第八十七話 王宮主催・超大型チャリティー公演
ロックダウンが解除され、王国に再び活気が戻り始めた。
だが、賑わう王都とは対照的に、王宮の懐は冷え込んだままである。
防疫対策と休業補償に予備費を全額投入した結果、金庫の底が見えているのだ。
しかし、そんな時こそ立ち止まっている私たちではない。
何せ、世紀のビッグイベントである、殿下とイザベラ様の結婚式まで三ヶ月に迫っているのだから。
執務室に書類を捲る乾いた音と、決裁印を叩きつける鈍い響きが交互に重なる。
私と殿下の連携は阿吽の呼吸だが、息が合いすぎるせいか、たまにイザベラ様から射抜くような嫉妬の視線が飛んでくる。
もっとも、私にはどうでもいいことだ。
「リリアナ、年末の予算案だが、農務省がまた桁を間違えている」
「そちらは既に修正済みです。担当者の給与から天引きする旨の通知書も添えてあります」
「悪くない。採用だ」
「殿下、こちらは隣国からの親善大使の接待リストです。アレルギー情報は確認済み。ハニートラップの危険性がある女性外交官は、ミハイル様の席の近くに配置しました」
「ふっ、相変わらず完璧な手配だ。あいつなら喜んであしらってくれるだろう。それも採用だな」
殿下は微かに口角を上げ、私の差し出す書類へ淀みなくサインを走らせていく。
――平和だ。
このまま定時まで無事に業務を消化できれば、私には至福の一時が約束されている。
手元のバインダーの中には、以前取り寄せた『王都厳選・優良ブリーダーカタログ』を密かに挟んでいた。
既に付箋だらけになるほど熟読し、運命の出会いを果たす準備は万端。今日こそは何が何でも定時退庁を勝ち取り、目星をつけていた王都第一区のペットショップ『ル・ビジュー』へ直行するのだ。
(えへへ……もふもふの白猫か、もしくは気品ある黒猫がいいかな……)
愛らしい姿を想像すると、いつもの無表情がだらしなく崩れそうになる。
私は誤魔化すように咳払いを一つ落とし、必死に堪えた。
けれど、私の長年の経験則が再び警鐘を鳴らしている。
この執務室において、平和な時間が三時間以上続いた試しはない、と。
凄まじい衝撃音と共に、重厚な強化ミスリル扉が蝶番を軋ませて押し開かれた。
「リリアナ! 愛し過ぎて堪らないあなた! 巷で演劇が流行り始めましたわ!」
高らかに叫ぶイザベラ様が身に纏っているのは、舞台衣装を思わせるクラシカルな意匠のドレスだ。
上半身は体にぴったり沿うコルセット風の仕立て。大きく開いたデコルテに、情熱的な深い赤のシルクが映える。胸元には一粒のサファイアが輝き、悲劇のヒロイン『ジュリエッタ』を体現したようなロマンチックな出で立ちである。
ただ、それを着る本人の瞳があまりにもギラギラと輝いているせいで、悲劇の結末に泣き寝入りせず、自力で運命を切り開きそうな気迫を感じる。
「……演劇だと? イザベラ、今はそのような芝居にかける銅貨一枚すら惜しい状況だ。それだけではない。このままでは、結婚式の予算まで削ることになるぞ」
「何ですって!? 私たちの一生に一度の晴れ舞台を『地味婚』にするおつもりですの!? ノンノン、そのような悪夢は、私の美学が許しませんわ!」
イザベラ様は短剣のように鋭い扇子を勢いよく広げると、私のデスクへ一枚の羊皮紙を突きつけた。
そこには『王宮主催・超大型チャリティー公演』と大仰な文字が躍っている。
「だからこそですわ! ロックダウンが解除された今、街では『演劇』が大ブームですのよ! 民は娯楽に飢え、国庫は金に飢えていますの! ならば答えは一つですわ! 私たちが流行の最先端たる舞台に立ち、民には笑顔を、国庫には潤いをばら撒くのですわ!」
「なるほど、興行ですか。確かに、殿下とイザベラ様が出演となればチケットは即完売するでしょう。悪くない収益が見込めますね」
私が即座に皮算用を始めると、イザベラ様が満足げに頷く。
「そうでしょう! それに私、気付きましたの。次期王太子妃たるもの、ただ美しいだけでは務まりませんの。他者の人生を演じ、人の心の機微を知る……そう、演劇こそ、結婚式に向けた究極の『花嫁修業』なのですわ!」
「……相変わらずこじ付けが極端すぎる修行だな」
「演目は決定済みですわ! このドレスに相応しい愛と悲劇の最高傑作……『ロメオとジュリエッタ』ですわ!」
古典中の古典。敵対する家に生まれた男女の悲恋だが、私には目の前で鼻息を荒くするヒロインの辞書に、『自害』という単語が存在するとは思えない。
「……して、イザベラよ。配役はどうするつもりだ?」
「ふふん、もちろんヒーローのロメオ役は、あなたですわ!」
「悪いが俺は忙しい。拒否する」
「残念ながら拒否権はありませんわ! 既にポスターは印刷済みですもの!」
イザベラ様が広げたポスターには、『主演:アレクセイ・フォン・グラン・カイゼル』と刷られていた。
