12.『双極の波、危険につき』
♢
「大丈夫? もう、何も怖がらなくていいよ」
「……あ、ありがとう、ございます……」
NPCが掠れた声で答える。男は静かに微笑んだまま、彼女を見下ろしていた。
「全く、酷いことするね。NPCは一度きりの命しかないってのに」
「え、NP、C……?」
「あぁ、良いんだ。こっちの話」
キョウイチロウが手を差し出し、女性を立ち上がらせる。
浮かべていた優しい笑みがふと止まる。
「……君は、綺麗だね……」
切長の瞳が、一瞬だけ虚ろに揺れる。赤黒い髪が夜風に揺れた次の瞬間、男の表情がまるで別人のように変わった。口元の優しさが消え、代わりに深い影が落ちる。
瞳の奥にあった闇が一気に表面へ浮かび上がった。息を詰めた空気が、森の闇を重く沈ませる。
その静寂は、葉一枚動く音すら異常に大きく聞こえるほどだった。
「あんな酷い所業にも耐えて、苦しかっただろう? 頑張ったね」
柔らかく呟く。
「……でも、あのまま死んでれば幸せだったのに」
静かに、言葉が次々と零れる。
「いや。そんなことない……これからは僕が守ってあげれば……」
時に優しく、時に冷酷な表情。
「あぁ……もういいや」
目の前の男の言動を聞いている内に、次第にNPCの目は見開かれていく。喉が引きつり、言葉にならない声が漏れた。
「え……? あ、あの……?」
男は無言のまま、一瞬で腰から大刀を抜き取り、刃を振り下ろした。
——金属音。
「……ん?」
ヤブキの靴裏が、刀身を真上から踏んづけていた。刃は地面に食い込み、動かない。靴底に伝わる冷たい感触。ヤブキは体重を乗せたまま、キョウイチロウを真正面から見据える。
「自分で助けたNPC、自分で殺しちゃ世話ねーな」
低く、押し殺した声だった。
キョウイチロウの視線が、ゆっくりとヤブキに向く。切長の瞳が、何かを測るように細められた。
「君、誰?」
柔らかく、どこか浮ついた声。さっきまでの沈黙とはまるで違う。捉えどころがない。
「テメーが誰だよ。殺すぞ」
「ハハハ、イイね、君。……ヤブキ君って言うんだ」
ヤブキは一歩も引かない。
後ろ手でクロードの方を示す。声を張り上げる。
「クロード! ソイツ連れて、先に街に戻ってろ!」
クロードはキョウイチロウが現れてから今に至るまで、一歩も動かなかった。いや、動けなかった。
「っ、君を置いてなんていけるわけないだろ! 逃げるなら一緒にだ!」
しかし、ヤブキの一声で我を取り戻した。出された提案を拒み、刀を構える。
「お前、さっき何で立ち上がった? ソイツを助ける為だったよな?」
「……っ、それは」
「目的を忘れんな。その間、コイツは俺が止める」
ヤブキの声が静かに夜の森へ響く。
歯を食いしばり、余計な思考を振り切るようにNPCの腕を強く掴んだ。
「……わかった。街まで送り届けたら、すぐに戻るからな!」
「わ、私は……いったい……」
NPCが掠れた声を上げるが、クロードはもう走り出していた。二人の姿が、木々の影に沈み、足音が遠ざかっていく。
キョウイチロウは、それを横目で追いながら、小さく息を吐いた。
「自己犠牲ってやつ?」
「ハッ! 今から出る犠牲はテメェだ。サイコパス仮面野郎」
相手を見据えながら、肩の凝りをほぐす。
「戦いは嫌いだなぁ。楽しくないし」
言動に反し、素早く小刀を抜き、大刀を拾い上げる。
大小二本の刀が、夜気を切って構えた。赤黒い髪が風に舞い、切長の瞳が柔らかく細められる。
──次の瞬間、キョウイチロウが踏み込んだ。強い踏み込みで地面が深く沈む。
「ばぁ!」
そしてそのまま、大刀が横一文字に閃いた。
刃が空気を裂く音が、鼓膜を打つ。ヤブキは回避の為、身を低く沈める。
間一髪、刃が髪の先端を掠め、後ろの木の幹に深く食い込んだ。細かな木片が辺りに飛び散る。
「良い回避。やっぱりすごいねぇ」
(コイツの間合いはヤベェ。俺の得意でやらねぇと)
相手有利で戦っていては、先ほどのプレイヤー達の二の舞だ。
ヤブキは思考を切り替え、即座に間合いを詰めた。
