幾千の花 1
インターハイ予選を終えて部活を引退した三年生に待っているのは、受験勉強の日々だ。夏休みに入るとそれは本格化し、毎日受験用の補講が組まれていた。
凪の通う姫乃木女子大学付属高等学校は、姫乃木女子大学の付属高校とはいえ、単純にエスカレーター式に進学できるということではない。姫乃木女子大学自体が難易度の高い大学であるため外部からの進学者も多く、学内枠があるとはいえ、それは少数で、学内で進学するためにも試験に合格しなければならないのだ。
また、姫大付属の生徒は他大学を受験する生徒も多くいる。そういう生徒たちのためにも夏休みには補講が行われている。それ以外に予備校や塾に通っている生徒も多くいたが、塾に通っていない凪にとっては、補講は有り難いものだった。
補講が終わり、凪は友人たちと一緒に校舎を出た。友人たちは大学付属の図書館に向かっている。高校にも一応図書室はあるが、大学の図書館は冷房が効いていて、自習室も完備されているため、多くの生徒は大学の図書館を利用していた。しかも、自分たちが目指す姫大生がたくさんいるのだ。目標を目の前にしていい刺激にもなるだろう。
「あ、私、今日は図書館には寄らないから…」
いつもは凪も一緒に図書館に行っているのだが、この日はその手前で足を止めた。一緒に立ち止まった友人たちが「用事?」と訊いてくる。曖昧に頷いた凪のほうへ、部活の後輩たちが歩いてきた。
「千早先輩、凪先輩、こんにちは。お疲れ様です」
部活が終わったらしい後輩たちが次々とテニスコートから出て来た。千早と凪は通り過ぎる後輩たちに「おつかれ」と声を掛けてやり過ごす。高校の校舎と図書館の間にテニスコートがあるのだ。
ニヤリと笑った千早が、「はっはーん」と凪を見遣った。
「なるほどー。英知くんと待ち合わせね。で、これからデート?」
千早や凪が部活を引退した後も、英知たちは時々部活のコーチに来ている。今テニス部の部活が終わったところなら、コーチをしている英知の手も今空いたということだ。
「ちっ、違うわよ! ただ、勉強教えてもらってるだけで…」
ニマニマと広がる友人たちの不気味な笑顔に、凪の声は小さくなる。千早と理子は英知のことを知っているから今さらだが、他の友人にまで余計なことを言われてはかなわない。
「じゃ、私先に帰るから」
凪はその場から逃げるように足早に歩き出した。
「佐原さん?」
タイミング良くと言うべきか、凪にとってはある意味ドンピシャのバッドタイミングで声が掛けられる。顔など見なくても、その声の主はわかるが、渋々凪は振り向いた。
テニスコートからゆったりとした足取りでこちらへやってくるのは、テニスウエアに身を包んだ英知だった。細く見えるが筋肉質な体に汗でTシャツが貼りつき、均整の取れた筋肉の所在を主張している。もともとテニスプレイヤーとは思えないほど色白な英知だが、汗で濡れたにもかかわらず白いその顔は涼しげで、そのギャップに女子高生たちはドキリとするとかしないとか。
「えっ、あれが凪のカレ?」
「ちょっと、カッコいいじゃん」
という友人たちの囁きを背後に聞きつつ、凪はちらりと英知に目を遣る。テニスウエア姿の英知など、凪は見慣れているはずだった。なのに、カッコいいとか思ってしまう自分が悔しい。いや、違うのよ。プレー中の桜沢さんは、誰が見たってカッコいいのよ。だってあんなに上手いんだから、と凪は自分に言い聞かせる。
「もしかして、俺を置いて帰るつもりだった?」
優しい笑顔で揶揄するように言われて、凪は言葉に詰まる。置いて帰ろうとしたのが図星な上に、その物言いが親しい者へ向けられるものだったからだ。
「そ…そんなんじゃ…」
誤魔化すために凪は否定の言葉を口にする。英知とは、親しくないわけではない。ただ、そんな風に友達や恋人のような会話を交わす間柄でもないと自覚しているだけだ。