さすが、こういう時だけ仕事が早い。
「そして、ヒロインのジュリエッタ役は当然……」
イザベラ様が胸を張りながら自身の名を紡ごうとした時、聞き覚えのある高飛車な声が執務室に響き渡る。
「お待ちなさい! その配役、異議ありよ!」
勢いよく押し開かれた扉から、水色の風が吹き込んだ。我が物顔で現れたのは、カトレア様だ。
背後には、私と同じく今日も地味な事務服を着たエステナも控えている。
「また、カトレア? 言っておくけれど、本来ここは関係者以外は立ち入り禁止なのよ!」
イザベラ様が扇子を突きながら高らかに言い放つが、殿下は「イザベラ、お前も本来なら部外者だぞ……」と、小さく呟いた。
しかし、殿下の呟きなど意に介する様子もないカトレア様。さらに廊下から現れた太鼓持ち軍団が一斉にさえずり始める。
「潤いも予算も干からびておりますわ!」
「乾いた王国に恵みの雨を!」
「まさに湧き出る泉ですの!」
……うるさい。非常にうるさい。
だが、彼女たちが言っていることは今回ばかりは図星かもしれない。
カトレア様は私の執務机に、分厚い封筒を滑らかな動作で置いた。
「リリアナ、ここに金貨五千枚の小切手があるわ」
「金貨五千枚ですか……」
「そうよ。今回の公演費用は全額、我がシュトゥルツフルート家が負担して差しあげるわ!」
「……本当によろしいのですか?」
私の眼鏡がわずかにズレる。
――金貨五千枚。それは現在の王宮の予備費の穴を埋め、さらにお釣りがくる。上手く運用して特別手当として処理すれば、私の南の島の老後資金まで潤う莫大な金額だ。
「ええ。ただし、出資には条件があるわ」
扇子風のバチで口元を隠したカトレア様が、勝ち誇ったように「ふっふん」と鼻を鳴らす。
圧倒的な資本を握った者の余裕と優越感に満ちた仕草だ。
私は極めて冷静に、かつワントーン高い声で応じる。
「金貨五千枚の価値に釣り合う条件とは何でしょうか?」
「簡単なことよ。ヒロインの『ジュリエッタ役』をわたくしが務めること。そして、この陰気な悲劇の脚本を最高に甘い『ハッピーエンド』へ書き換えるのよ! 当然、相手役であるロメオは、アレクセイ殿下ではなく、私のミハイル様へ変更することが絶対条件よ!」
私の脳内で弾き出された『芸術の尊厳、及び主君の配役』と『金貨五千枚』の天秤は、一秒を待たずに後者へ振り切れた。
「承知いたしました! 直ちに脚本と主演キャストの変更手配に入ります!」
「なっ……!? リリアナ、貴女という人は!」
イザベラ様が握りしめた扇子の骨組みが、限界を告げるように軋んだ。
深紅のドレスのフリルが怒りで小刻みに震え、私を信じられないものを見る目で見下ろしている。
「あなた! この金の亡者を止めてくださいませ! これは崇高な芸術への冒涜ですわ!」
イザベラ様は、すがるような声で殿下へ振り返る。
だが、執務机の奥に座る殿下の口元には、隠しきれない歓喜の笑みが浮かんでいた。
「素晴らしい提案だ。カトレア嬢、直ちにその条件で手を打ってやる」
「あなたまで、そんな……!?」
殿下は淀みない声で出資の受け入れを力強く宣言した。
執務室にイザベラ様の悲鳴に近い声が響くものの、殿下の表情に一片の迷いは見られない。
「イザベラよ、そもそも俺が舞台に立つなど、初めから無理があるのだ。ミハイルに役を譲れる上に、金貨五千枚で王宮の予備費の穴まで埋まる。これほどの吉報が他にあるか?」
「で、ですが、あなた! それでは、私のロメオが……!?」
「リリアナ、直ちに契約書を作成しろ」
「はい。既に羽ペンの準備は整っています。イザベラ様、今回ばかりは背に腹は代えられません。これは国益なのです」
私は予めインクを含ませておいたペン先を羊皮紙へ走らせつつ、事務的な声で現実を突きつけた。
金貨五千枚を前にしては、いかなる崇高な芸術も無力なのだ。
「ああっ……私の言葉が完全に無視されていますわ!」
王宮の台所事情と己の労働環境。
二つの重圧から解放された殿下と、私の老後資金の潤い……いや違う。
これもこの国を救うための崇高な決断だ。
私と殿下による完璧な連携の前に、イザベラ様の抗議は、分厚い資本の壁へと虚しく吸い込まれていった。
(猫……老後資金……南の島……えへへ……)
私が輝かしい未来図を思い描いている前で、カトレア様は再び勝ち誇ったような声を響かせた。
「おーほっほっ! 見たかしら、イザベラ! これでわたくしはミハイル様と結ばれ……いえ、ロメオ様と愛を誓い合うのよ!」
カトレア様の甲高い笑い声が執務室に反響する。
完全に梯子を外され、敗北を喫したイザベラ様は、呆然と立ち尽くしていた。
しかし、イザベラ様がそのまま大人しく引き下がるような、か弱い令嬢であるはずがなかった。




