第6話 のん、猫を養いたい
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その頃。
コンビニから少し離れた駅のホーム。
終電にはまだ早い時間帯だが、仕事帰りの会社員たちでそこそこ賑わっていた。
そのベンチに。
一人の女性が座っていた。
肩までの赤髪ボブ。
白いジャケット。
黒のインナー。
細身のパンツスタイル。
仕事帰りのオフィスレディ。
乃村実莉、二十八歳。
仕事では頼れる姉御肌。
社内外から信頼も厚い。
後輩からの相談も多い。
広報担当として社外とのやり取りもそつなくこなす。
いわゆるデキる女である。
そんな彼女が今。
ベンチの上で顔を真っ赤にしていた。
「やば……」
小さく呟く。
数十分前。
残業を終えた実莉は職場近くのコンビニへ立ち寄っていた。
甘いものでも買って帰ろうと思っただけだった。
それなのに。
帰り道でナンパに遭遇した。
しかも結構しつこいタイプ。
断っても断っても離れてくれず。
正直かなり困っていた。
そこへ現れたのが――
あの青年だった。
グレージュのマッシュヘア。
少し眠そうな目。
気だるげな雰囲気。
黒い服をゆるく着こなした高身長。
整った顔立ち。
そして。
無愛想そうなのに妙に優しい。
「やば……」
もう一度呟く。
思い出すだけで顔が熱い。
恋。
ではないと思う。
多分。
きっと。
おそらく。
だが。
なんというか。
「養いたい……」
ぽつり。
本音が漏れた。
「猫っぽい……」
「なんか飼いたい……」
自分でも意味が分からない。
だがそんな感情だった。
すると。
背後から声が聞こえた。
「え、なんか飼いたいんすか?」
「へっ?!」
実莉は飛び上がった。
勢いよく振り返る。
そこには。
明るい茶髪。
癖っ毛。
人懐っこいタレ目。
大型犬みたいな笑顔。
国崎翔馬が立っていた。
「なんでいんの!?」
思わず叫ぶ。
国崎は首を傾げた。
「いや、普通にここ会社の最寄り駅っすけど」
「そういうことじゃなくて!」
近付いてきた瞬間。
ふわりとアルコールの匂いがした。
実莉が眉をひそめる。
「……飲み会か」
「っす」
「元気だなぁこんなど平日に……」
呆れ顔で言う。
すると国崎は笑った。
「付き合いっすよ付き合い」
そう言ってから。
じっと実莉を見る。
「それより」
「ん?」
「のん先輩も顔赤いっすよ?飲みました?」
「え」
反射だった。
両手で頬を覆う。
隠す。
全力で隠す。
「こ、これは違っ!」
「ふふ」
国崎が笑う。
そして。
「かわい」
自然に言った。
実莉が固まる。
国崎は何も気にしていない。
本当に何も考えず言っている。
だから余計にタチが悪い。
実莉はぷいっと顔を背けた。
「あんたほんと距離感バグってるわ」
「えー」
国崎が不満そうな声を出す。
「冷たー」
そのタイミングで。
ホームにアナウンスが流れた。
『まもなく電車が到着します』
風が吹く。
電車がホームへ入ってくる。
「方向一緒なんで途中まで帰りましょー」
「勝手について来ないでよ」
「偶然です偶然」
絶対違う。
だが言っても無駄なので実莉は諦めた。
二人で乗り込む。
車内はそこそこ混んでいた。
空席は一つだけ。
国崎が即座に言う。
「どうぞ」
「ん?」
「座ってください、のん先輩」
「いいの?」
「はい」
国崎は満面の笑みで頷く。
そして。
「俺、年上敬うタイプなんで」
ニコッ。
腹が立った。
絶妙に腹が立った。
実莉は席へ向かおうとしていた足を止める。
方向転換。
ドアの前へ移動。
「やっぱ座んない」
「えっ」
「完全におばあちゃん扱いしたじゃん今」
「してないっす!」
国崎が慌てて追いかけてくる。
「そんなつもり全然ないんですが?!」
「絶対あった」
「ない!」
「いやあった」
「ない!」
小学生である。
結局二人並んでドア前に立った。
しばらく無言。
電車の揺れる音だけが響く。
すると。
思い出したように国崎が口を開く。
「そういや」
「ん?」
「何飼いたいんすか?」
「ぶっ!?」
思わずむせた。
掘り返すな。
なんで覚えてるんだ。
国崎はじーっと見ている。
大型犬のような目で。
実莉は視線を逸らした。
脳裏に浮かぶ。
グレージュの髪。
眠そうな目。
気だるげな雰囲気。
助けてくれた青年。
「……猫?」
「猫?」
「猫に近いな」
「へー」
国崎が感心したように頷く。
「先輩猫好きなんすか」
「好きとかじゃないけど」
実莉は腕を組む。
「まぁ養いたい」
「飼いたいから養いたいになってる」
「いいの!」
実莉が即座に反論する。
「とりあえず可愛いから飼いたいの!」
「ふっ」
国崎が吹き出した。
肩を震わせている。
「ほんと案外可愛いもの好きっすねぇ」
「悪いか!」
「いや全然」
国崎は笑う。
優しい顔だった。
そして小さく呟く。
「そういうとこ可愛いんだけどなぁ」
「ん?」
「何でもないっす」
ちょうどその時。
電車が駅へ到着した。
ドアが開く。
実莉は勢いよく降りる。
「私ここだから!」
「送りましょうか?」
「いやいい!!」
即答である。
「でも1人だとナンパされるかもっすよ?」
ちょーどそのナンパ帰りなんだよ、今。
心の中でツッコミを入れる。絶対口にはしないが。
国崎が一緒に降りようとした瞬間。
実莉は両手で押し返した。
「いいからあんたは帰りなさい!」
「えー」
「気使わなくていいのにー」
「そういう問題じゃない!」
本当にそういう問題ではない。
国崎がついて来たら余計疲れる。
「じゃあまた明日!」
「はーい」
ドアが閉まり始める。
その瞬間。
実莉は指を差した。
「そうだ!」
「ん?」
「明日の資料!ちゃんとまとめといてね!」
「げぇ……」
国崎の顔が一気に曇る。
「パワハラだ……」
「仕事です」
「ブラック企業だ……」
「自業自得」
「のん先輩ひどい」
電車が動き出す。
国崎はガラス越しに不満そうな顔をしていた。
実莉は思わず吹き出した。
電車は夜の街へ走り去る。
ホームに一人残された実莉は。
ふと。
空を見上げた。
そして。
思い出す。
グレージュの髪。
眠そうな目。
助けてくれた青年。
「……猫だな」
誰にも聞こえない声で呟く。
その頬は。
まだ少しだけ赤かった。
5周年記念イベントの日は刻々と迫っているのだった。
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