13.『いつか必ず』
重要回
♢
「……ッ」
ヤブキは歯を食いしばり、地面に転がった右腕から視線を引き剥がした。ポリゴンのモザイクがゆっくりと散り、腕は既に赤い粒子となって消えかけている。 腕のなくなった右半身は急に軽くなり、同時に重くなった。
バランスが崩れる。そして感じたことのない恐怖が、背筋を冷たく這い上がる。
(怖えぇ)
気を抜けば、口から溢れそうな思い。それを無理やり押し殺した。
拳を握り直す——左手はまだ動く。足もまだ立っている。
胸の奥で凍りついた熱を、歯を食いしばって掻き立てた。
「まだ、終わるには早ぇよな」
低く吐き捨て左拳を構える。キョウイチロウは刃を下げたまま、ただそれを見ている。
「うん。そうだね」
ヤブキは踏み込んだ。距離を詰め、左の『三段突き』を放つ。一発目で間合いを殺し、二発目で体勢を崩し、三発目で顔面を抉る——はずだった。
先に動いたのは刃。
大刀がほとんど無造作に振り下ろされる。金属音すら響かないほど滑らかで、速い。
——ポリゴンのモザイクが、今度は視界の左半分を覆った。
「綺麗……」
左腕が肘の上から消えた。衝撃だけが肩を貫き、体が大きく後方へ弾かれる。
ヤブキは両腕を失った。それと同時に、息が詰まる。恐怖が今度こそ、喉元までせり上がってきていた。
それでもまだ、足は動く。
ヤブキは体を起こし、蹴り込む動作へ移行する。右足を軸に左足を高速で繰り出す。『俊敏動作』を強引に発動させ、男の膝を狙うつもりだった。
「今度は足? 器用だなぁ」
キョウイチロウの表情がまた変わった。無邪気な笑みが消え、代わりに子供のように拗ねた声が漏れる。
そして、袖から複数の仕込みナイフが滑り出た。親指と人差し指で摘まむように保持し、軽く弾く。
「えい」
金属が夜気を裂く音が、連続して響いた。
一本目が右太腿に刺さる。二本目が左膝の裏側。三本目が右脹脛。四本目が左足首の少し上。五本目が、両足の間を縫うように太もも内側へ。
「……っ、がっ……!」
衝撃だけが走る。痛みはないのに、足に力が入らない。ナイフが肉と骨の隙間を丁寧に縫い、関節の動きを物理的に封じている。ヤブキの体が、膝から崩れ落ちた。両腕も両足も、もう動かない。
地面に突っ伏したまま、顔だけを上げる。
キョウイチロウはゆっくりと近づいてきた。大刀と小刀を力無く下げたまま、しゃがみ込む。
その切長の瞳が、至近距離でヤブキを覗き込む。
そして優しくヤブキの上体を起こす。
そのまま何の前触れもなく、その身体に抱きついた。
「何、しやがる」
両腕を失ったヤブキの肩に、体を預けるように密着する。赤黒い髪が頬に触れ、甘い吐息が耳元に落ちる。身体を震わし抵抗するも、抱きつく力は強く決して離さない。
「……捕まえた」
低く、甘く囁く。
そのまま、小刀を持った手が動いた。ゆっくりとヤブキの背中を軽く抉るように切る。一瞬だけ赤い血が滲み出るが、それはすぐに粒子へと変わり、静かに散って消えた。
ただ、衝撃と冷たい感触だけが残る。
「ねぇ。君はどうしてそんなに頑張るの?」
優しく、どこか悲しげな声のまま今度は肩を浅く刺す。また血が一瞬滲み、すぐに粒子になって消える。
「ぐっ……ぁあ……!」
「諦めえちゃえばいいじゃん。僕に会ったその時に、首を差し出せばよかったのに」
そう言った次の瞬間、表情が反転する。口元が耳まで裂けそうに緩み、瞳が熱を帯びる。息が荒くなる。抱きついたまま、今度は太ももに刺さっているナイフを、ゆっくりと執拗にねじる。
「でも、そんなの無理。ねぇ、もっと頑張って。僕を殺しにきて?」
声が上ずる。頬が赤く染まる。刃を持った手が小刻みに震えていた。
そうして今度は自身の腹を目掛け、刃を向け浅く横に切る。血が一筋流れ、すぐに粒子へ変わる。
「さっきの時間、僕が今まで戦ってきた中でも、特に楽しかったんだ。本当だよ? これは嘘じゃない」
そう言いながら、ヤブキの頬を軽く撫でるように刃を這わせる。血が一滴落ち、すぐに消える。次の瞬間、同じ刃で自分の唇を軽く切り、血を垂らす。痛みはないはずなのに、キョウイチロウは恍惚とした表情でそれを舐めた。
「君のことが好きになりそう。君を殺したいのと同じくらい、殺されたいって思ってるんだ。僕って、欲張りなのかなぁ?」
ヤブキは息を詰めた。目の前の男の言動が、またブランコのように揺れ続けている。優しさと残酷さ。支配欲と被支配欲。愛情と殺意。
矛盾した感情が一切の迷いなく、過激に同居している。
自分が人を傷つけるこの状況を、本気で愉しんでいる。いや——自分が殺されることすら、愉しみの一部にしているのかもしれない。抱きついたまま、少しずつ体を傷つけながら愛おしむように、貪るように触れ続けている。
だが、ヤブキの脳内から不思議と恐怖が消えていく。
衝撃の連続に頭が冴え、代わりにある疑問が浮かぶ。
(……欲張り、か)
欲張り。その言葉が、胸の奥に沈んでいた何かをゆっくりと抉った。
(俺はなんで……何がしたくて、何を得たくてこんなことを──?)
