孤独のランナー 2
少年は、パジャマ姿だった。入院患者だろう。けれど、その割には健康的に日焼けをしていた。細身だが背の高い少年の身体は、しなやかな筋肉がパジャマを通して見えた。
「気分でも悪いの?」
英知が観察するように少年をじっと見つめていると、少年は気遣うように英知を覗き込んだ。
「…もう大丈夫。ありがとう」
英知は少年に礼を言って、微笑んで見せた。
そして階段を昇り出す。その足取りは確かなものだった。次の階へ着き、さらにもう一階昇ろうと曲がると、上から降りて来る足音が聞こえた。
「あ、いた」
聞き覚えのある声が降ってくる。
「なかなか戻って来ないから、迷子にでもなったのかと思った」
階段を降りてくる凪の姿に、英知はほっと息を吐き出した。階段を上がって凪に並ぶと、凪が向きを変えて一緒に昇り始める。
「雄太に頼まれたものが、なかなか見つからなくて」
と言い訳をすると、何買ったの?と凪は袋の中を覗き込み、「まったく男って…」と呆れたように呟いた。
隣を歩く凪の肩と、そこに掛かる長い黒い髪を眺めながら、英知は自分がひどく安心していることに気がついた。発作が起きなかったのはあの少年のお陰だが、耳鳴りが完全に消えたのは凪の姿を見た時だ。
「…ありがとう」
突然英知が発した感謝の言葉に、凪は「え?」と怪訝な顔で英知を見上げた。
「捜しに来てくれて。佐原さん、俺を心配してくれたんでしょ?」
「べっ…別に、心配なんかしてないわよ」
つっけんどんに言って、顔を背ける凪の頬が赤く染まっているのを見て、可愛いな、と素直に英知は思う。このままこの感情が彼女へと向かうものになって、自分を覆い尽くして、そして───忘れられればいいのに。
そうしたら、直緒は、───どんな顔を、するだろうか?
雄太が退院する日には、みんなで病院へ行った。お見舞いというか、退院祝いにみんなで迎えに行こうと千早たちが提案したのだ。英知も凪もそれに賛同した。今日は一緒にお見舞いに来られなかった大樹や健吾も一緒だ。
迎えに行くとは言っても、実際は、両親に連れられて家に帰る雄太を病院の玄関で見送ることになる。多くの友達が雄太を心配して来てくれたことを、雄太の両親は喜んでいた。
雄太を見送ったあと、どこかに寄って行こうかと話している大樹たちに、少し用事があるから、と英知は病院の玄関先で別れた。
そして、その足で病院の裏口から再び病院の中に入る。エレベーターホールへ行き、慣れた様子でエレベーターに乗り込む。そして、何人かの人がエレベーターに乗り降りをして、最後に英知が降りた。そこから、英知は廊下を少し歩いて階段へ向かう。病院内を、英知は迷う様子もなく歩く。階段を昇って、鉄製の重いドアを開ける。
強い風が英知の頬を撫ぜ、髪をなぶった。ドアから足を踏み出し、英知は外へ出た。
そこは屋上だった。強い風に眼を細めながら、英知は屋上に置かれたベンチの一つに腰を下ろした。
…もう、ここへ来ることはないと思っていた。
青い空を見上げながら、英知は心の中でひとりごちた。そして、今日このまま帰ってしまえば、もう来ることもないだろうと思ったからこそ、こうしてここへ来たのだ。
それは過去への執着なのか、それとも一歩前へ進めた証拠なのか、英知には自分では判断できなかった。
大丈夫、心は落ち着いている。英知は目を閉じて、空に向かって深く息を吐いた。こんなところで力を解放すれば、取り返しのつかないことになるとわかっている。左手首にはめた淡い水色の数珠をまさぐり、大丈夫、と自分に言い聞かせる。
不意に、背後に気配を感じて、英知は振り向いた。
「あ…」
そこにいた人物に、どこかで落胆していることを自覚して、英知は心の中で苦笑した。
わかっていたことだ。なのに、何を期待しているのだろう?
───もう、会えないと、わかっていることじゃないか。
英知は自分の心を悟られないように、笑顔を作ってそこにいる人物に声を掛けた。
「どうしたの? 俺に何か用事?」
「あ、えっと、……俺のこと、見えるんだよね?」
相手は、今さらとも思えることを確認してきた。英知が話しかけたこと自体、見えているという証拠なのだが、半信半疑といった風だ。
「見えるよ。声も聴こえてる」
英知は、優しく微笑みかけた。それに安堵したように表情を崩したのは、先日、階段で英知に声を掛けてくれた少年だった。
「俺、宮野 祐基」
少年が自己紹介したので、英知も自己紹介を返した。
英知は少年に席を勧めるようにベンチに座る位置を少しずれたが、祐基は座るつもりはないらしく、英知の前に立ったままだった。
「あのさ、伝言、頼まれてくれないかな」
「伝言?」
英知は少年を見上げて、その内容を尋ねた。
「俺、陸上の長距離やってたんだ」
彼が入院していた割には日に焼けた様子であることに合点がいった。日ごろから焼けていた肌は、そう簡単には白くならないものだ。祐基のしなやかな筋肉のついた肉体は、この世を去る前の、健康な頃の彼の姿なのだろう。
彼は、いつからこの病院を彷徨っているのだろうか、と英知はじっと祐基を見つめた。
「友達…っていうか、ライバル、だったんだけど、俺がこんなことになっちゃって、そいつも張り合いがないみたいで、記録が出せないでいるみたいなんだよね」
祐基の話では、彼とライバルは、この辺りでは常に一、二を争ってきたらしい。どちらかが先をいけば、もう一歩がその背を追い、互いの背中を追いかけて、ずっと切磋琢磨してきた。
ところが、祐基は病に倒れてしまい、陸上ができなくなった。それでもライバルは一人頑張っていたようだと友人たちから聞いていたのだが、自分が死んだあと、気になってライバルの様子を見に行った。すると、どうにも調子が上がらない様子で、その理由はもしかしたら、自分にあるのではないかと祐基は考えた。
いつも一緒に競っていた相手が突然この世からいなくなったのだ。自分だったら、いつも追いかけていたその背中が見えなくなって、何を目標に走っていいのかわからなくなってしまいそうだ。
「今、この地区の記録は俺が持ってるんだよね。抜けるとしたら、あいつしかいないと思うんだ」
祐基は真摯な瞳で英知を見つめた。
「だから、『俺の記録を抜けるもんなら抜いてみろ』って、伝えて欲しいんだ」
英知としては、祐基の願いを叶えてあげたい気もした。祐基は、あの時、発作が起きていたら取り返しのつかなかった自分を助けてくれた恩人だ。
「ああ、こんなところにいた」
英知が口を開く前に、屋上のドアが開いて、凪が顔を出した。英知のほうへ足を踏み出した凪は、英知の傍らにいる少年に目を向けて眉をひそめた。
「あんた、また…」
呆れたような声は、その先を音にしなかったけれど、その表情が何を言いたいのか英知には理解できた。




