幾千の花 4
会いたい。会いたい、会いたい。何度、呪文のように唱えたかわからない。会いたくて、会いたくて、気が狂うかと思った。
けれど、月日が経ち、彼女が思い出になり始めると、狂おしいほどの想いはスープが冷めていくように、少しずつ熱を失っていった。それは、心変わりなのか、あるいは諦めなのか。彼女のいない人生を、受け入れてしまっている。
エリオットは、空を仰ぐように目をつぶり、小さく答えた。
「───会いたい」
それでも、愛しい人を想うシーンで、悲しみを伴うシーンで、エリオットが想うのは彼女だった。彼女を思い浮かべれば、恋人に向ける笑顔も、愛しい人を喪った悲しみも表現できた。
「エーチ、彼女は、日本のどこかにいるんだろうか?」
エリオットの青い瞳がひたと英知を見つめる。懇願するような目に、セレナが自分の力のことをエリオットに言ったわけではなさそうだが、こういうことも考慮しての人選だったのだろうと英知は推測する。
凪が英知の手をギュッと握った。おそらく、凪にも、英知の感覚にシンクロして彼女が見えたのだろう。
エリオットの隣で、心配気に彼を見遣る、美しい女性。
言われなくても、彼女がエリオットの恋人だとわかった。魂が──霊と呼ばれる存在が、どれほどの距離を移動できるのか、英知も知らないが、こうして心を残した人を探し当てることはできるようだ。
彼女は、ゆるゆると静かに首を横に振る。
「そろそろ花火が始まるから、行こうか」
話題を変えるように英知が提案した。どこで見るのかと尋ねるエリオットに、英知はいい場所があると案内を始める。
「エルみたいに目立つ人と一緒だと、人込みで見るのは大変だから」
みんな花火で浮かれているせいか、花火会場に外国人がいることを気にすることも、ましてやそれが目を瞠るほどの美貌だということも、あまり気に留めていないようだが、彼がエリオットだとバレたら面倒だ。セレナには簡単に場所を説明してあるし、わからなかった電話するようにと言ってある。
英知は、凪とエリオットを伴って、神社脇の小路を入って行く。去年、夏樹とエリカを案内した場所だと凪は察した。足場の悪い道を登り切ると、小高い丘の上に出る。開けた視界に、眼下に花火会場が見える。三人は柵に沿って並んだ。
三人がここに着くのを待っていたかのように、花火大会が始まった。ヒューッと高い音を上げて空へ昇った光の筋は、少しの間を置いて、大きく花開く。ドオン、と鼓膜を叩く音が腹の底から体中を揺らす。
立て続けに上げられる光の花々に、エリオットは声を上げるのも忘れて見入っていた。赤、青、緑、金の星、銀の星、鮮やかな色で作られるまん丸の花は、話に聞いていたよりも大迫力で美しかった。
「Wow…」
口から出るのは、美しいでもBeautifulでもWonderfulでもなくて、ただ溜息のような感嘆の声だった。
次々と夜空に咲く菊や牡丹。あまりの美しさにエリオットは涙を零した。感動屋の彼を揶揄して彼女が言った「感動して泣くわよ」という言葉どおりに。エリオットは眼鏡を外して涙を拭い、再び夜空に目を向けた。その花たちを目に焼き付けるように、瞬きさえ忘れてしまったように見上げていた。
その隣に、そっと寄り添う姿が、英知と凪には見えていた。背の高い彼を宥めるように腰を抱いて、彼と一緒に花火を見つめる。その美しい人の頬にも、エリオットと同様に涙が流れている。二人とも、もはや涙を拭うことも忘れて夜空に咲く花々に見入っていた。
少し離れた位置で、英知と凪も空を見上げる。光っては消えて行く、幾千もの花。大きな音は彼の嗚咽も隠してくれる。光と闇、轟音と静寂とを繰り返して、花火は次々と夜空に打ち上げられていく。
「…エーチ」
それまで黙っていたエリオットが、轟音の合間を縫って声を出した。
「彼女は、この美しい花を見ているかな」
「──そうだね、きっと、どこかで見てるよ」
たとえば、エルの隣とか。
英知の言葉にしなかった声が聞こえたわけではないだろうが、エリオットは柵に置いていた手を、自分の左隣に少しずらした。それはまるで、隣に寄り添う彼女の手に重ねるように。
