第2章: 「あなた、旦那さんに頼りきりらしいわね?」
BBQ会場に到着してわずか五分。
私は自分が完全に「アウェー」の、それも極めて悪意に満ちた空域へ放り込まれたことを悟った。
タープの下では、拓也が同僚の健太やその妻、さらには数人の後輩たちを従え、上機嫌でビールを煽っている。
私と結衣が近づくと、拓也は一瞬だけ表情を曇らせたが、すぐに大げさなほどの笑みを浮かべて手招きした。
「おう、来たか! おーい、お前ら、こっちに来て挨拶しろよ」
その呼びかけに集まった視線が、私に突き刺さる。
値踏みするような、同情とも軽蔑ともつかない冷ややかな視線。
その中の一人、派手なアクセサリーをつけた女性が、いかにも「先輩の妻」という余裕を含ませた笑みを浮かべて歩み寄ってきた。高橋奈津子だ。
「あら、あなたが佐藤君の奥様? 随分と、……マイペースなのね」
奈津子は結衣を抱く私の姿を上から下まで舐めるように観察すると、わざとらしく溜息をついた。
「少しは旦那さんの負担を減らしてあげたら? 拓也君、昨日も会社で言ってたわよ。『妻が育児も家事もほとんどやってくれないから、自分が全部背負っている。寝不足で仕事にも影響が出るほどだ』って。彼は倒れそうなほど頑張ってるのよ?」
心臓がドクンと嫌な音を立てた。
家では「俺が稼いでいるんだ」という言葉を盾に、自分は何一つ動かない拓也。
その口から出た言葉が、こんな形で歪められ、私の「人格否定」の材料として利用されている。
「……えっと、それは少し、認識が違うかもしれません。普段の家事は……」
「言い訳は聞たくないわ。男の人に過度な期待を押し付けるのは良くないことよ。ねえ、健太さんもそう思うでしょう?」
奈津子が振り返ると、幹事の健太が苦い顔で頷いた。
「拓也君は本当にいい奴だよ。あいつがそんなに苦労しているとは思わなかったが……美咲さん、少しは奥さんとしての自覚を持った方がいいんじゃないかな。今の時代、男女平等とはいえ、家庭を支えるのは妻の役割だろう」
周囲の社員たちが、一斉に私を非難するような空気を醸し出す。
拓也の「イクメン被害者」という偽りの物語は、彼らの正義感を刺激し、私を「悪の元凶」として仕立て上げるのに十分な強度を持っていた。
私は、抱っこ紐の中の結衣をぎゅっと抱きしめる。
娘が私の動揺を感じ取ったのか、小さく泣き声を上げた。
その声さえ、奈津子には「不機嫌な妻が子供をあやさない」という証拠に見えるらしい。
「ほら、赤ちゃんも泣いてるわ。いつもこうやって泣かせっぱなしなの? 拓也君が気の毒でならないわ」
奈津子の冷ややかな言葉が続く。
拓也は遠くから、心配そうなフリをして私を眺めている。
その瞳の奥にあるのは、妻が吊るし上げられる様子を楽しむかのような、歪んだ優越感だった。
手が震える。
怒りではなく、このあまりに理不尽な状況への、凍りつくような憤怒だった。
彼らは拓也の言葉を信じ、私の生活を、私の努力を、一片の真実も確かめずに踏みにじっている。
「……そうですか。彼が、そんなふうに言っていたんですね」
私は努めて冷静を装い、奈津子の目を見つめ返した。
このまま黙っていれば、私は一生「怠惰なダメ妻」として彼らの間でレッテルを貼られたまま終わるだろう。
だが、拓也が仕掛けたこの「BBQという舞台」は、皮肉にも彼自身が墓穴を掘るための場所にもなり得る。
私の胸の中で、何かがパチンと弾けた。
信じる相手を間違えた彼らに、この「イクメン・拓也」の剥がれたメッキを、これでもかというほど見せつけてやる。
「奈津子さん、よくわかりました。……少し、拓也さんと『役割分担』について、改めてお話しさせていただいてもいいですか?」
私がそう告げると、拓也の表情がわずかに引きつったのを、私は見逃さなかった。
地獄の幕開けは、まだこれからだ。