──『俊敏動作』。
思考した側から、腿の奥から熱が走る。体が一気に軽くなった勢いで、拳を繰り出す。
──『三段突き』。肩から拳にかけて三段階の力が連続して走る。一発目で間合いを詰め、二発目で体勢を崩し、三発目で急所を抉るつもりだった。
だが、キョウイチロウは初撃の段階で、小刀でそれを軽く弾いた。金属音が短く響き、ヤブキの拳が空を切る。
すかさず大刀が返ってくる。刃は左胸を正確に狙うが冷静に『ノーマルパリィ』を発動し、受け流す。衝撃が骨に響き、微かに体が弾かれる。
(小刀と大刀……戦ったことのねぇタイプだ)
大刀は間合いを取り、一気に距離を殺すためのもの。横薙ぎ、縦斬り、重い一閃で空間そのものを支配する。対する小刀は近距離での受けと返し。拳や肘を弾き、わずかな隙を穿つように刺す。時には手元から滑らせて、投げるような行動も見せる。
「ふふ、良いねぇ」
キョウイチロウの口元が、ふと緩む。戦闘中は冷静そのものだった態度が、急遽変わった。
「でも期待外れだよ。普通すぎるんだもん」
「……さっきから言ってることが矛盾してんだよ」
上がったかと思えば急に冷え、冷えたかと思えば今度は熱を帯びて跳ね上がる。声のトーンも、優しく浮ついたものから低く沈んだもの、突然高く弾むものへと目まぐるしく変わっていく。
ヤブキは拳を握り直す。その口元には、また再びあの笑みが浮かび始めていた。
(どうやってコイツを殺すか。不思議と今は、それしか頭にねぇ)
拳を交えるたび、胸の奥の熱が強く脈を打つ。死にかけの緊張感。ギリギリで繋ぐ攻防。この感覚が、たまらなく愉しい。
胸がいい感じにざわついてきたその時──
「戦いが楽しくてたまらない、って顔だね。ヤブキ君」
「は?」
内心を的確に言い当てられ、思わず動揺する。
対するキョウイチロウは、今度は子供のように無邪気な笑みを浮かべる。
「チャンスをあげるよ」
そう言った次の瞬間、自ら大きな隙を作った。
大刀と小刀を振り上げたまま肩の力が抜け、完全に無防備な体勢。
「ホラ! 全部ガラ空き♡」
「……へぇ」
動揺しつつもヤブキは迷わなかった。相手が自ら用意したその隙に、全力で飛び込んだ。
「だったら遠慮なく‼︎」
──『ファストスマッシュ』。背中から両脚にかけて一気に力が湧き上がる。体が前方へ弾かれるように加速し、風が頬を強く打った。スタミナの消費は激しいものの、一瞬の最大火力ではこのスキルが一番だった。
その拳は、男の顔面を捉えた。鈍い音が響き、赤黒い髪が乱れる。すぐさま次の拳。『三段突き』を発動させ、それをさらに連続で叩き込む。
一発、二発、三発、四発、五発、六発、七発、八発、九発。全てを真正面から受け止め、キョウイチロウの体が後ろへ揺れる。
体勢の崩れた隙を見逃さず、キョウイチロウの手から大刀を強引に奪い取り、側面を力の限り叩く。大刀は激しい金属音を立て、刃が砕け散った。
「────ッ‼︎」
(メイン武器は潰した! あとは──)
ヤブキはそこからさらに踏み込み、男の右腕を掴んだ。
まず手首をねじり上げ、肘を内側へ折り畳む。相手の重心を崩し、自分の体を密着させる。そして膝を相手の脇腹に打ち込み、同時に腕を自分の胸元へ引き込む。そのまま足を滑らせて相手の体を仰向けに転がし、自分の脚を相手の胸と首の上に跨がせる。両脚で腕を固定し、腰を浮かして肘を逆に伸ばす。骨が軋む感触が、掌に生々しく伝わる。
一瞬の動きの硬直を最大限に生かし、完成させたのは──腕ひしぎ十字固め。
「ざまぁねぇな。……このままへし折ってやるよ!」
──『拘束強化』、発動。自身の関節へとこれ以上ない力が入る。
「……ハハ」
しかし、対する男はゆっくりと笑った。ヤブキのそれよりもずっと深く、常軌を逸した笑い。
瞳が細められ、口元が耳まで裂けそうなほど緩む。
「ハハハハハ……アハハハハハァ……」
ゲームの中では痛覚はない。そのはずなのに殴られ、関節を極められながら、心から愉しむように味わっているかのような、幸せそうな笑みだった。
