まらない。敵の軌道を読んでわざと間合いを詰め、悪魔同士をぶつける。モロクの吸引に乗じて悪魔の群れを石柱へ叩きつけ、壁に押し付ける。牙に阻まれて動きを止めた隙に、曲刀を薙ぎ払う。
しかしモロクはすぐに口を開き直す。強い引力がヤブキを狙い、体が浮きかける。
間髪入れず下級悪魔がその隙を突く。肩を噛まれ、腕を引っ掻かれ、視界が一瞬白くなる。
HPは既に、残り三割といったところだった。
「ハハハ、上等上等‼︎」
ヤブキはわざとモロクの正面に飛び込み、吸引の軌道に乗りながら寸前で体を捻る。
引力に引かれた群れが口の前へ引き寄せられ、牙に阻まれて折り重なる。その隙に残る影を曲刀で次々と斬り捨てる。
「こんだけテメーらにアドバンテージあんだ‼︎ 負けたら今度こそ俺の勝ちだかんな⁉︎」
だが口はまだ開いている。再び大きく口を開き、体力そのものを奪い取るような波動を放つ。胸の底が急に空虚になり、膝が震えそうになる。
(恐怖だ! 恐怖が俺をもっと熱くする!)
吸引に逆らいながら口の近くまで近づき、曲刀をモロクの歯の隙間に突き立てる。体重を乗せてねじり、歯の一本をへし折った。
モロクが大きく揺れ、涎が飛び散る。折れた牙を拾い、武器に変えて残党を振り払う。ヤブキは床を転がり、壁を蹴り、空中で体を回転させながら次の懐へ滑り込む。閉じた空間のすべてを足場に変える。
「さぁ‼︎ 本番はこっから──」
モロクへ再び襲いかかろうとした、その時。
どこからか、重厚な声が響く。
「……何故」
一言。それだけで、すべての影が動きを止めた。
下級悪魔たちは凍りつき、巨大な口さえもゆっくりと口を閉じて静止する。ただこの一瞬、男の声だけが玉座の間に響いた。
(あれだけ気性の荒い悪魔どもが、一瞬で静かに……)
ヤブキは息を荒げたまま、曲刀を構えて男を見据える。体の中に残る『熱』は、まだ消えていない。
「何故抗う。……人の子よ」
仮面の男は立ち上がり、こちらを静かに見据えていた。




