第八十六話 想定以上の沈静化
「――というわけで、前線から市街地への物資補給は無事に完了いたしました」
王太子執務室。
私は決裁書類と共に報告を締めくくると、殿下は深く息を吐いて背もたれに身を預けた。
窓から遠く大正門を見下ろせば、貴族たちの私有馬車によって膨大な物資が途切れることなく配給されている。
「イザベラの毎度の謎の感情論で特権階級を動かすとは……。まあ方法はどうあれ、助けられたな」
「はい。ただ、物流の問題は一時的に解決はしましたが、肝心の『新型熱病』の対策は依然として白紙のままです」
「ああ、すでに市中に入り込んだ病魔の進行を止めるには、新たな手が必要だが……」
殿下の瞳に再び深刻な色が宿る。
冷え切った執務室を沈黙が覆い尽くした時だ。
バンッ! 堅牢なミスリル扉が、蝶番を軋ませて乱暴に押し開けられた。
(また、イザベラ様ですか……)
私が思わず呆れた視線を向けた先、衛兵の制止を振り切って飛び込んできたのは、予想に反して白衣を黒く焦がし、髪を振り乱したララーナ姉さんだった。
ララーナ姉さんの両手には、澄んだ青色の液体が満たされたフラスコが握られている。
「殿下、新型熱病の特効薬が完成しました!」
「それは本当か!?」
「はい。ですが、致命的な問題があります」
歓喜から一転、ララーナ姉さんは顔を強張らせてフラスコを高く掲げた。
「……致命的な問題だと?」
「はい。この薬の主成分となる『鋼殻樹の実』の抽出工程が難しく、量産化に著しく時間がかかってしまいます」
「量産するまでに、どれくらいかかるのだ?」
「王都全域の民を救う量を生産するには、どう見積もっても三ヶ月はかかります」
「三ヶ月だと……!? なぜ、それほどの時間を要するのだ?」
「岩のように硬い殻を手作業で削り、高熱の釜で三日三晩休まずに掻き混ぜ続けなければならないのです」
「ならば、魔法や錬金術の釜を使えばよかろう?」
「それが……魔力を通すと成分が変質してしまい、効果が出ないのです。完成させるには純粋な物理的な圧力と、絶え間ない攪拌作業だけが薬効を引き出せるのです」
ララーナ姉さんは痛ましげに目を伏せ、突きつけるように過酷な現実を口にする。
「現在、実家の近隣の村で父や妹たちが声をかけてくれたおかげで、数百名の村人たちが総出で協力してくれています。ですが、王国の民全員を救うとなれば、巨大な釜を無数に並べる広大な敷地と、交代制で釜を掻き混ぜ続ける数千人の人手が欠かせません。到底、村の規模で賄えるものではなく……急いでも三ヶ月が限界なのです」
――三ヶ月。それは事実上の死刑宣告に等しい。
すでに市中へ広まりつつある病魔が、私たちにそれほどの猶予を与えてくれるとは思えない。
天を仰ぐ殿下の横顔に、隠しきれない疲労の色が浮かぶ。
「……薬の量産場ならば、王宮前広場を特設の場として開放するとしても、リリアナよ、肝心の人手はどうする? 騎士団の訓練兵を動員しても足りないか?」
「残念ですが、彼らには治安維持という最重要任務があります。仮に広場へ無数の釜を並べられたとしても、それを三日三晩、休まずに掻き混ぜ続けるだけの膨大な人員は到底確保できません」
私が突きつけた計算結果が、執務室の空気をさらに重く沈ませる。
場所の目処は立っても、稼働させる人手が足りない。もはや王宮の権力だけで解決できる話ではないと、私たちは為す術なく押し黙るしかなかった。
万策尽きたと静寂が降りたその時。
ミスリル扉の向こうから、甘く撫でるような声が聞こえる。
「困っているようだね、兄上。僕にも手伝わせてくれないかな?」
入り口に立つのは、純白の軍服を身に纏ったミハイル様だった。
微笑みを浮かべるミハイル様の背後には、熱狂的な眼差しを向けるカトレア様と、無表情で控えるエステナの姿もある。
「ミハイルか……手伝うと言っても、これは優雅な茶会などではない。過酷な肉体労働になるぞ」
