第1章:ペットボトルと、地獄への招待状
リビングに響くのは、生後半年になる娘・結衣の微かな寝息と、テレビから流れる昼下がりの退屈なワイドショーの音だけだった。
キッチンでは、夫の拓也がシンクの前で何やら満足げな作業をしている。
「……できた。美咲、そこにあったペットボトル、中を洗ってラベルも剥がしておいたから。ゴミ出しの準備、完璧だろ?」
拓也はわざとらしく額の汗を拭う仕草をしながら、私の方を振り返った。
その顔には「俺、なんていい夫なんだ」という自己陶酔が滲み出ている。
見てみれば、シンクには水滴が残ったペットボトルが一本だけ。
ラベルの剥がし残しが、いかにも「雑な男の仕事」という主張をしていた。
「……ありがとう」
喉まで出かかった「それくらい、自分で全部やってよ」という言葉を、私は必死に飲み込んだ。
私が授乳で睡眠不足に耐え、結衣の夜泣きに追われながらこなしている家事のすべてに比べれば、彼のそれはあまりにも薄っぺらい。
けれど、ここで波風を立てれば拓也は決まって不機嫌になる。
「俺だって仕事で疲れてるんだ」という言葉が、我が家の絶対的な免罪符だ。
私が我慢すれば、波風は立たない。そう自分に言い聞かせて呼吸を整える。
「ああ、そうだ。今度の週末、会社のBBQがあるんだよ。先輩が幹事でね。お前も結衣を連れて顔を出せよ。家族ぐるみの付き合いだって、社会人には必要だろ?」
拓也はコーヒーを啜りながら、当然の権利のように告げた。
まだ首もすわりきっていない娘を連れて、炎天下のBBQへ?
準備から片付けまで、誰が結衣を見ると思っているのか。
「……結衣、まだ小さいし、急な天候の変化とかも心配なんだけど」
「大丈夫だよ。俺がずっと見ててやるからさ。それとも何? 俺の付き合いを邪魔する気か? お前もいい加減、専業主婦としての役割を理解して協力してくれないと、俺の立場も悪くなるんだよ」
自分の立場。その言葉に、胸の奥がチクリと痛んだ。
彼は私の負担よりも、会社での自分の見栄えを優先している。
逆らえば、またネチネチと「誰のおかげで生活できていると思っているんだ」という説教が始まる。私は結衣を抱きしめ、小さな溜息をこらえた。
「……わかった。行けばいいんでしょ」
「そうこなくっちゃ。子供は俺が見ててやるから、お前も会場の準備とか手伝ってくるといいよ。みんなに『自慢の妻』を紹介できるのが楽しみだ」
彼は満足そうに微笑むと、再びスマートフォンに視線を落とした。
それが、このBBQという地獄の入り口であることも知らずに。
*
週末、指定された河川敷のBBQ会場に到着した私を迎えたのは、想像を絶する空気に満ちた空間だった。
設営されたタープの下には、拓也の同僚たちが集まっている。遠目からでも、拓也が周囲に囲まれ、何かを熱弁しているのが見えた。
私たちが姿を見せると、周囲の空気が一瞬にして凍りついたような気がした。
歓談していた男女が、私の方を見て露骨に眉をひそめる。
「……あの子が、佐藤さんの奥さん?」
「へえ、もっとしっかりした人かと思ったけど。あんな感じで、佐藤さんに家事も育児も全部押し付けてるなんてね」
風に乗って聞こえてきたのは、冷ややかな噂話だった。
私の知らないところで、拓也は一体どんな嘘を吹聴しているのか。
私の胸に、得体の知れない嫌な予感が激しく波打つ。
この場には、彼らの期待する「ダメな妻」として私が招き寄せられたのだということに、ようやく気づいたときにはもう手遅れだった。
背後で、拓也がニヤリと笑ったような気がした。




