グッバイ サマー 5
あれから、夏の日は足早に通り過ぎて、もう蝉の声もあまり聞かれなくなった。あの手紙は、綺麗に洗ったあの缶箱の中に入れて、鍵を掛けて、大切に、物入れの奥底にしまってある。あれを読み返すことは、たぶんもうない。だけど、英知が持っているべきだと凪は言った。彼女が最後に残した想いを、受け止める義務が英知にはあると。そして、自分にも、と。
新たな一歩を踏み出す決意をしたことを、英知は凪に伝えたわけではないが、凪はそれを感じ取って、隣を歩いてくれようとしている。そして、英知の荷物を一緒に持ってくれるつもりだ。彼女はいつだって、英知の心に寄り添い、英知を安心させる答えをくれる。
「最後に会えてよかった。ありがとう」
「うん。会いに来てくれて、ありがとう」
向かい合って微笑み合う二人の目には涙が浮かんでいるが、お互いにそれには気付かないふりをしていた。
「じゃあね、バイバイ」
「バイバイ」
手を振る相手に、手を振り返す。続ける言葉を、「元気でね」じゃ変だし、「またね」じゃいつもの帰り道みたいだし、と考えて、相応しい言葉を探し出す。
「またいつか!」
「うん、またいつか。会えた時、どんな風に生きてきたのか教えて」
頷いて、笑顔で手を振った。
いつか会えたら、胸を張って人生を語れるように。羨ましがられるような、幸せに満ちた時間を生きていけるように。
ふわりと舞い上がった光が、シャボン玉のように消える。それで、魂が天に還ったのだと悟った。もう、この世にいないのだと。
そう思ったら、涙が堰を切ったように溢れて来た。もう涙を見せられない相手はいない。隠す必要のない涙をボロボロとこぼした。少し離れたところで自分たちを見守っていた青年は、何も言わない。下手な慰めの言葉を掛けられないことが、今は有り難かった。
ひとしきり泣いて、やがて泣き疲れて嗚咽を呑みこむと、それを待っていたかのように声が掛けられた。
「大丈夫ですか?」
ぽん、と肩に置かれた手が、温かい。
「……大丈夫、じゃ、ない」
正直に答えると、青年は苦笑する。
「そうですよね」
「でも、少し楽になった」
その死を目の当たりにして、どうすることも出来なかった。喪う恐怖に、喪失感に泣いてばかりいた。どうして、どうして。そればかり考えていた。死は誰にも平等に訪れると言う。それなのに、どうしてこうも不公平に訪れるのかと。もっと死んでもいいはずの人はいるのに、奪われたのがどうしてあの人の命なのかと。
その死を悲しんだだけではない。自分が置いて行かれることに恐怖した。そんな自分を蔑んで責めたりもした。
そうして、どこにもやり場のない思いを抱えて、身動きが取れなくなっていた。
「私の時間は、あれからずっと止まっていたの」
周りは、早く立ち直れと無責任に言う。立ち直るって、何? 何から立ち直ればいいの? 混沌とした心では、立ち直る方法なんて思いつかない。
早すぎる世間のスピードについて行けずに取り残されて、立ちつくすどころか、へたり込んで座っているみたいだった。どこにも行けないまま、二度とは会えない背中を見つめているだけだった。
「そういう時間も、必要だったと思いますよ」
青年は、優しく微笑んだ。そんな風に言ってくれる人はいなかった。みんな、早く元気になってとか、頑張れとか、出来っこないことばかり。
「その時間があったから、今、こうして泣きやんだじゃないですか」
「…そうね」
その月日があったから、会えたのかもしれない。
「…少し、前に進めそうな気がするわ」
こうして会えて、お互いの気持ちを言い合って。喪うことには変わりがないのに、いつか会おうと約束しただけで、少しは救われた気がした。
「最初は、嘘でもいいと思うんです」
青年は諭すような優しい声音で続ける。
「嘘でもいいんですよ。嘘でも前へ、進めれば」
不思議な青年だと思った。立ち上がろうとしている自分の背をそっと押してくれる。勢い込んでつんのめってしまわないように、そっと優しく。私が、私の意思でちゃんと歩いていけるように。
「ありがとう、桜沢くん」
お礼を言えば、にこりと優しい笑顔が返って来た。
「どういたしまして」
そう答えて、英知は頭を下げて踵を返す。自分にできる手助けは、二人を会わせるところまで。あとは、彼女が自分で立ち上がるだろう。
