グッバイ サマー 4
───直緒。
直緒、ありがとう。
自然と涙が出た。直緒が息を引き取った時も、通夜も葬儀も、不思議と涙は出なかった。
その後も、彼女を探そうとするあまり、ずっと泣けないでいた。けれど今は、無意識に涙が溢れていた。
彼女は、この矛盾に満ちた手紙を、一体どんな思いで書いたのだろう。ところどころにインクの滲んだ跡が見えるのは、彼女の涙なのだろう。
直緒の手紙の、どこまでが本音で、どこまでが自分のためについた嘘なのかはわからない。だけど、彼女が自分に向けてしたためた言葉に、偽りはない。その言葉のままの意味を、彼女は残そうとしている。
ああ、どんなに探しても、見つからないはずだ。直緒は最初から、自分の前に現れるつもりはなかったのだから。
彼女がこの世にはいないのだと、もう二度と会えないのだと、知っていた。知っていたのに、知りながら、理解するのに、こんなにも時間がかかった。けれど、五年という歳月は、英知には必要な時間だった。
時間が解決してくれることも、してくれないこともある、と、いつか人に話したことがある。確かに、時間が経てば癒える傷も、時を経ても消えない想いもあった。だけど、この月日を経て、自分の心に生まれた変化は、否定しなくてもいいと思えた。
そう思わせてくれたのは、誰でもない、他ならぬ、隣でじっと自分を見守ってくれている凪だ。
そして、彼女への想いを否定しなくてもいいと、直緒の手紙が言ってくれた。
英知は瞼を閉じて、目に溜まった涙を押し流す。そして掌で頬の涙を拭い去る。再び目を開けた時、もう英知の瞳に涙はなかった。
「…桜沢さん…、…大丈夫?」
心配そうに自分を見上げる凪に、英知は笑顔を見せた。
「大丈夫だよ」
その笑顔は、何か吹っ切れたように清々しいものだった。
───大丈夫。
大丈夫。もう笑える。
英知の笑顔に安堵した表情をする凪に、英知は手に持っていた手紙を差し出した。一瞬戸惑ったように、凪は英知を見る。
「…いいの?」
直緒が英知に宛てた手紙を、無関係であるはずの自分が読んでもいいものかと、凪には遠慮があった。
「うん、許してくれると思う」
凪にとっては、少し重いかもしれない。だが、知っていて欲しかった。
英知の気持ちを汲んだのか、凪は恐る恐る英知から手紙を受け取った。慎重な動作で手紙を自分の前に広げる。
読んでいくうちに、凪の目には涙が込み上げてきた。だけど、自分よりも年下だったはずの少女が決死の覚悟で書いた手紙が、涙で読めなくなってしまうのは嫌だった。奥歯を噛みしめて涙をこらえる。どんな思いで、直緒はこの手紙を書いたのか。直緒と同じ立場になった時、自分にはこんなことは言えそうになかった。自分を忘れないで欲しいと、他の誰のことも好きにならずに、自分だけを想っていて欲しいと、そう懇願してしまいそうだ。それだけで、直緒の英知への想いが伝わった。
読み終えると、凪は目の奥に涙を閉じ込め、小さく深呼吸をした。それから、そっと英知に手紙を返す。凪から受け取った手紙を、英知は丁寧に折り畳み、封筒に戻した。
そして、入っていた缶の中に戻し、蓋を閉める。
せっかく見つけた直緒の想いが詰まった手紙を箱に閉じ込める英知の行動を、凪は黙って見つめていた。
「……さっき、直緒のお母さんに俺が言ったこと、覚えてる?」
そのことに思い当って、凪の心臓は大きく跳ねる。
凪の答えを聞くつもりがないのか、あるいは最初からわかっているのか、凪が何か反応を返す前に英知は立ち上がり、見晴らしのいい柵のほうへ移動した。その背中を追いかけるように、凪も立ち上がってそれに続いた。
