幾千の花 2
友人たちのおせっかいな言葉により、凪は非常に困っていた。花火大会に、誘うべきだろうか。誘ってもいいものだろうか。それは、この人を困らせたりしないだろうか。つらい想いをさせたりしないだろうか?
英知と一緒に区立図書館に向かう間も、そればかりを考えてしまっていた。
「佐原さん?」
怪訝そうな英知の声が掛けられる。
「ここ、間違ってるよ。この間やった問題だけど」
「あっ、ごめんなさい」
勉強中にまでそんなことを考えてしまう自分を凪は恥じた。好意で勉強を教えてもらっておいて、身が入らないなんて、何て失礼なんだろう。
「どうしたの? 体調悪い?」
心配してくれる英知に、ますます申し訳ない気持ちになる。不意に、熱でもあるのかと思ったらしい英知の手が凪の額に触れて、体温が一気に上がる。
「…っあの、花火大会に、一緒に行きたいんだけどっ」
思いの外大きな声が出て、慌てて凪は口を押さえる。ここが図書館ということもあり、凪の声は辺りに聞こえてしまったようだ。恥ずかしさで、ますます顔が赤くなる。
ちらりと上目づかいに英知を見遣れば、少々驚いたように目を丸くしていた。ああ、やっぱり言わなければよかった、と思い始めた凪に英知の声が降る。
「うん、いいよ」
意外にもあっさりと返された了承の言葉に、凪は目をまたたく。
「もしかして、それ言いたくて、ずっと挙動不審だったの?」
ぷ、と小さく英知が噴き出す。
「可愛いなぁ」
くしゃくしゃと凪の髪をかき混ぜて、英知は優しい笑みを漏らす。その笑みの中に、苦さや辛さの影がありはしないかと凪は目を凝らすが、見つけられそうな気はしなかった。
はぁ~っ、と凪は大きな溜息を吐き出す。本日何度目になるかわからない溜息に、凪は自分で「ダメダメ、幸せが逃げるから」と言い聞かせる。
「すっげー溜息。どしたの、凪ちゃん?」
不意に背後から声を掛けられて、凪はビクリと肩を揺らす。
「…大智くん」
振り返れば、思った通りの顔があった。にもかかわらず、耳馴染みのある声に似ていたために、一瞬大智以外の顔を思い浮かべてしまった自分が情けない。会えば気まずいと思ってしまうのに、会えると嬉しいと思うとは、これいかに。
学校で補講を終え、友人たちと図書館で別れた後、問題集でも買おうと書店に立ち寄った凪は、そこで凪と同じように高校の制服を着た英知の弟に会った。今日は学内選考前の模試だったのだという。彼の手には、東京近郊のイベント情報誌がある。
「…常盤高は、大学までエスカレーターだっけ」
凪の呟きに、大智は自分の手にある雑誌と、凪が持つ問題集を見比べる。
「あー、一応学内選考はあるけど、相当ヘマしないかぎりは推薦で行けるから」
高校生活最後の夏休みの思い出作りに、友達と行こうってなって、と大智は言い、凪ちゃんも受験勉強の合間に行くといいよ、兄貴と、とご親切に余計なことまで言ってくれる。
イベント情報誌の表紙には花火の写真が大きく載っており、それを見つめて凪は黙ってしまった。
「凪ちゃん? 兄貴と何かあった?」
ううん、と凪は首を振る。
「…花火大会、一緒に行ってくれるって言うんだけど、大丈夫かな?」
少しの間、意味を理解するのに要したらしい大智は沈黙したままだった。
花火大会の何を凪が心配しているのか、わからない大智ではない。英知が直緒と行った最後のデートが花火大会だったのだ。当時中学一年生だった大智は、英知と直緒が付き合っていたことも、その後、直緒が亡くなったことも知っていた。
少し前、中学時代に英知のクラスメイトだったという女子大学生から学内で声を掛けられたことがある。「桜沢くんの弟よね?」と確認すると、彼女は自己紹介した。その名前が、兄のクラスの委員長だったことくらいは大智も覚えていた。
「桜沢くん、元気? 彼女とうまく行ってそう?」
唐突な質問に怪訝な顔をする大智に、彼女は「この間、ちょっと会ってね」と説明した。彼女は現在常盤大に通っており、常盤高のテニス部OGで、高校の女子テニス部のコーチをしているのだという。そのテニス部の練習試合に、相手校のコーチとして英知が来ていたことで、中学卒業以来に会ったとのことだった。
「元気ですよ。彼女とも、たぶんうまく行ってます」
大智が答えると、彼女は「良かった」とあからさまにほっとした様子だった。
「あの、兄が、何か?」
「ううん、これは、何ていうか、クラスメイトとしての反省っていうか」
直緒のことは、知ってる?と聞かれたので大智は頷いた。
「彼女が亡くなった後、夏休みが開けて登校してきた桜沢くんは、すごく普通だったの。まるで、彼女がいた時と同じように笑って」
それが、兄の努力の結果なのだと大智は知っていた。彼女の死後、しばらくは、英知は口角を持ち上げるだけの笑顔しか見せなかった。それが、祖父の家に預けられ、半月程して家に帰って来た時には、今までどおりの笑顔を見せるようになっていた。
「桜沢くんは、みんなに気を使わせないようにそうしていたんだと思うの。でも、私たち、どうしていいかわからなくて」
英知と直緒のことは、クラス全員が知っていたから、中学生なりに英知に同情もしていた。
「腫れものを扱うみたいに接してしまって。それが原因なのかわからないけど、結局桜沢くん、学外の高校へ進んだから、ちょっと気になってて」
常盤大付属は、幼稚園から高校まで、ほぼエスカレーターだ。大学も、赤点を取ったり素行が悪かったりしない限りは、学内選考で上がれる。中学まで常盤大付属に通っていた者で、外部の高校を受験するのは少数派なのだ。
「気にすること、ないと思います。たぶん兄は、進路のこととか考えて選んだだけだと思うから」
大智に英知の考えはわからない。W大に進学したのも、常盤大には中学の同級生が多くいるからなのかもしれない。だけど、英知が自分の進路を悔やんだ様子もない。だから、それは兄が自分で決めた道なのだろう。
大智の言葉に彼女は安心したようで、「引き止めてごめんね」と去って行った。でも、大智には、中学の同級生が今でも心配するくらい、当時の英知が普通ではなかったのだと思えた。
あの時、本当に英兄がどこか遠くへ消えてしまいそうだった。自分とは違う世界にいるみたいで、怖かった。
それくらい、彼女の死は、英知にとって大きな出来事だったのだ。
それをわかっているから、凪も花火大会に誘っても大丈夫だったかと心配するのだろう。英知のクラスメイトとの会話については一切口にしないことに決めて、大智は口を開いた。
「大丈夫だよ、凪ちゃん。兄貴が行くって言ったんなら、大丈夫なんだ」
兄は、過去ではなくて、新しい未来を、彼女と踏み出そうとしている。大智には、そう思えた。
「凪ちゃん、ほら、他にもいろいろイベントあるから、夏休みのうちに兄貴といっぱい行きなよ」
そう言って、大智はイベント情報誌を凪に向けてパラパラとめくって見せる。その中のページに目を留めて、凪が呟く。
「あれ、この人…」
紙面上で金髪碧眼の若者が微笑んでいる。
「ああ、エリオット・ニコルソン? 初来日だって」
そこには、近日日本公開予定の映画のキャンペーンで来日したと書かれていた。
───エリオット、日本でやってみたいことは?
───花火大会に行きたいな。日本の花火はすごいって聞いたからね。




