17.『恐怖を糧に熱くなる。貧者は欲を得る』
♢
『デスペナルティ・全ステータス減少』
「ハァ……ハァ……」
荒い息を無理やり飲み込み、ヤブキはゆっくりと前へ出た。消えた装備、使えないスキル、制限されたステータス。すべてが重い枷のように行動を縛る。それでも戦うしかなかった。
それに反応し下級悪魔達も湧き出した。関節の位置が狂った軌道。乾いた笑い声。見るだけで胃の奥がざわつく、得体の知れない嫌悪。
対するヤブキは、受動的な動きだった。
敵に踏み込みすぎない。不用意に手を出さない。影の刃が振るわれれば後ろへ下がり、爪が伸びれば体を捻って避け、隙が生まれるまでひたすらしのぐ。守るための動き。最小限の反撃で、生存を優先する戦い方。
『傭兵』のバランスの良さを活かす、最良の戦闘スタイル。
だが、それには限界があった。低下されたステータス、武器や防具のない現状では長くは続かない。
悪魔の一匹が視界の端から回り込み、背中に爪を立てる。鋭い感触が脊髄を駆け上がる。
バランスを崩した瞬間、別の影が喉元を掴む。笑い声が鼓膜を叩き、視界がぐらりと傾く。
「くっ……!」
腕に力が入らない。足がもつれる。
──次の瞬間、巨大な口が大地から出現した。
【エリアボス・潜醜美食魔】
上下の歯が胴体を捉え、ヤブキは自然な流れで飲み込まれた。
抵抗するが無情にも、上下から巨大な歯が迫る。次第に視界が赤く染まる。粒子となって散っていく感覚の中で、ヤブキは虚空を睨んだ。
「クッソ、がぁ……‼︎」
意識が落ちる。
──そして、また。
視界が切り替わる。
『デスペナルティ・全ステータス減少』
今度こそと拳を握り、一歩踏み出す。悪魔たちと対峙する。
受動的に避け、しのぎ、反撃の隙を窺う。
だがまたもや切り裂かれ、喉を掴まれ、刺され、最終的には巨大な口に飲み込まれる。
噛み砕かれて死ぬ。
再び生き返る。
噛み砕かれて死ぬ。
再び生き返る。
切り裂かれて死ぬ。
再び生き返る。
全身を刺されて死ぬ。
再び生き返る。
首を切り落とされて死ぬ。
再び生き返る。
噛み砕かれて死ぬ────。
「…………」
それが何度続いたか、いつまで続いたか分からない。
自分が遠いところへ散らばりまた戻ってくる、あの無機質な過程。指先の感覚が鈍い。口の中に、鉄錆の味が残っている気がする。
(……始めてから、どのくらいが経った。それで、何が得られた?)
苛立ちが、焦りが、そして恐怖が──静かに溜まっていく。
次の挑戦でも同じだった。影の刃を避けきれず、爪に腹を裂かれ、口内で砕かれる。ぬるりとした舌に巻き付かれ、歯で胴体を噛み潰される感触が死ぬたびに鮮明に残る。
口内の闇。湿った熱。歯の一本一本が肌を削る感触。そのすべてが記憶の底に沈殿していく。感触だけが、執拗に残る。
(なんで、勝てねぇんだよ……)
焦りが怒りに変わる。
そして怒りが恐怖に変わった。
恐怖が身体の奥を冷やしていく。ステータスの低下がただの数値ではなく、明確な『弱さ』として実感される。拳を振るっても影は倒れない。避けようとしても、動きが半拍遅れる。その半拍が、死に直結する。死ぬたびに、ヤブキの内側で何かが摩耗していく。
(何が、何が足りない?)
決意も、熱も、死ぬたびに薄れていく。殺されるたびに、精神の輪郭が少しずつ歪んでいく。
(俺には何が──)
考える最中、影の刃が再び腹を抉る。
「ひゃ、ひゃひゃひゃ」
ヤブキの眼前で、口だけの悪魔が笑う。恐怖も怒りも感じられない。あるのは──愉悦のみ。
「……なぁ」
何回死んだのか分からない。しかし、ヤブキは初めて悪魔の顔をしっかりと目視した。
「何がそんなにおもしれーんだ?」
悪魔への問いか、はたまたこんな状況でも諦めない自身への問いか。
それに悪魔は、腹に刺さった刃を深く差し込む形で答える。衝撃により口からこぼれ落ちる程の血を吐き出し、それは少しずつ粒子へと変わる。
「……言葉わかんねぇんだっけ?」
それでも言葉を投げかける。そんなヤブキを新たな悪魔が取り囲み、快楽の赴くままに襲いかかる。身体を引き裂かれ、傷つけられながら、ヤブキは目の前の悪魔を見る。
ヤブキの目には、怒りと、焦り、そして恐怖が満ちていた。
「怖いもんなんて何もねぇ、って顔してんな」
短い呟きだった。
そして次の瞬間──ヤブキの口元が歪んだ。歪で、それこそ眼前の悪魔のような、愉しげな笑み。
「じゃあ俺が教えてやるよ」
それは一瞬だった。悪魔の頭部を両手で鷲掴みにし、時計回りに力の限り捩じ切った。
絶え間ない笑みは止まり、錐揉み状に回転し地面へ転がる頭部。
「恐怖ってやつを」
刹那。ヤブキの胸の内に、わずかなざわめきが生まれる。このゲームで幾度となく味わった、『熱』の前兆。
(……あぁ、そうか。そういうことか)
その時、明確に理解した。『熱』を生み出すのは何も、楽しい時だけではないと。
戦闘の際に生まれる感情は快楽だけではない。自身の力が通用しない焦りや怒り、そして──殺される際の圧倒的恐怖。
