ワンモアチャンス 1
たらればを、言い出したらきりがない。
あの時、ああしていたら。
あの時、あんなことを言わなければ。
気付いた時には、いつでも遅すぎて、まるで後悔が友人のように寄り添っている。
佐原 凪は、振り返って首を傾げた。
物言いたげにこちらを見ている少年に、見覚えがある。だが、凪に声は聞こえない。凪以外の人間には、ほとんど気配を感じられていないということは、“あちら”の人間なのだろう。凪には恐怖はない。相手が自分に危害を加えるつもりがないことは、気配でわかる。だが、何か言いたそうなその目が、何も聞けない自分を申し訳ない思いにさせた。
話しかけたところで、相手の声が聞こえるわけもない。だから、こういう場合、凪は申し訳なく思いながらも、見えないふりを通すのだった。
だけど、あの人なら、この声が聞こえるのかもしれない。
そう考えて、だけど、あの人に声を聞かせるのは酷なことなのだろうとも考えた。人の好いあの人は、すぐに頼まれごとをされて、それを受け入れながらも、どこかいつも辛そうにしている。それをわかっている自分が、わざわざ厄介事を持ち込むわけにはいかない。
そう思っていたのだが、部活のコーチに来ていた桜沢 英知に、その少年が何やら話しかけているようで、凪は気になる。いつもなら、凪は英知の側にいけば英知の感覚とシンクロして声を聞くことができるのだが、何故か少年の声は聞こえなかった。
「…桜沢さん、その人、何て言ってるの?」
ついに我慢しきれずに訊いてみる。
「え?」
きょとんとした顔で英知が凪を見つめた。
「だから、その…」
凪が指差した、おそらく他人には何も見えないであろう空間を英知は見やり、それから、首を傾げて見せた。
「何のこと?」
「え、だから、そこに人が…」
「何も見えないけど?」
「嘘…」
凪よりも感覚の鋭い──いわば霊感の強い英知が、凪に見えるものが見えないなんてことがあるのだろうか。
「……よく見て。いるでしょ、私と同じくらいの年の男の子…」
英知は凪の言葉に従ったが、やはり見えない様子で首を傾げた。
「気のせいじゃないの、佐原さん?」
「え、そう…?」
「そうだよ。たぶん、疲れてるんじゃない?」
ぽん、と軽く肩を叩かれて、何となく納得いかないながらも、英知の微笑に押し黙る。それから、ふと視線を動かして、少年がいたはずの場所を見ると、何も見えなくなっていた。何度目を凝らして見ても、感覚を研ぎ澄ませてみても、もはや凪には何も見えない。ということは、英知の言うとおり気のせいだったのだろうか?
部活が終わり、同級生と帰って行く凪と別れて、英知は一人歩き出した。
「……どういうつもりだ?」
低い声がすごむように問い質す。
「何のこと?」
だが、英知は平然と問い返す。
「何で見えないふりをした? 凪が俺のこと見えるって言った時、あんただって見えてたんだろ?」
その証拠に、今は自分と会話しているではないか。
「……凪?」
ずいぶんと親しげなその呼び方に、英知は足を止めて片眉をわずかに上げる。その言外の意味が伝わったのか、少年は説明した。
「中学の時、同じクラスだったんだよ」
「ふうん」
気のない返事をして、英知は再び歩き出す。
「あんたこそ、凪の何なんだよ?」
凪が所属するテニス部にコーチにやって来たこの男は、親しげに凪に話しかけ、凪も熱心に男の指導を受けていた。それに、自分のことを気にしていた凪が、この男に自分のことを相談しようとしたのだ。それが少年は気に入らない。
この男に、自分が見えているのだということは、男の視線で分かった。凪の後ろにいた自分に、男は鋭い視線を投げかけていた。それなのに、見えないふりをするなんて、きっと自分に対する挑戦だ。
「それに、あの後凪は俺が見えなくなったみたいだ。あんた、凪に何をした?」
それまで、時折自分に向けられていた凪の視線が、この男と話した後は向けられなくなった。もう彼女は、自分の気配を感じることもないようだった。
「…別に、何も?」
自分が何を言っても、男が慌てる様子はない。その余裕が癪に障った。だが、凪に自分の声が聞こえない今、おそらくは平然と自分と話が出来るこの男に頼らざるを得ないのだ。
「──あんたなら、俺の声を凪に届けることができるんだろ?」
少年は、英知の能力をすべて知っているわけではなかったから、英知が直接自分の声を凪に届けられるとは期待していなかった。だが、少なくとも、──少々癪だが、この男の口から、凪へ伝えることができるのはわかっていた。
「頼むよ、凪に伝えて欲しい」
「断る」
にべもなく、男は断った。きっぱりと、ためらいなく。
「なっ…何でだよ!? あんたは、俺の声が聞こえるんだろ? 俺の言葉を伝えるだけでいいんだって」
男を睨みつけると、男も真っ直ぐに見つめ返して来た。
「──佐原さんに、何を言うつもり?」
色素の薄い瞳から放たれる視線は、少年を探るようでいて、既に何もかもを見透かしているようでもあった。
「当てようか?」
少年が言葉に詰まって沈黙したのを意に介さないように、英知は淡々と続けた。
「佐原さんのことが好きだ──って、そう、言うつもりでしょ?」
図星を指されて、少年は羞恥が込み上げるのを感じた。カッと頬が熱くなった気がする。この状態では、もうそういう感覚はないはずなのだが。
「わ、わかってるなら、何で…」
自分の気持ちを知っているのなら、ことさらにそれを暴くようなことを言わなくてもいいのに。本当にいけ好かない男だ。
「悪いかよ。言えなかった言葉を、最後に好きな女に伝えるくらい、いいだろ」
半ばやけくそになって少年は言い募った。
「気持ちを伝えて、君はそれで満足かもしれない。でも、残された佐原さんは、どうするの? 君の気持ちを知って、彼女が何も思わないとでも?」
生きている人間からの想いは、いつか変化するかもしれない。けれど、死者の想いは、永遠だ。
───死は、想いを永遠にする。
応えることも、断ることも出来ない想いをぶつけられて、残された人間は、それをどう抱えたらいいのだろう?
「だから、君の想いを伝えることは、できない」
2011初出、2019改稿。