その足で、自分の力で立って。一歩を踏み出す時が、いつか来るだろう。それがいつになるかはわからないけれど、その時には、きっと、手を取って支えてくれる人が隣にいるだろう。
寺の住職である父を頼ってきた女性が立ち直るのを手伝うことになった英知は、無事に彼女が立ち上がれそうで安堵した。彼女の目は前を見ることができる。時間は掛かっても、前に進むことができるだろう。人に力を分けることは、相変わらず体力を消耗するが、今は心地よい倦怠感でもあった。
小さなあくびを催す特有の眠気を噛み殺して、足早に待ち合わせの場所へと向かう。
「凪」
名前を呼ぶと、既に待ち合わせ場所に来ていた凪が顔を上げる。
「桜沢さん」
「遅れてごめん」
先に少し遅れることは連絡してあったが、英知は改めて謝った。
「ううん、大丈夫。…また、依頼?」
「うん、まあ、ちょっとね」
英知はいつも言葉を濁して詳しく話そうとはしないが、凪にはその理由がわかっていた。 英知が待ち合わせに遅れる理由は、いつも同じだ。飛び込みで切羽詰まった人が英知の家である寺に相談に来て、それを解決する方法が英知にしかない時に、彼がそれを引き受けているのだ。
何の得にもならない役回りを引き受けて、体力や心を消耗する英知を、以前は何てお人好しなんだと呆れてもいた。けれど今は、それもひっくるめて英知だと、抱き締めたい気持ちになる。
ただし凪はそれを行動には移さずに、「ほんとにごめんね」と再び謝る英知に「ううん、勉強してたから大丈夫よ」と笑顔で首を左右に振り、手に持っていた英語の問題集をバッグにしまった。
「デートなのに勉強してたの?」
そもそもデートなのに問題集をバッグに入れている準備のよすぎる凪がおかしくて、英知は笑う。
「桜沢さんは忘れてるかもしれないけど、私は受験生なのよ」
姫大志望の凪だが、実はW大も視野に入れて受験勉強をしていることは、まだ英知には内緒だ。
「俺、いつまで“桜沢さん”なのかな?」
英知に“凪”と呼ばれるようになって、心の中では“英知くん”と呼んでいる凪だが、今さら呼び方を変えるのが恥ずかしくてそのままにしていた。
「えっ? あ、……英知くん」
英知に促されて言い直すと、英知は満足げに微笑んだ。
「よくできました」
ついでのように自然な動きで、英知は凪の唇にキスを落とす。
「…っ!?」
固まって、耳まで赤く染め上げているであろう凪の顔が簡単に想像できて、英知の口角がわずかに上がる。
凪とのキスは、いつも心地よい静寂に包まれる。意識して耳を塞がなくても、絶え間ない潮騒のような声は聞こえない。凪の霊を寄せ付けない体質が作用するのか、英知にも声が聞こえなくなるのだ。そのことに気付いた最初のキスの時、驚いて思わず確かめてしまった。凪に触れた瞬間に声は消えて、互いの息遣いと心臓の音だけが聞こえる。
重なるように鳴る二つの鼓動が、これから共に生きる時間を刻む振り子のように、耳の奥で確かな音を響かせていた。
───直緒。君を忘れるわけじゃない。
だけど、これから生きて行く、いくつもの季節の中で、遠い思い出になるだろう。
それはまるで、きらめきを残して、去りゆく夏のように。
また夏になれば、思い出すだろう。君との時間。君への想い。
───君は去りゆく夏だった。
俺は、その背中を見送って、新しい季節を生きる。
共に歩いてくれる、大切な人と。
これから夏が始まる時期に夏が終わる話をUPするという。。。
過去に自サイトで公開していたものを再掲載したため、このような時期になりました。
『S.O.S!』を書いている最中に東日本大震災が起こり、あまりの衝撃に、死を扱う作品をエンターテインメントとして書いてよいものか迷いましたが、英知が少しずつ前に進むことで、少しでも救いがあればと思い、続きを書いた記憶があります。
今読み返すと、英知の死者への対応だったりが一貫していなくて、矛盾しているような気もする箇所もあるのですが、あえてそのままにしました。ずっと考えて迷っている英知の態度が一貫していないほうが、むしろ英知の心の揺れを現すのではないかと。
単に私のズボラさからくる齟齬とも言えますが。
この作品が、エンターテインメント作品として少しでも気に入っていただけたら幸いです。