「分かっているよ。でも、カトレア嬢が僕のためにと極上の茶葉を届けてくれたんだ。ならば、僕も王国のために『最高の一杯』を淹れる義務があるからね」
涼やかな瞳を伏せ、ミハイル様はバルコニーへ視線を巡らせる。
眼下に広がる王宮前広場。
そこには港での『愛の慈善活動』を終え、高揚感と疲労の顔つきで帰路についた貴族たちがいた。
「皆の者、どうか聞いてほしい!」
バルコニーへ歩み出たミハイル殿下の声が、広場の空気を震わせる。
足を止めた貴族たちが一斉に見上げると、ミハイル様は胸に手を当て、どこか切ない瞳で語りかけた。
「未知の病魔に脅える王国を救うため、どうか君たちの力を貸してくれないだろうか! 共に大釜を掻き混ぜ、この国を救う『奇跡の茶』を淹れよう。君たちの汗と忠誠で煮出されたその一杯を……僕は心から味わいたいんだ」
息を呑むような静寂が落ちた直後、極寒の労働で疲労困憊だったはずの貴族たちが顔を熱く紅潮させ、我先にと忠誠を叫び上げている。ミハイル殿下の甘い毒のような言葉が、特権階級の理性を完全に焼き切ってしまったのだ。
「ああ……ミハイル様のなんと尊きお言葉! エステナ、直ちに商会が持つ最大級の大釜を全て広場へ運び込ませなさい!」
狂乱の中で、誰よりも早く限界を突破したのはカトレア様だ。
恍惚と頬を染めたカトレア様は、私物混同の極みとも言える資本力を惜しげもなく開放したようだ。
その傍らで、エステナが手元のバインダーへペンを走らせた。
「計算終了しました。港湾での労働を終えた貴族と使用人合わせて計三千名を徴用。ミハイル殿下の『笑顔の激励』を五時間おきに挟む二十四時間シフトを組めば、薬の生産は七日で済みます」
エステナが弾き出した生産スケジュール。
医学の常識をへし折られて呆然とするララーナ姉さんの隣に、いつのまにか現れたイザベラ様が純白の扇子を広げた。
「私も皆様の情熱を絶やさぬように、愛のポエムを朗読し続けますわよ!」
私物混同、王族のカリスマ、そして理不尽な精神論。
それらが噛み合った時、三ヶ月のタイムリミットは、論理と熱狂によって粉砕されたのである。
◇
七日後。
王宮前広場には、泥と煤にまみれながらも、大釜を掻き混ぜ続ける貴族たちの姿があった。
「右回転百回! 次は左回転だ!」
「侯爵閣下! 鋼殻樹の粉砕が追いつきません! もっと腰を入れてすりこぎを!」
「甘ったれるな! ミハイル殿下が見ておられるのだぞ!」
バルコニーから優雅に微笑みかけるミハイル様と、謎の愛のポエムを読み上げるイザベラ様の存在が、彼らの肉体的な限界を麻痺させている。
かつてサロンで紅茶を傾けていた特権階級たちは、腕まくりをして汗を流し、互いを讃え合う謎の集団へと進化を遂げていた。
彼らの狂気的な労働力によって量産された特効薬は、次々と市街地や前線へ配送され、『新型熱病』の脅威は瞬く間に鎮静化へと向かっていった。
◇
「――以上が、今月の被害総額と特効薬の配給完了報告となります」
私はバインダーを閉じ、決裁書類を殿下の机に置いた。
「まさか本当に七日で国を救うとはな……。ミハイルの求心力と、イザベラの煽動力には恐れ入る」
「はい。ただし、極限状態の労働を終えた貴族たちから『ミハイル殿下のお茶会に参加する栄誉を与えてほしい』との陳情が殺到しておりますが」
「……ふん、特効薬入りの茶でも飲ませて大人しくさせればいいだろう」
「承知いたしました」
冷たい隙間風が吹き込む執務室。
工務大臣がいまだに『イザベラ様に耐え得る扉』の設計図で頭を抱え続けているため、入り口は解放されたままである。
だが、どれほど過酷な冬の寒さが押し寄せようとも、この理不尽で型破りな彼らがいる限り、この国が倒れることはないだろう。
私は眼鏡を押し上げ、山積みの業務に手をかけた。