柵に腕をついてもたれ、夏の日差しを受けて輝く眼下の景色を見下ろす英知の頬に、もう涙は見えなかった。
「たぶん、俺は、これから先も直緒のことは忘れないと思う」
今までのように、風の中に声を探し、影に姿を探したりはしない。けれど折りに触れて、思い出すことはあるだろう。
直緒の代わりは、いない。誰かを直緒の代わりにしようなどと思ったことはない。直緒はたった一人で、誰も代わりになどなれない。
思い出の中の直緒は、永遠に直緒だ。
だけどその思い出は、そっと心の箱に中にしまっておく。直緒と過ごした時間は幸せで、確かに自分が刻んできた時間だけど、今はもう思い出にすべき過去だ。
今、隣に立つ人と、彼女のいない時間を歩き出そうとするのなら。
英知にとって、凪は、唯一絶対無二の存在だ。やはり誰の代わりにもなれないし、誰も代わりはいない。
側にいる度に感じる安堵感や、温かな気持ちは、凪だけが与えてくれるものだ。今、英知が触れたいと思うのも、自分の手の中に閉じ込めてしまいたいと思うのも、凪だけだ。
例えば、もしも、凪を喪うようなことがあったら、きっと英知は悲しみ、直緒の時と同じように彼女を探し続けてしまうかもしれない。喪う怖さを知っているから、新たに大切なものを作ることは勇気が要る。
「でも、これから先、ずっと側にいて欲しいと思うのは、佐原さんなんだ」
英知は隣に立つ凪に向き直る。
「佐原さんが、好きだよ」
言われた言葉の意味はわかるのに、それが自分に向けられた好意なのだと理解するまでに、しばらく時間が掛かった。ようやく意味を理解して、凪は英知を見つめたまま固まった。呼吸の仕方を忘れてしまったかのように息苦しい。
浅い呼吸を繰り返して、何とか自分を落ち着けると、少し冷静さが戻って来た。自分の反応を窺うように英知が見つめていることに気付き、凪は息を吸う。
言わなくては。陸斗に宣言してきたように。もともと、そのつもりで英知を探して、あんな所まで押し掛けたのだ。
「私も……私も、桜沢さんが好き、…です」
全身の熱が顔に集まったかのように熱くて、まともに英知の顔が見られなかった。
「ありがとう、佐原さん」
けれど、英知が微笑んだのは、気配でわかった。凪は視線を上げて、英知の顔を見る。優しくて、穏やかな笑顔。悲しそうだと、どこか寂しさを隠した笑顔だと思った、いつかの笑顔とは違っていた。
自分に向けられるそれに、凪は笑顔を返した。
「…凪って呼んでもいい?」
凪が頷くと、英知は微笑んで口を開く。
「凪」
耳馴染みのいい英知の声が、自分の名を呼ぶ。それだけで、凪は心が温かくなり、体が熱くなる気がした。英知が呼ぶ“佐原さん”という柔らかい響きも好きだが、英知が呼ぶだけで自分の名前が特別なものに思えるから不思議だ。
「凪」
「はい」
再び名を呼ばれて、返事をする。
「俺と、付き合ってくれる?」
「はい」
返事をするのと同じくらい、迷いなく凪は頷く。
「…キスしても、いい?」
今度は、凪は少し逡巡したが、やがて顔を真っ赤にして小さく頷く。英知の手が肩に触れ、顔が近付く。思わず目をつぶれば、唇にそっと優しいキスが降りてくる。
───直緒。
君の思い出を箱の中に閉じ込めて、新しい思い出で塗り替えても、いいよね?
唇が離れ、生まれて初めてのキスに、どんな顔をしていいのかわからない凪は、目の前の英知の顔のどこを見たものかと視線を彷徨わせる。
「……もう一回してもいい?」
「えっ!?」
凪の答えを待たずに、素早く英知の唇が凪の唇を奪った。