ヤブキの体が、一瞬だけ強張った。そして気づいた。
目の前のこの男は、明確に自分以上に戦いを楽しんでいると。そして先ほどから見られる、躊躇のない矛盾した行動。
ヤブキの指先が、無意識にわずかに緩んだ。
笑みを見て身じろいだ。意識が一瞬だけ、男の表情に奪われた。
その隙をキョウイチロウは見逃さなかった。
「隙あり♡」
低く、甘く囁いた次の瞬間。彼の指が袖の内側へ滑り込む。それは、仕込みナイフだった。
小さな刃が月明かりを反射し、銀色に光る。関節を極めた腕をナイフの腹で軽く抉るように動かし、一気にねじ切った。骨の軋む感触が消え、ヤブキの手が空を切る。
キョウイチロウはそのまま滑らかに距離を取った。
「今のは良かった。腕を捻じ切られるかと思ったよ」
声が急に上ずる。瞳が潤み、口元が緩みきる。
「まぁ、想像の域は出ないけど」
戦えば戦うほど、その感情の振幅は大きくなっていた。
「ほざいてろ。もうマジで殺す」
「やった! 楽しみ!」
そうして、刃と拳が再び交錯する。
大刀を失ったキョウイチロウだったが、もう一方の小刀が近距離で牙を剥く。キョウイチロウの動きはますます滑らかで、遊びを含みながらもどこか狂ったリズムを刻んでいた。
投げナイフを交え、時折わざと隙を見せては、すぐに埋める。
対するヤブキは間合いを詰め、崩し、抉る。何度も、何度も衝撃が積み重なる。そして拳を受け、刀を弾くたびに体が重くなり、息が荒くなる。疲労が確実に蓄積していく感覚に苛まれた。
(畜生、この感じ……昨日もあった)
明確に感じられるレベルの差。同じ量を動いたとしても、自分と目の前のこの男とでは、そもそものステータスの数値が違うのだろう。圧倒的なアドバンテージを握られ、ヤブキの表情には焦りが見て取れる。
やがて、キョウイチロウの表情がまた変わった。瞳が虚ろに揺れ、口元が子供のように緩む。
「んー……じゃあ、またチャンス」
小刀を振り上げたまま、肩の力が抜け、完全に無防備な体勢。前と同じ。わざと作った隙。
(……コイツ、また──)
「余裕、ないんでしょ?」
全てを見透かされているような感覚に、ヤブキの背筋が凍る。
しかし、ふと自身を奮い立たせる。
(考えるな。今、この瞬間を楽しめ!)
隙だらけのキョウイチロウに全力で飛び込む。
先ほどと同じ『ファストスマッシュ』。体が前方へ弾かれ、視界が狭まる。
拳が、男の頰を狙う——。
「なんちゃって」
だが、今度は違った。
キョウイチロウの瞳が、一瞬で闇に染まる。無邪気な笑みが消え失せた。
その直後──大刀が縦に容赦なく振り下ろされる。
刃が、ヤブキの右肘を真上から捉えた。
——ポリゴンのモザイクが一瞬で視界を覆う。過激な描写を自動的に隠す、ゲームの仕様。赤黒い粒子と、幾何学的なノイズが腕の切断面を覆い隠す。
「────ッ‼︎」
衝撃が肩から背骨へ一気に走った。体が弾かれ、バランスを崩す。
落ちた腕が、粒子に覆われたまま地面に転がる。
その瞬間、ヤブキの思考が真っ白に塗り潰された。胸に満ちていた戦いの高揚感が、音を立てて消えていく。
胸の奥で脈打っていた熱が、冷たい水を浴びせられたように凍りつく。
(何で、砕いたはずの刀身が?)
ゆっくりと、顔を上げる。目の前の男を見る。
キョウイチロウは、静かに息を吐き、刃を軽く振った。それは錯覚ではない。先ほど使い物にならなくなり、地面に投げ捨てられていた筈の大刀だった。
「びっくりした? 腕、切っちゃってごめんね?」
柔らかく、どこまでも捉えどころのない声で、そう呟いた。切長の瞳が、愉しげに細められる。感情が今もなお、不安定に揺れ続けている。
ヤブキの背筋を、今度こそ本物の恐怖が走った。
(何だよ……これ)
──楽しくねぇ。
「ねぇ、ヤブキ君」
両手の刃を力無く降ろし、キョウイチロウは真っ直ぐにヤブキを見つめる。
頬は赤く染まり、目には何とも言えない感情が入り乱れていた。
「今僕、すっごく楽しいよ」
男の瞳には、目の前の一人だけが映っていた。




