午後の部
休憩が終わると、午後の主演を務めるコールドンたちが衣装に袖を通し、舞台袖へ向かう。午前の成功があったからこそ、劇場全体には午前とはまた違う、期待と緊張の入り混じった熱気が満ちていた。
「コールドン、緊張してるか?」
舞台袖の背中に、声をかけてみる。
「ううん、そんなに」
「なーんだ。今度は俺がツボ押ししてやろうと思ったのに」
「え、いらないよ。……あれ、嘘だもん」
「ええー!? 嘘だったのか!!」
思わず声が裏返った俺を見て、コールドンが耐えかねたように吹き出す。隣のシェリーも口元を袖で押さえてくすくす笑った。
「サンキュー、コールポート。今ので完全にほぐれた」
してやられた、と分かっていても、あいつの柔らかい笑顔を見ると結局こっちまで笑ってしまう。
「絶対嘘つくなよ、次からは」
「ふふ、それは約束できないな」
軽口を交わし合っているうちに、舞台監督らしき生徒が慌ただしく袖へ駆け込んできた。
「皆さん、開演5分前です!」
その声を合図に、それまでの軽やかな空気が一変する。コールドンは小さく息を吐き、台本を握る手にぐっと力を込めた。シェリーも静かに目を閉じ、何かを確かめるように胸に手を当てている。
俺は二人から少し離れた位置に立ち、その横顔を見守った。午前の自分と同じ緊張が、今度は違う形で二人の中を巡っているのが分かる。
「頑張れ、二人とも」
短く声をかけると、コールドンが振り向いて、いつもよりわずかに硬い笑みを見せた。
「うん。……見ててね」
ブザーが鳴る。重厚な幕が、再びゆっくりと持ち上がっていった。
*
午後の部。今度は俺が舞台袖の影から、コールドンたちの本番を息をのんで見守っていた。
照明がゆっくりと落ち、客席のざわめきが静まると、可憐でどこか哀愁を帯びた柔らかな音楽が流れ始める。
舞台中央に現れたのはシェリーだ。午前の公演を経たからか、その佇まいには一層の磨きがかかっていて、観客すべての視線が一瞬で吸い寄せられていくのが袖からでも分かった。
「……ああ、あといくつ星を数えたら、あなたに会えるのかしら。不吉な柳……人はあなたを悲しい恋の象徴と呼ぶけれど。そうやって風に揺れながら……私とチャンの恋を嘲笑っているの……?」
舞台の反対側から、コールドン演じるチャンが静かに登場する。
「クーンセ様……! すみません、屋敷の者たちの目を盗むのに手間取ってしまって……」
暗がりの中で、ふたりが静かに抱き合う。
俺は思わず息をのんだ。午前中に俺が発したのと同じ台詞のはずなのに、コールドンの演じるチャンにはどこか底知れぬ影があり、胸を刺すような切実さがにじみ出ていた。俺が演じたまっすぐなチャンとは、まるで別人だった。
「こうしてあなたにお会いするたび……私は己の身分を呪います。ですが……たとえ何が私たちを隔てようとも……あなたへの想いだけは、決して手放しはしない……!」
「私も同じよ。たとえお父様がこの恋を阻もうとも……あなたへの愛は変わりません。永遠に」
銀の翼を模した櫛が手渡される。一筋のライトを浴びて、繊細な羽の彫刻が生きているように輝いた。
「この櫛を私だと思って持っていてください。これで、私たちはいつでも一緒です」
「……ああ。この銀の翼のように……私に翼があったなら……」
「私たちに翼があったなら……どこまでも飛んでいけるのにね。ずっと、一緒に……」
*
「なんだと!! チャンをここへ呼べ!」
官吏の腹の底から響くような怒声。引っ立てられてきたコールドンのチャンは、取り乱すこともなく静かに跪いた。
「お呼びでございますか、旦那様」
「この者が昨夜、お前と娘が一緒にいるのを見たと言っている。銀の櫛まで受け取っていたとな!」
「……っ」
「調べよ!」
懐から、強引に櫛が引きずり出される。
「ありました! これです!」
チャンは悔しさをぐっと飲み込むように、静かに目を伏せた。その横顔に、俺は午前の自分の演技を重ねずにはいられなかった。同じ窮地のはずなのに、滲み出る悔しさの質がまるで違う。俺のチャンが理不尽への憤りだとしたら、コールドンのチャンには、深く暗い計算と忍耐が孕まれていた。
「身の程知らずが!書記官の分際で……娘をたぶらかすとは……!」
「……秘密にしていたことはお許しください。ですが……私たちは本気で愛し合っているのです……!」
「黙れっ!!」
振り下ろされたムチが、空気を切り裂いて激しい音を立てる。会場全体の空気が、午前よりもさらに張り詰めているのが分かった。
「こいつを今すぐ屋敷から放り出せ!! クーンセを呼べ!」
*
「お父様……! チャンに何をなさったのですか……!?」
「この親不孝者が! 貴様は婚礼の日まで塔の中に閉じ込めておく!」
「お父様!!!」
「公爵様との結納は三日後だ。それまでそこで頭を冷やすがいい」
「嫌です……! 私には心から愛する人が……!」
「チャンはすでに処分した。お前にもムチを打ってやりたいところだが……大切な貢物に傷はつけられんからな」
「なんて……酷いことを……!」
絶望の叫びを残し、舞台が暗転する。
静寂の中、たった一人で佇むチャン。
――しがない書記官の僕にとって……クーンセ様は、あまりにも眩しい高嶺の花だった。
――そんな彼女が、僕にだけ優しく微笑みかけてくれた……あの時間だけが、冷酷な屋敷の中での唯一の救いだった。
暗闇でぎゅっと拳を握りしめる仕草を見て、俺は楽屋でコールドンがびっしり書き込んでいたあのノートを思い出していた。
――彼女にふさわしい男になるために……誰よりも泥にまみれて働いた。たとえそれが、汚職の後始末であろうと。
――彼女の父親に認めてもらうためなら、どんな屈辱だって耐えた。なのに……。
――僕らが想い合っていると知った途端、奴は僕を……あっさり切り捨てた。
――努力すれば報われるなんて……全部、嘘だ。
コールドンの伏せられた瞳に、ぞっとするほど冷たい炎が宿る。
――僕から全部奪った奴を……許さない。今度は僕が、奴のすべてを奪い取ってやる。
スポットライトを浴びるその顔は、俺の知っている普段のコールドンとも、俺が演じたチャンとも違う、復讐者としての凄みに満ちていた。




