午前の部後半~休憩時間
静まり返った夜の橋を、俺とクーンセは手を取り合って全力で走り抜ける。
「はぁ……はぁ……急いで、クーンセ!」
「ええ……っ!」
背後から迫る追手の足音と怒号。繋いだ手を離さないまま、息を切らせて橋を渡り切った。
街道沿いの古びた農家に駆け込み、肩を上下させて息を整える。
「すみません……追われていて、助けてください!」
「おや、一体何事かね? あれは領主様の屋敷の兵たちだが……」
「はい。……あの屋敷から逃げてきたのです」
「ふむ……あの官吏は街でも評判が悪いからな。なるほど……訳ありの恋人たちというわけか。よい、追手が過ぎるまでここに隠れるといい」
絶妙な間合いのタスカンの演技に、客席からささやかな笑いが漏れる。だが、この穏やかな時間が長続きしないことを、誰もが知っていた。
*
夜明け前の小舟。静かな波の音だけが響く場面。
「……見て、チャン!」
クーンセが愛おしそうに水面を指さす。薄明の空が、青と金の光の帯となって水面に映り込んでいた。
「……まるで、空を飛んでいるみたいね」
「ああ。君からあの櫛をもらった夜……翼の話をしただろう? 今、それが……本当になったんだ」
二人は見つめ合い、そっと小さなキスを交わす。劇中で最も静かで、最も満ち足りた瞬間だった。
このまま時間が止まってくれればいい――演じながら、そんなことを思ってしまった。
*
月日が流れ、離れ島での穏やかな暮らし。
だが、遠くの水平線から近づいてくる複数の影に気づいた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
「クーンセ!! 家の中に隠れていろ!!」
俺は刀を握りしめ、家の前に立ちはだかった。冷酷な笑みをたたえた公爵が、兵士を引き連れて歩み寄ってくる。
「久しぶりだな、チャン。私の花嫁も誇りも、よくも奪い去ってくれたな。……では、相応の返礼と行こうか」
公爵が静かに長剣を抜く。
激しく衝突する金属音が、大講堂の天井へ何度も響いた。
圧倒的な剣技の前に、鋭い一撃を受けた俺はたまらず膝をつく。
「ぐっ……は……っ!」
家の窓の向こうで、クーンセの悲痛な悲鳴が上がった。
「お前の命もあと数時間ともつまい。その目で、我が報復の結末を見届けるがいい」
公爵の指示で、兵士たちが家へと向かう。
「やめろ……頼む、やめてくれ……!!」
ドアが破られた瞬間、家の中から激しい煙が立ち込めた。
「火をつけたか。命乞いでもすれば妾にしてやろうものを……興醒めだ。引き上げるぞ」
冷酷な足音が遠ざかっていく。
「クーンセ……!!」
床を這い、燃え盛る家へ手を伸ばし、俺はその場で力尽きた。最後にもう一度だけ彼女の手に触れたい――ただそれだけが、薄れゆく意識の中に残っていた。
*
やがて、舞台は幻想的な白い光に包まれる。
静かに横たわる俺のところへ、純白の衣を纏ったクーンセがゆっくりと歩み寄ってきた。
「……チャン」
重いまぶたを開き、彼女の顔を見上げる。
「……クーンセ……」
抱き合い、言葉もなく静かに唇を重ねた。
――やっと……二人きりになれたね。
それがチャンの想いなのか、俺自身の感情なのか、もう境界線すら分からなくなっていた。
手を取り合って立ち上がり、俺たちは光の向こうへと歩んでいく。
幕が、静かに降りた。
*
幕が下りきったその瞬間、一拍の静寂を置いて、客席から割れんばかりの拍手と歓声が沸き起こった。
幕の裏側で、俺は荒い息を吐きながら、まだ夢心地のシェリーに笑いかけた。
「シェリー……やったな! すごかったぞ!」
シェリーは胸に両手を当て、劇の余韻から抜け出せないような顔で、小さく深く頷いた。
「はい……! なんだか胸がいっぱいで、まだ夢を見ているみたいです……」
その表情を見た瞬間、俺の中にもじわじわと温かいものが広がっていった。
俺たちは、やり切ったんだ。最高の舞台を、みんなで作ったんだ。
*
次の回までの間、控室の大きなテーブルにはサンドイッチとお茶が振る舞われた。みんな重い衣装を脱ぎ、思い思いの場所でくつろぎ始める。
ダニエルとダヴェンポートは先生たちのテーブルに招かれていた。校長先生に「二人が出るだけで舞台に重みが出る」と褒められ、二人とも誇らしげに微笑んでいるのが遠目に見えた。
俺たちのテーブルは、いつものわちゃわちゃした空気にすぐ戻っていた。
「まだ背中痛え〜……」
サンドイッチをつまみながら、背中をさする。
「ダヴェンポートの奴、本番だからってムチの力、ヤバかったんだぞ。マジで立てなくなるかと思った……!」
「えー!? やだなぁ……」
コールドンが青ざめて、サンドイッチに伸ばした手を引っ込めた。
「吐くといけないし、あんまり食べない方がいいかも……」
「ふふっ」
シェリーが控えめに笑う。
「でも、すごい音でしたよね。稽古の時は、きっと手加減してたんだと思います」
「勘弁してくれよ……ほんとに……」
俺は肩をすくめて、困ったように笑うしかなかった。
すると、タスカンがそっと手を挙げた。
「あの……僕、皆さんが凄すぎて……お話も悲しくて……演じてる最中に泣いちゃいました」
「えぇーっ!?」
全員の声が揃った。
「えっ、あれ? バレてなかったんですね。何度か涙拭いてたんですけど……気づかれてなくて良かった!」
「ハハ……」
コールドンが目を細める。
「でも、分かるよ。僕も感動した。良い劇だった」
ふと、コールドンが俺を見た。
「それにさ……コールポートの演技って、心にドーンって来るんだよ。なんでかな?」
「え?」
言われて、自分でも首をかしげてしまう。
「なんか……演技っていうより、チャンとして生きてるって感じでさ。自然とそうなるんだよなー。俺が感じたまま……っていうか」
「ふーん……」
「なるほど……」
シェリーが優しく微笑む。
「だから、あんな自然で、心に触れる演技ができるんですね」
「自分の心の動きを大事に、か……」
コールドンが自分に言い聞かせるように呟いた。
「よし、午後は僕の番だ。頑張ろう……ね、シェリー」
「はい! 心を込めて、演じます!」
まっすぐな瞳で頷くシェリーを見て、俺は午前の自分の演技をふと思い返した。何も特別なことはしていないつもりだったけど、ちゃんと届いていたんだ。胸の奥が、じんわりと熱を持った。




