第45話 相合傘
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海斗から夏祭りの誘いが届いてから、一週間ほどが経ったある日の夕方。
都内の広告代理店オフィス。
少し早めに仕事が片付いた実莉は、珍しく定時で帰れそうだった。
普段なら素直に嬉しいはずなのに、今日はそうでもない。
実莉は小さくため息をつきながら、オフィスの窓の外へ視線を向けた。
夏至が近づくこの季節。
本来ならまだ明るい時間帯だ。
だが今日は違った。
「あーあ、まだ降ってる……」
六月初旬。
今年は暑くなるのが早かった分、梅雨入りも例年より少し早かったらしい。
昼過ぎから降り始めた雨は、いつの間にか雷を伴う激しい雨へと変わっていた。
分厚い雲に覆われた空は、夕方前だというのに薄暗い。
「こんな中帰るの嫌なんだけど……」
スマホで雨雲レーダーを確認する。
だが、雨が止む気配はない。
駅までは徒歩十分ほど。
雷雨の中を歩くには少し遠い距離だった。
タクシーを使おうかとも思った。
しかし、オフィス前のロータリーを見下ろし、タクシー待ちの長蛇の列を見た瞬間、その考えは消えた。
今日は曇り予報だった。
傘を持ってきていない人も多いのだろう。
幸い、実莉は折りたたみ傘を持っている。
ただ――。
「歩くか……」
そう呟き、オフィスの窓際から離れ、エレベーターへ向かう。
エントランスホールに降り、
鞄から取り出したのは、普段日傘として使っている小さめの折りたたみ傘だった。
普通の雨なら十分。
だが今日の豪雨相手では、正直心許ない。
実莉が困ったように傘を見つめていると――。
「のん先輩!!」
エントランスに響く大きな声。
驚いて振り返る。
少し離れた場所から、大きく手を振りながら駆け寄ってくる男性社員の姿があった。
茶色がかった癖っ毛。
人懐っこい笑顔。
180センチ近い長身。
どこか大型犬を思わせる雰囲気の青年。
国崎翔馬だった。
「のん先輩っ……!」
ようやく追いついた国崎は肩で息をしながら笑う。
「良かった……! 間に合った!」
「そんな大声で何回も呼ばなくても聞こえてるから。」
呆れたように実莉が言う。
「いや、エレベーター乗る直前にも呼んだんですけど無視されたんで!」
「ごめんそれは聞こえなかった。」
「だから今回は大声で呼びました!」
「もしかして……」
実莉が目を丸くする。
「階段使って降りてきたの?」
「うっす!」
「体育会系すぎる……」
「褒め言葉ですよね?」
ケラケラ笑う国崎。
「そんなことより。」
国崎は実莉の手元の小さな傘を見る。
「のん先輩、この天気の中、その傘で帰るつもりですか?」
「そうだけど……」
「だめです。」
即答だった。
「絶対びしょ濡れになります。」
そう言いながら、国崎は自分の持っていたビニール傘を差し出す。
「入ってください。俺の傘に。」
「……へ?」
あまりに自然な申し出に、変な声が漏れる。
「嫌ですか?」
少しだけ不安そうに覗き込んでくる。
「あ、いや……! 嫌じゃないんだけど!」
実莉は慌てて首を横に振った。
「気持ちは嬉しいんだけど、
そんなことしたらくにも濡れちゃうでしょ?」
「全然大丈夫です」
国崎は即答する。
「むしろ入ってくれた方が嬉しいかもしれないですし……」
「え?」
「あ、いや、その……」
国崎は視線を逸らした。
「のん先輩のために濡れるなら本望です。」
「なにそれ」
思わず実莉が笑う。
つられるように国崎も照れ笑いを浮かべた。
「行きましょうか。」
国崎が傘を開く。
「駅まで。」
「……じゃあ、お言葉に甘えようかな。」
軽く頭を下げ、実莉は傘の中へ入った。
二人は並んで歩き始める。
雨脚は相変わらず強い。
風が吹くたび、濡れないよう自然と距離が近づいた。
(近っ……)
国崎の心臓がうるさい。
隣を見る。
肩まで伸びた艶やかな赤い髪。
整った横顔。
ふわりと香る柔軟剤の匂い。
――俺、今のん先輩と相合傘してるじゃん。
そう実感した瞬間、国崎は慌てて前を向いた。
普段ならいくらでも話題が出てくる。
なのに今日は何も出てこない。
聞こえるのは雨音だけ。
しばらく沈黙が続いた。
「ほんと、ごめんね。」
そんな中、先に口を開いたのは実莉だった。
「巻き込んじゃって。」
「リュック濡れちゃうでしょ?」
そう言いながら、傘を少し国崎側へ押し戻す。
指先が触れた。
「あっ……」
トクン。
国崎の心臓が跳ねる。
しかしすぐに我に返る。
「だめです。」
国崎は慌てて傘を実莉側へ戻した。
「俺の荷物より先輩優先です。」
「でもノートパソコン入ってるでしょ?」
「防水加工なんで大丈夫です。」
「でも――」
「大丈夫です。」
また押し返す。
また戻される。
数回繰り返したところで――。
「ふふっ。」
「何してるんだろう、私たち。」
「俺も分かんないです。」
二人同時に笑った。
結局、傘は二人の真ん中に落ち着いた。
そしてまた沈黙。
しばらくして。
「いつもごめんね。」
実莉がぽつりと言った。
「え?」
「気を遣わせてばっかりだなって思って。」
「この前だって、落ち込んでた時にお昼誘ってくれたし。」
「今日だって傘入れてくれたし。」
「ほんと気の利く後輩だなって思っちゃう」
少しだけ照れくさそうに笑う。
「でもさ、」
「今日の天気予報だけで、こんな大きな傘持ってきてるなんて、ほんと用意周到だね。」
「私は折りたたみ傘しか持ってこなかった。」
「まさか準備の面で、くにに負けるとは思わなかったなぁ。」
「いやいや。」
国崎は苦笑した。
「俺、今日傘持ってきてなかったですよ。」
「これはロッカーに置いてた置き傘です。」
「なーんだ。」
実莉が笑う。
「じゃあ、くにも普通に忘れてきてたんじゃん。」
「なんか安心した。」
「え、ひどくないですか?」
「思ったこと言っただけ」
楽しそうに笑う実莉。
その横顔を見ながら、国崎は思う。
もし今日、本当に傘を持ってきていたら。
先輩に一本渡して終わっていたのだろうか。
そっちの方がスマートだったのだろうか。
――いや。
たぶん違う。
もし二本持っていたとしても。
きっと俺は、一緒に入ろうって言っていた。
(何考えてんだ俺……)
慌てて首を振る。
「良かった。」
実莉が前を見る。
「無事着いたね。」
駅の明かりが見えてきていた。
「っすね。」
もう少しだけ。
この時間が続けばいいのに。
そんな小さな願いは、
傘に跳ね返る雨の音に飲み込まれていく。
「ありがとう。」
改札前の屋根の下。
実莉が笑う。
「本当に助かった。」
「いえ。」
国崎は畳んだ傘を軽く振った。
「もし良かったら――」
先輩の最寄り駅からも傘、さしましょうか。
そう言おうとした、その時だった。
「実莉さん?」
後ろから声が聞こえる。
振り返る。
グレージュのマッシュヘア。
前髪の隙間から眠たそうな綺麗な二重が覗く。
朝倉晃だった。
「あ、晃くん!?」
晃くん。
互いを名前で呼び合う親しげな距離感。
その光景を見た瞬間。
チクリ
国崎の胸が、なぜか少しだけ痛んだ。
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