孤独のランナー 1
白い病室に、賑やかな声が響く。他の患者さんの迷惑にならないようにと声を落とすが、女子高生が何人か集まれば、静かにしろというほうが無理だ。
「大丈夫?」
「うん、まあ、何とか」
「これ、お見舞いのお花と本と雑誌」
水替えが要らないようにと気遣った花籠と、暇つぶし用の文庫本とテニス関連の雑誌だ。
「おお、ありがとう」
自分がコーチを勤める姫乃木女子大学付属高校のテニス部員みんなからのお見舞いを受け取って、相葉 雄太は感動したように感謝の言葉を口にした。
「盲腸で良かったよ。死にそうなこと言ってたから」
同級生で同じテニスサークルに所属し、同様に姫女付属高テニス部のコーチをしている桜沢 英知に言われて、雄太は頷いた。
「いや、そう言うけど、腹痛くて、本当に駄目かと思ったんだよ」
と大げさな感想を漏らす。数日前、突然の腹痛を訴えた雄太は、虫垂炎と診断され、手術を受けたのだ。
入院は一週間程度ということだったが、コーチをしている女子高生たちがお見舞いに来てくれた。さすがに部員全員は無理なので、代表して部長の牧野 千早や副部長の佐原 凪などを中心に数名がやってきた。英知はその引率といった具合だ。同じようにコーチをしているサークル仲間の牧野 大樹と林 健吾は、バイトと重なってしまったため日をずらして来ると言っていた。
「英知、ちょっと」
雄太は手招きし、かがんだ英知の耳に口を寄せた。
「買ってきて欲しい雑誌があるんだけど」
ちらりと英知が視線を向けると、
「母ちゃんに頼むわけにはいかないし、ましてや女子高生には頼めないからさぁ」
と、雄太は照れたように言う。
「…ソレ系は、避けたほうがいいと思うけど。看護師さんはたいてい女の人だし」
小さな声で英知は忠告する。
「いや、そうじゃなくて、マンガ」
それなら、何か欲しい雑誌はないかと訊いた時に言えば良かったのに、という顔を英知はした。お見舞いに来る前に訊いたはずだ。
「ちょっと、女子高生に頼むのは気が引けて」
雄太が口にした雑誌の名前に、英知は納得した。確かにマンガだが、彼女らと同じくらいの年の女の子が水着でグラビアに載っているようなものを頼むのは、確かにためらう。
そんなものを母親に頼めば、あんたはまたこんなものばっかり読んで、と小言を言われそうだ。入院中にまで小言を聞きたくないし、頼みやすいのは男友達ということになる。
「了解。売店で買ってくるよ」
袋に入れてもらえば、みんなの前で渡しても問題ないだろう。英知は病室を出て売店に向かった。
病院の一階には、ジュースの自動販売機、新聞の販売機、お見舞い用の花束の自動販売機と並んで売店がある。パジャマや歯ブラシなど入院に必要な物や、雑誌、パンやおにぎりなどの軽食、ゼリーやアイスなどの菓子類も置いていた。
売店に入ると、以前と少し配置が異なっていて、雑誌の場所を探して英知は視線を巡らせた。
ふと、冷蔵用の棚に並んだプリンに目が止まる。スーパーなどにあるような量産されたものではなく、売店にパンを卸している近所のパン屋が作っている自家製のカスタードプリンだ。
「私ね、このプリンが一番好きなの」
濃厚な卵の風味と、少し苦いカラメルソースが絶妙なのだと、彼女が言っていた。
売店でプリンを買って差し入れると、いつも嬉しそうに顔をほころばせた。「英知くんは、私を太らせる気なの?」と困ったように言うのに、食べるとふにゃりと目を細めて嬉しそうにしていた。
───直緒、どうして───……
ハッと我に返った英知は、プリンから目を逸らし、その反対側の棚に置いてある雑誌を手に取った。レジで無愛想なレジ係が告げた金額を支払い、雑誌の入った袋を手に売店を出た。
急いで階段を昇り、さっきまで必死に思い出さないようにしていたことを、記憶の奥に閉じ込める。
「わっ」
その声と、体に衝撃があったのは同時だった。バサバサッと派手な音を立てて、英知の脇をファイルが落ちて行く。壁に手をついて体のバランスを保ち、うつむいていた顔を上げると、手に持っていたファイルをぶちまけたらしい看護師が目の前にいた。
下を向いていたので彼女が来たのに気付かず、彼女のほうでも顔の前に高く積み上げたファイルで英知が見えていなかったらしい。
「すみません」
謝って、英知は階段や踊り場にまで広がったファイルを拾った。看護師のほうも謝りながらファイルを拾い上げる。
「ごめんなさい、どうもありがとう」
英知が差し出したファイルを受け取って看護師は礼を言った。軽く頭を下げて英知が背を向けようとすると、看護師が「あ」と声を出した。
「…もしかして、英知くん?」
思いがけず名を呼ばれて、英知はあまり目を向けていなかった看護師の顔をまじまじと見返した。
「……紺野さん」
英知にしてみれば、彼女よりは、いくぶんか驚きは少なかった。彼女はこの病院に勤めていたのだし、今もここにいても何ら不思議はない。少し考えれば、彼女とここで出会う可能性だって十分にありえたのだ。
「久しぶりね。すっかり男の子っぽくなっちゃって」
人懐こい笑顔とハキハキした話し方は変わっていない。
「…久しぶり、です」
前は彼女にどんな口の利き方をしていたかと少し英知は考えて、やはり語尾に丁寧語を付け足した。
「当たり前よね。もう5年も経ったんだもの」
明るく話す彼女に、英知は笑みを返した。その複雑な表情に気付く気配もなく、彼女はたくさんのファイルを抱え直すと、「もう行かなくちゃ」と断って階段を降りて行った。その背中をちらりと見送って、英知は止めていた足を動かした。
けれども、すぐに足は止まる。
───もう5年? ……まだ5年?
「……っ!」
胸の奥からこみ上げる吐き気を、英知は右手で口を覆って押さえつけた。倒れそうになる体を、左手を壁について支える。
目を固く閉じて、すべての感覚をシャットダウンしようとするが、耳鳴りのように消えない音が、それを阻む。その恐ろしさを知る英知は、必死に理性を保とうと耐える。少しでも気を抜けば、雪崩のようにすべての感覚を侵される。
まずい。こんなところで発作が起きたら───
「大丈夫?」
不意に肩を叩かれた。それに引き戻されるように、英知の意識ははっきりしていく。耳鳴りが、少しずつ遠のいて行く。
振り向くと、高校生くらいの少年が立っていた。
2010年初出。2019年改稿。