凪は泣きそうになって、英知の肩に額を寄せた。英知が強く凪の手を握る。
「……どうして、教えてあげないの?」
エルの隣には、彼女がいるって。会いたいと願っていた彼女が、今すぐそばにいるのに。それが彼には見えないなんて。彼が自分を見えないことを知りながら、彼女はああして寄り添っているのに。
「彼女は会うことを望んでいない。俺が手を貸すのは、互いが会いたいと思っている時だけ」
凪の問いに英知は小さな声で答える。それは、英知のけじめでもあった。むやみに生者と死者を会わせるべきではない。だから英知は、まだ一度もエリオットに触れていない。万一彼が感受性の強い体質なら、英知に触れただけで彼女が見えるようになってしまうかもしれない。
会わなくていいのか、と視線で問いかけた英知に、彼女は首を横に振ったのだ。会わない、と彼女の眼が言っていた。頑なとも思える彼女の決意に、英知は異を唱えることはしなかった。
やがて、エリオットの隣にいた彼女が、英知と凪の元へやって来た。
「…会わなくても、いいの?」
英知の問いに、やはり彼女は頷く。
「私は、彼と離れるために日本に帰ってきたんだもの。今会ったら、元も子もないわ」
自分の病を知った時、自分の命の残り時間を知った時、彼女を襲ったのは絶望だった。憧れの舞台にはもう立てない。それより何より、エリオットの成功をこの目で見届けられない。スターへの階段を上って行く彼を見守ることも許されない。
だから、彼と離れ日本に帰った。そして彼に知られぬまま息を引き取り、そのまま消えてしまおうと思った。それでも、彼女をこの世に引き止めたものは、彼が自分を想ってくれているという思いだった。
でも、それも今日でおしまい。
「彼は、私のいない人生を歩き始めている。だから、もう会わない」
エルが私を忘れて恋人を作るなら、それでもいいの。幸せになって欲しいから。生きている時は、好きな人が幸せならそれでいいなんて、そんなお人好しなことは思わなかったけど、私が幸せにできないなら、誰かの手を借りるしかないじゃない。
「きっと彼は、花火を見る度に私を思い出してくれるわ。それで十分」
だから、もう行くわ、と彼女は微笑んだ。
「機会があったら、彼に伝えて。大好きだったけど、私のことはもう忘れていいのよって」
踵を返した彼女はエリオットの元に戻り、その頬に彼に気付かれないほど小さくキスをした。それから、夜空に咲く花火に溶けるように消えた。
「…ああ、キレイだ。今の花火が一番好きだ」
エリオットは熱に浮かされたように呟き、凪の涙を誘った。
「エル、日本では、花火は鎮魂のために上げられるんだよ」
海外でも、花火が鎮魂の意味を持つらしいことは聞いたことがある。だが、日本の夏に上がる花火は、お盆や、水供養と相まって、より強い意味を持つ。
「人が亡くなることを、星になるとか、天に還るとか言うけど、空に手向ける花なのかもしれないね」
英知の言葉にエリオットは頷く。
「じゃあ、これは、ぼくから彼女へ贈る花だ。抱えきれないほど、たくさんの大きな花」
死者に花を手向けるのは、日本でも欧米でも変わらない。エリオットの想いは、彼女に届いているだろう。
天に届けられる、幾千もの光の花。
「それを受け取ったら、彼女はきっとこう言うよ。“私のことはもう忘れていいのよ”って」
英知が伝えた彼女の言葉に、エリオットは泣き笑いの表情を見せた。
忘れようと思ったことなど、一度もなかった。彼女はいつまでも自分の心の中にいるのだと。だけど、時が経つにつれ、彼女のことを考える時間が減って行く。仕事が忙しくなればそれに紛れて。魅力的な女性に出会えば、その陰に隠れて。少しずつ彼女の記憶を思い出の箱の中に閉じ込めようとしている自分に、罪悪感を抱いていた。まるでそれを見透かしたような言葉。
直感でわかった。ああ、これは、彼女の言葉だ。彼女はきっとこう言うに違いない。
『エル、大好きだったけど、私のことはもう忘れていいのよ』