それを抑え込むことなど人間にはできない。恐怖を感じない人間など存在しない。
ならばどうすれば良いのか。ヤブキはたった今、明確に理解した。
──『熱』にするんだ。戦闘の際、絶え間なく溢れ出る不純な感情を燃料とし、自身の糧とする。そうすることで、自分はもっと熱い人間になれる。キョウイチロウがそうだったように。
克服するのではなく、支配するんだ。恐怖は弱さの証ではない。
「だとしたらこれも、もうやめだ!」
それからのヤブキは、受動的な動きをすべて捨てた。
避けない。しのがない。隙を窺わない。
ただ、自分のやりたいことだけをやる。
影が刃を振るえばそれを無視して踏み込み、強引に拳を叩き込む。爪が喉を狙えば自らその腕に掴みかかり、地面に叩きつけようとする。
焦りも怒りも恐怖も、すべてを熱に変える。低下しているステータスのストレスを、あえて自身の負荷にした。動けない身体。入らない力。その重さを燃料に変え、理想への欲を極限まで高める貪欲な戦闘スタイル。
守るための動きではなく、奪い、壊し、焼き尽くすための動き。
「ハハ‼︎ ハッハハハハハハハァ‼︎」
守るために動くのではなく、奪うために動く。その方が生き物として遥かに自然で、遥かに熱い。
「んな簡単なことなら、早く試せばよかったよ‼︎ つまんねーのはもうやめだ‼︎」
だが、素手では悪魔達を圧倒こそすれど、倒すまでには至らない。ステータスの低下により、拳を叩き込んでも悪魔は倒れない。爪で引き裂こうとしても、皮膚を掠める程度だ。
「さて、都合よくどっかに武器でも──」
そのとき、ヤブキはあることに気づく。
目の前の悪魔が、ある歪な曲刀を握っていた。刃がねじれ、光を歪ませるような得体の知れない形状。通常ここに生息する悪魔たちが握る武器は実態がなく、振り下ろされても物体の感触すら残らない。ただ傷や衝撃だけが残る。
だが、この曲刀だけは違った。確かにここに在る。重みがあり、冷たさがあり、切れ味があった。
ヤブキは迷わずその悪魔に飛びかかった。避けようとする動きを無視し、腕を掴み、力任せにねじる。ひるんだ瞬間、その手から曲刀を奪い取った。
「思ったとおりだ! 武器として使える!」
曲刀を握った手に、熱が通る。
【ドロップアイテム・憤慨ノ婉曲刀】
ヤブキは悪魔のような笑みを浮かべたまま、次の悪魔へと踏み込んだ。
斬る。
抉る。
切り捨てる。
曲刀が悪魔の胴体を斜めに裂く。黒い液体が迸り、乾いた笑い声が悲鳴に変わる。ヤブキは止まらない。自身の欲のまま、狂気とも呼べる熱のままに切り刻んでいく。
「いい刀だ! お前らには勿体ねぇよ‼︎」
一匹を両断すればすぐに次の悪魔へ。曲刀を返し、横薙ぎに振るい、腿を切り、腕を落とす。影が刃を突き出せば、それを受け流すどころか、刃ごと腕を切り落としてから胴体を裂く。血煙のような黒い飛沫が宙を舞い、ヤブキの肉体を汚していく。
だが、構わない。むしろその感触が熱をさらに煽る。
「どうした、もっと笑えよ悪魔共‼︎ 俺は今、スッゲー楽しいぜ⁉︎」
生まれ変わったヤブキの戦闘は悪魔たちを変えた。
それまで絶え間なく響いていた笑い声が、次第に途切れ、震え、途絶える。悪魔たちは後ずさり、関節の狂った軌道が乱れ、視線がヤブキを避けるように泳いだ。支配する側が、支配される側になった瞬間だった。
「……なぁ、わかったか?」
悪魔たちが次々と崩れ落ちていく。ヤブキの周りに、黒い染みが広がっていく。
最後に残った一匹の悪魔の両足を切り落とす。素早い動きが止まり、地面へと力無く転がる。
「これが俺だ。俺の恐怖だ」
見下ろし吐き捨てるその顔には、愉悦に満ちた笑み。皮肉にも、悪魔が常に浮かべていたものだった。
恐怖に震える悪魔の首を容赦なく切り裂く。ひと段落ついたとき、荒い息が喉を焼いた。全身が軋み、視界の端が滲んでいる。それでも顔の笑みは消えない。
「……返事くらいしろよ。最後までムカつく奴らだな」
──そのときだった。
足元の地面が大きく沈んだ。
巨大な口が、大地から出現する。歯の一本一本が腕ほどある。ぬめりを帯びた黒い舌。
【エリアボス・潜醜美食魔】
「よぉ! 食べ飽きてお寝坊か?」
ヤブキは、曲刀を握ったままその口を見つめた。
何度も何度も、この口の中で殺されてきた。歯に砕かれ、舌に巻き付かれ、闇の中で粒子となって散った。そのたびに、口内の感触が身体に刻み込まれている。そして同時に、モロクの生態を理解しつつあった。
「喜べ! お前とは長い付き合いだ、もっと美味いもん食わせてやるよ。ただし────」
モロクは目を持たない。視覚を捨て、代わりに『気配』だけを頼りに動く。 プレイヤーの残滓、熱、殺意、存在の濃淡。それを嗅ぎ分け、追う。
そこに、付け入る隙があった。
「美味すぎて死ぬかもな♡」
口角が耳元まで達するほどの笑み。その瞳には、複数の感情が入り乱れていた。
しかし確かに在るのは、今を楽しむ『熱』。