金が欲しい。
それが常に彼の根本にあった。
前まで──それこそこのゲームを始めるまで、それ以外のことを考えたことがなかった。
麗華の誘いを断ればどんな目に遭うかわからなかった。そんな曖昧な理由で、始めたこのゲーム。
自分がやりたいことなど、彼の人生には何一つない。
家族を失い、命に換えてでも二人を守って行こうと決めた、あの日。自分の人生などとうに捨てた。仮に今すぐ死んだとしても、人生の悔いなどさほど残らないだろう。
ただ唯一心残りがあるとするならば、それは残される弟妹に他ならない。この先自分に何が起ころうと、どうか幸せになって欲しい。
このゲームに求めていたのは結果のみ。
クリアして、金を手に入れ、元の幸せな家庭に戻る。それだけで十分だった筈。
なのにいつからか——戦うたびに胸がざわつくようになった。
死にかけのあの緊張感。ギリギリで繋ぐ激しい攻防。自分の拳が相手に届く瞬間の高揚感。血の匂いも痛みもない世界なのに、次第に体の奥が熱くなる。
ヤブキにとって、あの感覚はたまらなく愉しく、刺激的なものだった。
現実では味わえない、純粋な『熱』そのものだった。
最優先であり、何よりも愛するのは弟妹。その気持ちには決して偽りはない。
しかし、先の食卓で感じたあの不足感は無視するには大きすぎた。二つの思いの中で、常に揺れ動く自分の考え。
『家族』か。はたまた『熱』か。どちらを取れば──
(──いや。……全部取れば良いんだ)
ふと、そんな考えが頭によぎる。死の寸前で感じるのは怒りでも、恐怖でもなく、憑き物が取れたかのような解放感だった。
家族が大切なら、いつまでも大切にすればいい。金が欲しいのならクリアを目指せばいい。戦いが楽しいのなら、それにいつまでも身を投じればいい。
──欲張っていい。何も捨てることはない。
「……ハハ」
ふと、そんな乾いた笑いが溢れる。そして血の気の引いた顔のまま、ゆっくりと顔を上げた。
目の前のキョウイチロウへと、視線を合わせる。
「フンッ!!」
未だ抱きついているキョウイチロウの額に、思い切り頭を叩きつける。キョウイチロウの体がわずかにのけ反った。
その鼻から滴るのは、数滴の血。
「ヤブキ、君?」
「……大事なことに気づけた、お前のおかげだ。お礼と言っちゃ何だが──」
再び頭を突きつける。
互いの額が触れ合う最中、掠れた声で、はっきりと言った。
「いつか必ず、お前を殺す」
生き方は決めた。
「それまでずっと俺に殺されたいと願ってろ。キョウイチロウ」
これからはずっと──ずっと、欲張って生きると。
声高らかに言い放った。
眼前の宣言を聞き、キョウイチロウの瞳が大きく見開かれる。
その顔には今までの感情の起伏はない。
あるのは子供のように無邪気で──純粋な期待のみ。
「うん。……うん」
そして、口元が緩みきる。肩が小刻みに震え、抱きつく腕にさらに力がこもる。
額に残った衝撃の感触を大切そうに。味わうように目を細めていた。
「待ってるね。ずっと」
息を飲むように呟く。そしておもむろに立ち上がり、ヤブキを見下ろす。
そのまま大刀をゆっくりと振り上げる。月明かりを浴びた刃が鈍く光った。
その切長の瞳は、ヤブキだけを見つめていた。愛おしむように、貪るように。
──そして、刃が落ちた。
ヤブキの首筋に冷たい感触が走った。衝撃が頭から全身へ一気に広がる。
視界が傾く。体が首から下へ二つに切り離される感覚。赤黒い粒子と幾何学的なノイズが、視界の端から端まで広がっていく。
その身体からは一瞬だけ噴水のように血が噴き出したものの、すぐに粒子となって散った。
世界が遠ざかる。音が薄くなる。体の感覚が、急速に消えていく。
意識の端では、キョウイチロウの声がまだ聞こえていた。
「じゃあね。また、どこかで」
その声を最後に、彼の意識は完全に闇へ落ちた。