「着替えてくるから、待ってて」
ふわりと微笑んだ英知が、凪の返事を聞かずに通り過ぎて行く。返事を待つまでもないと見透かされているのだろうか。凪がこのまま帰ってしまうなどするはずがないのだから。悔しそうに凪は英知の背中を見送った。
「馴れ初めは?」などと訊いてくる友人たちに「テニス部のコーチに来てて」などと千早が勝手に凪の代わりに答えている。
「ね、いつから付き合ってるの?」
「だから、付き合ってないってば!」
キャイキャイと女子高生らしくはしゃぐ友人たちに凪は一喝する。「ええ~?」と友人たちは不満げな声を上げるが、付き合っていないのは事実なのだ。
「ねえ、凪。桜沢さんには、どれくらいの頻度で会ってるの?」
理子が首を傾げて尋ねた。
「……たまに、……週二、三回くらい、区立の図書館で、勉強教えてもらったり…」
時々一緒に出かけることもあるが、火に油なので黙っておく。
「それはたまにって言わないわよ。部活を引退した凪をそんなに気に掛けて、桜沢さんの様子を見れば、凪を特別扱いしてるのは一目瞭然なのに、何で凪はそんなに頑ななの?」
前に理子が「付き合ってるんでしょ?」と訊いた時も凪は全力で否定していた。その時は、確か英知には他に好きな人がいるというようなことを言っていた。
「なーぎー?」
促されるように理子に名前を呼ばれて、凪は口の中でごにょごにょと小さく呟く。
「……だって、何にも言われてないし……」
「はぁ?」
今度は声を上げたのは千早だった。
「英知くん、凪に何にも言ってないの? わかった。大樹くん経由でちゃんと言うように言っておく」
「千早!」
止めようとする凪に、千早はさらに言う。
「あのねえ、本人たちは気付いてないのかもしれないけど、どう考えたって、英知くんは凪を特別視してるの。大樹くんたちが言ってた。社交的なくせに女子とは一線引いてる英知くんが、壁を作らない女の子は凪だけだって」
それは、私が霊を寄せ付けない体質だから。と凪は心の中で答える。英知は、人に自分の力を分け与えることを意図的にしながら、一方で、他人に不用意に自分の力が伝染することを恐れている節がある。だから人との接触には注意をしているようだが、凪には簡単に触れてくる。それは、自分の力が伝染しても、凪には悪影響がないからなのだろう。
そんな風には説明するわけにもいかない凪は、黙ってしまう。それをどう受け取ったのか、理子が諭すように声を掛けた。
「ねえ、自分から言ってみたら?」
「え?」
「桜沢さんだって、凪のことを何とも思ってないわけじゃないと思うよ」
じゃなきゃ、あんな風に優しくしてくれないって、と理子は言い聞かせる。英知が優しいのは誰にだって平等だと言う凪に、理子は「凪相手だから優しいんだって」と言い続けて来た。
「凪が『好き』って言えば、受け止めてくれるんじゃないの?」
「……っそ、そんなこと……」
できるわけがない。言えば、相手が困るのを知っていて、そんなこと、言えるわけがない。あの人は、今でも直緒さんのことを好きなのだ。彼女に会いたくて会いたくて、探し続けていたくらいに。
黙ってうつむいてしまった凪に、理子は「告白が無理でもさ」と譲歩した。
「今度の花火大会、誘ってみたら?」
浴衣とか着て行けば、凪の可愛さにノックアウトだって、と千早が茶化す。
「花火…大会…」
誘っても、いいのだろうか? 凪は逡巡する。きっと、英知にとって花火大会は簡単には消えない心の影だ。去年、テニス部のみんなとコーチたちと花火大会に行った時、最初英知は行くことをためらっていたように見えた。その理由を知る今、自分が誘ってもよいものだろうかと凪は戸惑う。
「佐原さん、お待たせ」
そこへ、英知の朗らかな声がして、凪は思考を停めて顔を上げた。
2012年初出。




